110話 あの夏の駅は眼前に広がって
カンカンカンカン――。
少しくぐもった警報機の高い音が、電車の到来を告げる。
その音は次第にはっきりとしてきて、同時に私を包むように響く蝉の声も聞こえてきた。木々を通り抜けた風が立てるさざめきも、微かに耳を打つ。
蝉の声? 木々のさざめき? 今は冬だったよね。どうして夏の音が聞こえるんだろう?
『まもなく、電車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側まで、お下がりください』
録音された音声が、少しかすれた声で注意喚起をした。
私は目を開ける。
するとそこには、よく見慣れた光景が広がっていた。
……駅だ。私が陽介と出会ったあの無人駅。今ではすっかり私も使う場所になった、あの駅だ。
向かいに見える田んぼはあの日と同じようになみなみと水が張られ、青い稲が太陽に向かって背を伸ばしている。
見上げた空は青く澄んでいて、入道雲が遠くに立ち上っている。
遠くの山は青々と茂り、その身にこれでもかと命を宿していた。
見渡す限り、雪はない。むしろ遠くのアスファルトからは陽炎が立ち上っているくらいだ。
足元に目を落とすと、私は白いワンピースを着ていた。頭に手をやればなにか被っている。手にとって見ればそれは麦わら帽子だった。
あの日、陽介に雪の妖精だと言われた格好のまま、私はあの日と同じベンチに座っている。
……一緒だ。何もかもがあの日と同じ。感じる季節も、聞こえる音も、私の格好や座っている位置に至る全てが、陽介と出会ったあの日と同じ。
どうしてだろうと、そんな疑問が沸く前に、私は心が安らいでいくのを感じる。
私を縛るありとあらゆるものからの解放。ここは私一人だけの世界なんだ。
遠くから電車の近づいてくる音が聞こえてきた。
電車は徐々に減速して右側からホームに入ってくると、ついには私の目の前で停まる。見る限りだと車掌さんを含めて誰一人として乗っていないようだった。
空気の抜けるような音がして、電車のドアが少しだけ開く。誰も降りず、誰も乗らない電車は、ただ静かに夏の音を聞いているようだった。
もし、もしも今見ている光景があの日と同じなのだとしたら、この後陽介が来るはずだ。
いつも優しく私を励ましてくれて、気遣ってくれて。ちょっとバカなところもあるけど、いざってときは頼りがいのある、そんな私の大好きな人。
……ううん、来るはずないか。だって陽介は由美ちゃんの彼氏になっちゃったんだもん。もう、私の隣で笑ってはくれないんだ。
「乗らないのかい?」
「……え?」
私が俯くと、左に4つほど離れたベンチから、中性的で男女の区別がつかない声が聞こえた。
振り向くと誰かがいた。そう、誰なのかは分からない誰か。
「電車、行ってしまうよ? 乗らないのかい?」
発車を知らせる笛が鳴り響く中、その誰かは首を傾げながらそう言った。
白くぼんやりとした光を放つ、不思議な人影だ。
真っ白ではなくて少しだけ青に近い白。それだけでは男女の区別も、年の頃も分からない、でもどこかで見たことのあるような人影だった。
その人影はドアを閉めた電車が動き出すのをじっと見つめていた。
「あーあ、行ってしまったね。これで次に電車が来るのは1時間後だ」
「あの、あなたは誰なんですか?」
私の呼びかけに、人影はこちらを向いた。
正確には顔がないからこっちを向いたのかどうかよく分からないんだけど、視線を感じる。
「私は誰でもないよ。やがて消えてなくなる取るに足らない存在さ。そんなことよりも本当に電車に乗らなくてよかったのかい?」
「電車は……、いいんです。私、人を待っているので」
「人を待つ? 面白いことを言うんだね。この場所には人なんて来ないよ」
「だってここは駅ですよね? 人は来るんじゃないですか?」
人影は体を揺らして笑った。なにがそんなにおかしいんだろう?
「確かに、ここは駅だ。人がたくさん訪れるべき場所だよね。でもここは君の夢の中、心象世界が作り出した場所なんだ。君が最も心安らぐと感じられる場所がここだったんだね。
でも残念だけどここには僕と君以外は存在しないんだ。まぁ、そうでなくともこの駅にはあまり人は訪れないけどね」
そして人影はまた笑った。
この人、どこかで会った気がするんだけど思い出せない。ずっと前から知っている、そんな気がするんだけど……。
「もしかして、広瀬君?」
「ん? 私は広瀬ではないよ。なんだ、まだ気にしてるのかい? 私は何者でもない、君がこの場所にいる間だけの話し相手さ。日々すれ違っていく他人のようなものだ、そう気にすることもない」
喋り口調が広瀬君に似ていたからそうかもと思ったんだけど、広瀬君はこんなに暖かい雰囲気で私と話すことはなかったかな。
でもやっぱり気になる。誰かに似ている気がするんだけど、誰だろう……?
「なんだ、そんなに気になるのかい? じゃあそうだね……、私のことは真白って呼んでくれたらいい」
「真白さん、ですか?」
「ああ、そうとも。君から見れば私は真っ白だろう? だから真白。シンプルでとても分かり易い名前だと思わないかい?」
「はぁ……」
人影改め真白さんは、ひとしきりケラケラと笑うと、笑いの余韻を断ち切るように大きくため息をついた。
「さてと……、そんなことはどうでもいいんだ。それより少し大事なお話をしよう、雪芽」
「あ、私の名前、知ってるんですね」
「ああ、もちろん知っているとも。ここは君の夢の中。その中にいる僕が君の名前を知らないわけがない」
「なるほど……?」
よく分からなかったけど、妙に納得できた。どうしてだろう? 不思議。
真白さんは楽しげだった声のトーンを少し落として、私をまっすぐに見つめて言った。
「さて雪芽。君は今自分が置かれている状況を理解しているかな?」
私が置かれている状況? えっと、冬だったのに気がついたら夏の駅に座っていて、変な人影と話をしている、ってことじゃないよね?
えっと、私はここで目を覚ます前は確か――
「あ! 私陽介が由美ちゃんと付き合い出したって聞いて、ショックで頭の中真っ白になっちゃって……。それでお母さんが帰ってきて、それから、それから……。あれ? 思い出せない……」
「うんうん、大体のことは覚えているみたいだね。重畳重畳。その後君は倒れて病院に搬送されたんだ」
「え!? 私、また倒れちゃったんですか?」
「そう。そして君は丸一日眠ったままだ」
「丸一日!? そんなに重症だったんですか?」
「まぁ重症といえば重症だね。陽介たちもだいぶ心配しているようだったよ」
「陽介……」
「ふむ……。気になるなら見てみるかい? ちょうど陽介たちも来ているようだし」
真白さんは俯いた私の顔を覗き込むようにしてそんなことを言った。
「見れるんですか!?」
「もちろん。それくらいなら造作もないさ」
そう言って真白さんは向かいのホームを指差した。
私は真白さんの指差す方向に目を向けてみたけど、そこにはただ向かいのホームがあるだけだった。
「……あの?」
「大丈夫。ほら、見えてきた」
真白さんがそう言うと、ちょうど私と真白さんの目の前に雲のような白い靄が集まってきた。
それは次第に面積を増して、まるで映画のスクリーンのように目の前に広がった。
そのスクリーンに目を凝らして見ると、徐々に色が浮かび上がってきた。
とりとめのなかった色たちは次第に形をなして、ある光景を映し出す。
『ユッキー……』
それはベッドに横たわる私と、それを切なげな目で見つめるなっちゃんだった。
見れば傍に陽介と晴奈ちゃんもいる。
陽介は顔色も悪くて、なんだかとても辛そうにしている。体育祭のときもすごく心配してくれていたし、きっととっても心配かけちゃってるんだ。
『みんなありがとう。きっと雪芽も喜ぶわ』
それからお母さんがやってきて、陽介たちと少しの間お話していた。
そして陽介は色とりどりの綺麗な花を、晴奈ちゃんはフェルトで作った手作りのお守りを、なっちゃんは千羽とはいかなくても結構な数の折り鶴を、お母さんに手渡す。
『ユッキー、早く起きなさいよね。せっかく冬休みになったのに、これじゃあどこにも遊びに行けないじゃない』
そこまで映し出したところで、スクリーンは霧のように消えてしまった。
「あっ……」
「今の君はこんな感じだ。倒れて2日目なのにまだ意識が戻らないから皆不安がっているね。陽介なんて特にひどい顔をしていた」
「陽介……」
体育祭以降はずっと健康だと思っていたのに、結局私はこうしてみんなにずっと心配をかけていくしかないのかな。迷惑をかけてばかりで私は自分が情けなかった。
……早く帰らないと。こんなところで落ち込んでる場合じゃない! 早く目を覚ましてみんなを安心させてあげなくちゃ!
「あの、真白さん! 私すぐに帰らないと!」
「まぁ落ち着いて。今目覚めても碌なことにはならない。しばらく私とのおしゃべりに付き合っておくれよ」
「碌なことにならないって、どういう意味ですか?」
真白さんはずっと遠くの山に視線を投げ、まるで愚痴でもこぼすかのように言った。
「死んでしまうんだよ。今すぐに帰れば、君は」
最初、私は真白さんがなにを言っているのか分からなかった。
あまりにも簡単に言うから、まるで現実味がなかったんだ。明日の補習が面倒くさいから、隕石でも落ちてこないかなって言うかのように。
「え、今なんて……?」
だから私は思わず聞き返した。きっと何かの聞き間違いだと信じて。でも――。
「死んでしまうと言ったんだ。君は今目覚めればただ死を待つのみとなる。だからしばらくここで僕とおしゃべりを続けるといい。幸いにも電車はまだ来ないからね」
「ちょ、ちょっと待って下さい! 死んじゃうって、どういうことですか……?」
「さっき重症だといっただろう? まぁ説明すると長くなるから省くけど、君の体は今危険な状態なんだ。君の精神状態如何では3日ほどで死に至る。でも精神と体を切り離している限りは安全だから、私がこうして君が夢を見続けるように仕向けているのさ」
「でもいつまでも目覚めないんじゃ死んでいるのも同然です! これ以上陽介たちに心配はかけられない!」
「まぁ落ち着いて。大丈夫、時が来れば君は目覚める。そしてその時はそう先じゃない」
「いつですか? いつになったら私は目覚められるんですか!?」
真白さんはピンッと人差し指を立てると、きっぱりと言い切った。
「1時間だ」
「え? い、1時間?」
想像していたよりもずっと短い時間で、私は拍子抜けしたような声を出してしまった。
真白さんはおかしそうに小さく笑うと、立てていた人差し指をくるくると回しながら説明してくれた。
「この空間はさっきも言ったとおり君の夢だ。君の最も心落ち着く空間を再現している。
そしてこの空間は現実の世界と時間の流れが違う。また詳しい説明は省くけど、君が夢を見始めてから目覚めるまで、その時間をこの空間ではきっかり1時間に当てはめてるんだ。実際に目覚めるまでに掛かった時間を1時間になるように圧縮させた空間。つまりはそんなところなのさ」
「えっと、じゃあこの駅にいる間は現実の時間の流れが速いってことですか?」
「そうそう。そしてどう頑張ってもこの空間は1時間しか存在できない。だから安心して僕とのおしゃべりを楽しむといいさ」
真白さんはそう言って笑った。……ような気がした。
「まぁ、それなら……。でも、そんなすごいことができるなんて、やっぱり真白さんは只者じゃないですよね? 神様とか、ですか?」
私がそう尋ねると、真白さんは今世紀最大のギャグを聞いたかといった風に大声で笑った。
お腹を抱えて、足をジタバタさせて……。私そんなにおかしなことを言ったかな?
「あははっ! 神様、神様と来たか! うんうん、確かにこんなこと神様にしかできないよね!」
真白さんは笑いを収めると、長く息を吐いてから静かな声音で言った。
「でも残念。俺は神様ではないんだ」
残念。真白さんはそう言ったけど、その声音は残念というより呆れているように感じられた。
「神様じゃないなら何なんですか?」
「なんでもないよ。さっきも言ったけど、私は何者でもなく、また何者にもなれない。ただの夢の番人さ。この夢が終わったときに消えてしまう、ただそれだけの存在だよ」
遠くの雲を見ながら真白さんはそんな事を言った。
真白さんの言っていることはまるで雲をつかむような話で、結局真白さんが何者なのかは分からなかった。
でも、1時間で消えてしまう儚い存在だってこと。それと、自分が消えてしまうということを、こんなにもあっさりと言えてしまう人なのだということだけは分かった。
私も真白さんと同じように空を見上げてみる。
空の彼方に浮かぶ入道雲は、なんだか真白さんのようだった。




