chapter-04: 光る、小さなもの 第三節 引き出しの奥
ひかりが駐車場の外に出ると、商店街の角から、葉月が駆け足で戻ってくるところだった。
醤油の瓶を抱えて、息をすこし切らしている。
「ひかりちゃん、あの猫、どこ行った?」
ひかりは、ランドセルの肩ベルトを、さりげなく直しながら、ふつうの顔で答えた。
「ええ、いつのまにか、逃げちゃった。わたしが近づいたら、もう嫌がっちゃって」
「えー、大丈夫だった? ひっかかれたりしてない?」
葉月の声が、すこし上ずっている。
「ええ、大丈夫。なんともない」
ひかりは、両手をひらいて見せた。指先のひんやりは、もうふつうの体温に戻りはじめていた。
「ひかりちゃん、優しいんだからさぁ、無理しちゃダメだよ? 猫だって、弱ってるとひっかいてくるんだから」
「ええ、ありがとう。今度から、ちゃんと気をつける」
――優しいんだから。
葉月の口から出た言葉が、ひかりのなかで、いちどふっと跳ねた。
それから、しずかにもとの位置に戻っていった。
葉月は、肩のあたりまで紅葉した街路樹の梢をちらりと見上げてから、ひかりの腕に、自分の腕をかるく絡めた。
「帰ろ」
「ええ」
ふたりの足音が、夕暮れの商店街の手前で、しずかに重なった。
***
夕方、家に帰った。
「おかえり」
「ただいま」
家族の声と、自分の声が、いつも通りの順番で重なった。
夕食は、いつも通りだった。
味噌汁の湯気が、食卓の灯りのなかでゆっくり立ちのぼっていた。
ひかりは、家族の話にふだんと同じ間隔で相槌を返した。けれど、自分から話すことは、ひとつもなかった。
食卓の下で、ルナがしっぽをしずかに揺らしているのが、ひかりにだけわかった。
家族の誰も、足元のそこに、紫紺の影がいることに、気づかない。
それは、もう当たり前のことになっていた。
***
夜、自室に戻った。
ひかりは、机のいちばん下の引き出しを、ゆっくり引いた。
学校のプリント類のいちばん奥に、ハンカチを一枚、敷いてある。
そのうえに、ひかりは、上着の内ポケットから取り出したふたつの結晶を、ていねいに並べた。
米粒くらいの、薄い琥珀色のひと粒。
そのとなりに、ビー玉ほどの、すこし濃い琥珀色のひと粒。
ふたつは、まるで兄妹のように見えた。
ひかりは、それぞれの結晶をハンカチの端でいちどずつ、しずかに拭いた。
その手の動きは、自分でも、すこし丁寧すぎるかもしれない、と思った。
――しまった、というよりも、保管した、という手つきだった。
引き出しをゆっくり戻した。
かたん、とちいさな木の音が、机のなかで響いた。
***
椅子の背に、いちどもたれかかった。
すうっと息を深く吐いた。
ひかりは、今日のことを、頭のなかでゆっくりと辿ってみた。
茶白の喉元の、結晶の核。
そこへ向けて伸ばした、右手の感覚。
触れれば、切れる、というまっすぐな手触り。
しゃきん、とふしぎなくらい抵抗のなかった、軽い金属の音。
そのあと、茶白の身体から、すっと抜けていった、こわばり。
ふつうの野良猫の目に、ほんの一拍だけ戻ってきて、こちらを見上げた、つかれた瞳。
そのすべてを、ひかりは、すこしもこぼさず覚えていた。
忘れたいとは、思わなかった。
――こわい、と感じてもいいはずだった。
そう、頭の隅では、わかっていた。
ふつうなら、夜、布団のなかで震えてもいいくらいのできごと。
それを、ひかりは、ふしぎなくらい平らな気持ちで、なぞっていた。
自分のなかのどこかが、今日、いつもよりもすこしだけしずかだった。
それが何なのかは、まだ、うまく言葉にならない。
ただ、ふだんはおっとりとした優しさのうしろにかくれている何かが、今日、ちょっとだけ息をした気がした。
雨上がりの夜のベランダに、紫紺の猫がはじめていた、あの夜のことを思い出す。
それから、机のうえで葉月のハンカチを呼んだ、夜の机のあかり。
火曜の朝、家のなかで、家族のだれにも気づかれないままついてきた、紫紺の足音。
そのすべてが、今日の自分に、しずかにつながっていた。
――ひとつめは、蝶。
――ふたつめは、猫。
その先のことばを、ひかりは、まだ自分でも、つかみそこねていた。
ぜんぶをひかりちゃんがやらなくちゃいけないってわけじゃないのよ、とルナは言っていた。
――でも、もし見つけてしまったら。
机のうえの、もう閉じてしまった本の背表紙が、卓上灯の光のなかで、しずかに艶を返していた。
***
ベッドの縁に、腰をおろした。
ルナが、するりと膝のうえに上がってきた。
肩の力をいちど抜いてから、ひかりは、ルナの背中を、てのひらでゆっくり撫でた。
紫紺の毛は、夜の手前の色のまま、ひかりの指先のしたで、しずかに上下していた。
「今日のあれね、ひかりちゃんがちゃんと終わらせてくれたから」
ルナの声は、ふだんよりも、ほんのすこしだけやわらかかった。
「ええ」
「わたし、これからもう少しだけ、長く居られるようになるの」
ひかりは、撫でる手を、いちど止めた。
「長く?」
「うん。ああいうほころびの引っかかりをね、誰かがちゃんと片付けてくれると、わたしのいる場所が、すこしなじみやすくなるみたいなの。――だから、ひかりちゃんのそばに、もうすこし長く居られるのよ」
「……そう」
ひかりは、しばらく、ルナの背中の毛の流れを、目で追っていた。
窓のむこうで、雲のすこし切れたところから、月が、低い位置で光っていた。
ひかりは、ベッドにゆっくり横になった。
ルナが、膝のあたりから胸のすぐ脇まで、するりと移動して丸くなった。
机の引き出しの奥に、冷たい結晶がふたつ。
肩のうえの、夜の色のしずかな重み。
世界が、また、ひとつだけ――いや、ふたつ、ひかりの側へ寄ってきた感触があった。
その輪郭をてのひらの内側にしまったまま、ひかりは、もういちどまぶたを閉じた。




