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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 雨宮ひかり編

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chapter-04: 光る、小さなもの 第二節 いのちの天秤

フェンスのなかは、軽自動車二台ぶんほどの広さだった。

コンクリートのうえに、夕方の影が、長く斜めに落ちていた。


ひかりは、駐車場の出入口を、ちらりと目の端で確かめた。


商店街の角から、葉月の足音はもう聞こえなかった。

裏手のこの駐車場は、月曜の夕方の人の流れから外れている。

停まっている軽自動車は二台。どちらも、運転席に人の気配はない。フェンスのむこうの細道にも、誰の靴音もなかった。


――しずかだった。


ひかりはもう一度、フェンスのむこうを、視線でいちど舐めるように確かめた。

誰かが見ていないこと。それだけが、いまはいちばん大事だった。


奥の隅で、茶白の野良猫が、低く身を伏せていた。

喉の奥から、ちいさく、低い声が漏れている。

ふつうの威嚇には聞こえなかった。――震えた、芯のすこしずれた音だった。


ひかりは、上着の内ポケットから、ハンカチごと、ちいさな琥珀色の結晶を取り出して、てのひらに握りこんだ。


指先が、ひんやりとした。


茶白の首の付け根の光が、もう一段だけ、はっきりとひかりの目に浮かびあがった。


――ふつうなら、こんなちいさな身体に、武器を向ける手は、すこしにぶる。


ひかりは、そう自分に言いきかせるように、視線を首の付け根の光に、もういちど戻した。


茶白の脚もとから、空気が、わずかに歪んでいた。

猫が一歩、伏せたまま横へ動く。

そのアスファルトに、白い、霜のような線が、すうっと走った。

線は、たった数十センチで止まったが、コンクリートの表面が、その筋に沿って、ぱり、と乾いた音をたてた。

線の通った石粒のひと粒があっけなく、ぼろり、と崩れた。


――蝶の、ひなちゃんのやけどと同じように。

このまま、ほうっておいたら、つぎは誰の指先か。


ひかりの足元に、ルナがしずかに座っていた。


「無理しないでね」


「ええ」


ひかりは、息をひとつ止めて、ふっと吐いた。


茶白の目が、ひかりの足元を、まっすぐに捉えた。


そのまま、ふいに跳んだ。


ふつうの野良猫の跳躍を、わずかに超える距離だった。

ひかりは、反射で半歩後ろへ下がった。

茶白の前脚が、ひかりが立っていたアスファルトの一点を、軽くひっかいた。


そこに、白い線が、ぱきり、と走った。


――触れたら、まずい。


ひかりの背筋に、それははっきりとした冷たさで、走った。


***


ひかりは、しゃがんだ姿勢から、片手のてのひらを、ぎゅっと握った。


――カラスの、すみちゃん。


夏のおわりに、屋根のうえから、ひかりの顔を、何度も見おろしていた賢い目。

鞠のように軽い体重。

風を切る、黒い羽。


空気が、ひかりの右肩のあたりで、しずかに歪んだ。

そのうえに、影が、二重に揺らいだ。

背中から、すうっと黒い羽の輪郭が伸びる。


呼び出しと融合は、ひかりのなかで、ひと続きの動きになっていた。


ひかりの輪郭が、ほんの一拍だけ、二人ぶんになる。

それから、ひとりの少女と、ひとつの羽のかたちに、まとまっていった。


視界が、変わった。


茶白の輪郭が、ふつうの目より、すこしくっきりと浮かびあがる。

結晶化した部分の周りの、空気の歪みまで、ひかりにだけは見える。


茶白が、もう一度跳ねた。


ひかりは、半歩横へ跳んだ。

ぱさり、と背中の羽が、空気をはたく音がした。

からだが、思っていたよりも軽い。


茶白がもう一度、跳ねた。

こんどは、まっすぐにひかりの腰のあたりを狙ってきた。


ひかりは、地面を強く蹴って、駐車場のブロック塀の縁に、ふわりと飛び乗った。

背中の羽の影が、ひかりの跳躍を、空気のうえでふっと押し上げた。


直前まで立っていたアスファルトのうえに、茶白の前脚が、軽くこすれた。

そこだけが、すうっと白くなって、ちいさな霜の輪を、しずかに広げた。


――融合していなかったら、いまの一歩、避けられなかった。


ひかりは、息を整えた。


ブロック塀のうえから、見おろす。

茶白は、低い体勢のまま、ひかりの真下を、ぐるぐると回りはじめた。

塀の足元のアスファルトに、白い筋がいくつも走った。

茶白の足が触れた箇所が、ひとつずつ、ぱりっ、と霜の輪を残していく。


「――どうしよう」


ひかりは、自分の声が、すこし高くなったことに気づいた。


「これだと届かない。――地上のはやい動きは、まだ追いきれない」


ルナの声が、足元のすこし離れたところから、聞こえた。


「五分よ、気を付けて」


「ええ。――分かってる」


***


ひかりは、ブロック塀から、ふっとおりた。


「すみちゃん、ありがとう」


口の中で、しずかに解除を唱えた。


背中の黒い羽の輪郭が、すうっと薄くなって、消えた。

すみちゃんが、ひかりの肩のあたりから、ぼんやりとした目のまま、空へ放たれた。

くぐもった一鳴きをして、夕方の空のほうへ、まっすぐに飛んでいった。


――何も、覚えていないのだろう。


ひかりの胸の浅いところで、すずちゃんもすみちゃんも、いつもそういうふうに戻っていく。

ねむっていたみたいに、ぼんやりした目で、ふつうに飛んでいく。


ひかりは、もういちどてのひらを握った。


――雀の、すずちゃん。


校庭のすみの植え込みのなかで、いつもぱさぱさと羽を整えていた、ちいさな雀。

胸の、しろいところ。

すばやい、ふしぎなくらいまっすぐな目。


空気が、ひかりの肩のあたりで、もう一度歪んだ。


身体が、いっそう軽くなる。

視野が、ひとまわり広がる。


茶白の動きが、すこしだけおそく見えた。


***


ひかりは、ブロック塀の影から、まっすぐに茶白の側面へ踏みこんだ。


地面をすこし蹴っただけだった。

からだが、すうっと近づく。


茶白は、ひかりに気づくのが、わずかに遅れた。


ひかりの右の手刀が、結晶化した後ろ脚の、ちょうど結晶が露わになっているところを、まっすぐ叩いた。


ぱきん、と乾いた音。


結晶のひと塊が、砕けた。


茶白が、しゃっ、と低い声をあげた。


***


けれど、茶白は、すぐには倒れなかった。


身体をひと回りちぢめて、それから、首の付け根のあたりの結晶が、もう一段、せり出した。


がさり、と毛のあいだから、透明な、いびつな塊がせり上がる。


そのまわりの空気の温度が、目に見えるほど、低くなった。


ひかりの呼吸の白さが、ふっと濃くなる。

駐車場のフェンスの内側、半径二歩ぶんほどの空気が、ひと呼吸のあいだに、しんと冷えた。

足元のアスファルトに、霜の輪が、ぱきぱきと、外側へ広がっていく。

ひかりの靴の先まで、その輪のひとつが、すうっと伸びてきた。


ひかりは、足をもう半歩引いた。

靴のつま先のすぐ手前で、霜の輪が、止まった。


「ひかりちゃーん?」


葉月の声が、駐車場の外、商店街のほうから聞こえた。


すこし不安そうな、こちらに戻ってきている声だった。


――まずい。


ひかりの胸の奥で、感情が、ほんのわずか針を上げた。


ルナの声が、すぐそばで、しずかに、けれどはっきりと聞こえた。


「ひかりちゃん、気をつけて。――あんまり長くしないで、ね」


ひかりは、目の端で、ルナをちらりと見た。

紫紺の彼女の瞳のなかが、ふだんよりも、ほんのすこしだけ深く染まっていた。


***


ひかりは、針を押し戻した。


意志のちからだった。

誰かに教えられたものでも、ない。

自分のなかにあるはずの、もっと底のほうの何かを、ひと押しだけ使った。


呼吸が、しずかに戻る。


「ええ、わかってる」


声に、迷いはなかった。


「――ここで、ちゃんと終わらせる」


ひかりは、雀の身体能力で、もう一度茶白の正面へまっすぐ踏みこんだ。


茶白が、低く唸る。

けれど、首の付け根からせり出した結晶のせいで、その動きは、ほんの一拍、にぶっていた。


――いまだ。


ひかりは、雀との融合をしずかに解いた。

肩のあたりの輪郭が、ひとつに戻る。

すずちゃんが、ぼんやりとした目で、夕方の空へ放たれていった。


ひかりは、てのひらの内側を、もういちどぎゅっと握った。


――お母さんの、裁縫箱の、おっきいはさみ。


形と感触を、思い出した。

銀色の刃、すこし重い柄、開いたときの、しゃきん、という金属の音。


空気が、ひかりの右手のうえで、しずかに歪んだ。

そこに、はさみの輪郭が、二重にふっと揺らいだ。


「切る」という感覚が、右の手首から肘までを、すうっと走った。

触れさせれば、切れる。ただ、それだけのまっすぐな手触り。


内ポケットのちいさな結晶が、てのひらのなかで、いっそうひんやりと冷えた。

そのおかげで、首の付け根のあたりの光が、夕暮れの薄い闇のなかで、くっきりとひかりの目にだけ浮かんでいた。


ひかりは、右の手を、ゆっくり、茶白の喉元へ伸ばした。


蝶のときと、状況は明らかにちがった。


蝶は、ちいさく軽かった。

この子は、ちがう。

痩せて、ひどく傷んでいても、胸はまだ上下している。両目の奥に、つかれた光が、しずかに残っていた。


……ひかりは、胸の奥に、ちいさな天秤を置いた。


片側に、この子の命。

もう片側に、これから手に入るちいさな結晶、誰かがもう傷つかないということ、そして――手に入るちから。


ひかりのなかで、針は命の側に、()()()()()()()()()


命の側は、明らかに重い、はずだった。

それでも。


「ごめんね」


そんな言葉が、動いた手のあとから、そっとつぶやかれた。


***


ひかりの右の指先が、結晶の核に、しずかに触れた。


しゃきん、と軽い音。


抵抗らしい抵抗は、何もなかった。


結晶の核が、すうっとふたつに割れた。


茶白が、ふっとちからを抜いた。


身体が、すこしずつ、こわばりを解いていった。


そして、ふっとひかりを見上げた。


うつろではなかった。


ふつうの、つかれた、野良猫の目だった。


ほんの一拍だけ戻ってきた、その目で、茶白はひかりを見た。


何かを言いたげに、もう一度、ちいさく口を開けた。


それから、全身が、さらさらと崩れていった。


茶白の毛皮も、痩せた肢体も、その目も、すべてが細かい光になって、夕方の空気のなかへ散っていった。


***


アスファルトのうえに、ビー玉ほどの、冷たい結晶が、ひとつ残った。


茶色がかった、琥珀色。


中に、水晶のような輝きが、ゆっくり走っていた。


蝶の米粒のひと粒の、ひと回り大きい、兄妹のような姿だった。


ひかりは、深くひとつ息を吐いた。


それから、しゃがみこんでアスファルトのうえの琥珀色の結晶を、てのひらに乗せた。


アスファルトのうえに、毛皮も、爪も、骨も、残らなかった。


ひかりは、しずかに肩のちからをいちど抜いた。


「何も残らない」という事実が、彼女のうちのほんの浅いところで、すこしだけしずかな安らぎを置いていった。


***


ルナが、結晶のそばに、ひっそりと寄り添った。


「うん、上手ね」


ひかりは、結晶をてのひらのうえで、ゆっくりと転がした。指先に、ひんやりとした手触りが伝わった。蝶のときよりも、ひと回り大きかった。


「これで、昨日のとふたつになったね」


ルナの声は、いつもどおりのふんわりとした明るさに、戻っていた。


「ええ」


「ふたつ揃うと、たぶん、もうすこしはっきり見えるようになるの」


ルナは、しっぽをふっと揺らした。


「光が?」


「うん。次に、また見つけたときに、ね」


ひかりは、結晶をハンカチで包んで、ランドセルの内ポケットにていねいにしまった。

内ポケットの中で、ふたつの結晶のひんやりが、しずかに合わさった。


そのとき、駐車場の外から、葉月の声がもう一度聞こえた。


「ひかりちゃーん!」

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