chapter-05: 日常のなかで 第一節 冬の入り口
朝、十一月下旬の天宮家の食卓には、味噌汁の白い湯気が、いつもと同じ順番で立っていた。
窓ガラスの内側のほうが、すこし曇っていた。外の空気の温度と、台所の空気の温度のあいだに、いつもより一段だけ深い段差があった。庭のもみじの葉が、もう、根元のほうに半分ほど積もっていた。きのうのうちに、母が箒で寄せておいたものだった。
「今日は寒いから、一枚多く着ていきなさい」
味噌汁の鍋を持ち上げたまま、母の真奈が、ひかりの背中越しに声をかけた。鍋のふちから立ちのぼる湯気が、母の前髪をひと撫でして、天井のほうへ薄く消えていった。
「うん」
ひかりは茶碗を持ち上げる手をいちど止めて、それから、いつもと変わらない調子で頷いた。膝の脇のあたりで、何かが、そっと耳を立てた感触があった。食卓の下の、自分にしか見えないその気配は、もう、ひかりの呼吸の一部のようになっていた。
テレビが、朝のローカルニュースを流していた。アナウンサーの女性の声は、湯気のなかをひと拍くぐってから、食卓に届いた。
「昨夜、青藍駅前の駐輪場で、十数台の自転車が、一晩のあいだに激しく錆びついた状態で発見されました。管理会社の話によりますと、原因はまだ判明していないということです」
画面が切り替わって、駐輪場の隅に並んだ自転車の映像になった。フレームのあちこちに、赤茶けたまだら模様が広がっていた。サドルの下のパイプは、写真で見るだけでも、もとの形を失っていた。
「変な話だな」
新聞をめくる手をいったん止めて、父の宗一郎が、画面のほうへ目をやった。
「最近は、こういうの、よく聞くようになったねえ」
祖母の静江が、味噌汁の椀を両手で包み込みながら、独り言の調子で言った。誰かに同意を求めているふうもない、ただ、湯気のあたりに置いて流すような声だった。
「ちょっとなにそれ、それ怖いんだけど」
姉の結が、トーストの端を齧りながら、笑った気配で言った。ジャムの瓶の蓋を、半分しか閉めていなかった。本気で怖がっている声ではなかった。次に出てくる芸能ニュースのほうに、もう半分、興味が向いている顔だった。
長姉の美咲は、受験対策の本に目を落としたまま、
「ふうん」
とだけ返した。来週の模試の解説のページの図のなかのいちばん細かいところに、シャープペンの先が止まっていた。
ひかりは、味噌汁の椀のふちに、指先をいちど一周させた。湯気の熱が指のはらを撫でて、それから、椀のなかへゆっくり逃げていった。食卓の下、ひかりの膝のすぐ横で、紫紺の影がしっぽの先を一度だけ揺らした。
味噌汁を口に運ぶ手は、いつもと同じ速さで動いた。
***
玄関を出ると、十一月下旬の朝の空気が頬と耳のうらのあたりに、しっかりとした冷たさで触れてきた。
通りの両脇のけやきは、もう半分ほど葉を落としていた。アスファルトの窪みのあちこちに、丸まった枯れ葉が吹き寄せられていた。歩くたびに、靴底の下で、軽く乾いた音がひと粒ずつ鳴った。
ひかりはランドセルの肩ベルトを、肩の上で一度だけ整え直した。背中の青いカバーが、朝の光のなかでうっすら艶を返した。
葉月の家の前まで来ると、ちょうど玄関の戸が開いて、
「ひかりちゃーん、おはよう!」
と、いつもより半音高い声が、寒さに少し白く濁った息と一緒に飛び出してきた。葉月は、毛糸のマフラーを首にぐるぐる巻いたまま、走るような早足で駆けてきた。マフラーの色は、新しいピンク。先週の土曜、お母さんと駅前まで買いに行った、と葉月は前に話していた。
「おはよう」
ひかりは、葉月のマフラーの色に、ほんのり笑い返した。
「ねえねえ、朝のニュース見た?」
葉月は、肩を並べると、すぐにそう言った。
「自転車のやつ。あれ、ぜんぶ駅前の駐輪場でしょ? うちのお父さんがさあ、最近変な話多いってご飯のときに言ってたんだよ。自販機が朝になったら錆びてたとかさ、神社の手水のお水が一晩で凍ってたとか、そういうのが最近ぽつぽつあるんだって」
「ええ、見た」
ひかりはニュースの自転車のフレームの赤茶けた色を、もう一度、頭のなかに広げた。
「だよねえ、ぜったい変だよあれ。あの自転車さあ、指で押したらほろほろって崩れちゃう、ってアナウンサーの人言ってた?」
「ううん、そこまでは、言ってなかったよ」
「あー、たぶんあれだ、岡部さんちのお父さん情報だ」
葉月は、頷きながら自分のマフラーの先を、もういちど巻き直した。
ふたりの歩幅は、いつのまにか、いつもどおりの速さに揃っていた。
***
教室の戸を開けると、外の冷たさとは別の、ストーブの焚きはじめの匂いが、まず鼻先に届いた。先生が一番乗りで点けたのだろう。教室の前のほうだけ、空気がほんのりと暖まっていて、後ろの席のあたりには、まだ冬の朝の余韻が残っていた。
ひかりは、自分の席に、いつもの順番でランドセルを降ろした。隣の葉月のフックには、もうランドセルがかかっていた。
朝の会のあいだ、教室の風景は、いつものリズムで動いていた。
学級委員の柳美月が、教壇のいちばん左に立って、進行を一度も止めずに回していた。出席の確認、今日の連絡、配り物。声の高さも、間合いも、先月とまったく同じだった。
植木桃子は、水替え当番ではないのに、教卓の隅の花瓶の水を、いつのまにか入れ替えてあげていた。きのうの花瓶の縁に、ほんの少し藻のような色がついていたことに、たぶん、彼女だけが気づいていた。
後ろの席の田所蓮は、今日も机に突っ伏したまま動かない。隣の朝比奈蒼は、いつもどおり静かに本を開いていて、田所のことを、ちょうどそこに机の角があるのと同じ自然さで、見過ごしていた。
倉橋美羽のノートの隅で、小さな鳥の絵が、休み時間のたびに一羽ずつ増えていった。葉月が斜め後ろから覗き込んで、声を立てずに笑ったところで、倉橋美羽が、はにかんだ顔で鉛筆をひとつ動かした。
授業の合間、岡部七海が、自分の席を離れて、ひかりの机のところまでわざわざ来た。声をひそめると決めているらしい話し方で、
「ねえ天宮さん、知ってる? 昨日のニュースの自転車、お父さんが見に行ったらしいよ。ほんとに粉みたいに崩れてたって。――指でちょっと押しただけでほろほろって、こうやって」
岡部七海は、自分の人差し指の先を、ひかりの机の角に当てて、軽く揺らしてみせた。爪が、机のニスにかすかな音を立てた。
「ふふ。そう、変だったね」
ひかりは、笑顔でひとつ頷き返した。岡部七海の頬は、噂を誰よりはやく運べた者だけのほんのりとした赤に、染まっていた。
ひかりはその赤を、自分の頷きの角度に、ちょうどよい温度で乗せた。岡部七海は満足げに自分の席に戻った。
葉月が、振り向きざまに、
「ひかりちゃん、岡部さんって、ほんとそういうとこ」
と、口の端だけで小さく笑った。
「ふふ」
ひかりも、葉月と同じ角度で、笑い返した。
***
十二月に入ると、教室の壁の予定表のいちばん下の段に、新しい行が書き加えられた。「クリスマス会」。柳美月が、黒板の脇の予定表のところで、赤いマジックの先を、定規にぴたりと当てていた。
クリスマス会の準備は、その翌週から動きはじめた。
司会は、もちろん柳美月。飾り付けは植木桃子。出し物の取りまとめは岡部七海。葉月は、得意の画用紙のリースとサンタの絵を一手に引き受けることになっていた。
ひかりは、保健委員として、救急セットの中身をひっくり返す係を引き受けた。
保健室の白い棚の前で、ひかりは、絆創膏の数をひとつずつ勘定した。ばらの絆創膏が四十六枚。包帯がふたつ。三角巾がひとつ。消毒液の小瓶が一本、半分ほど残っていた。
「天宮さん、ありがとう。ほんとに助かるよ」
養護の川嶋先生が、棚の中段から新しい絆創膏の箱をひとつ取って、白衣のポケットからボールペンを抜きながら、ひかりの手元のノートに、いくつかの数字を書き足した。
「はい、ありがとうございます」
ひかりは、丁寧めの相槌で、ひとつ頭を下げた。
廊下に出ると、外の空気の冷たさが、白衣の匂いに代わって、とん、と耳のうらに戻ってきた。
教室に戻ると、葉月が机の脇に立って待っていた。
「ひかりちゃん、いっしょにケーキ作る?」
葉月の声には、もう返事を聞く前から決まっているような響きがあった。
「ええ、いいよ」
ひかりは、もうランドセルに腕を通しかけながら、笑顔で頷いた。
「やったあ。じゃあ、こんどの休日、うちで」
葉月は両手の指を組んで、その場で一度だけ軽く跳ねた。
***
クリスマス会の前の休日の午後、葉月の家の台所で、ふたり並んで小さなホールケーキを焼いた。生クリームの泡立ては、葉月が両手の力で挑んで、途中でひかりに代わってもらった。ひかりのてのひらは、葉月のよりも、ふしぎとすこし冷たくて、生クリームが、いちばん泡立ちのいい固さで止まった。
「ねえねえ、ひかりちゃんって、なんかさ、ケーキ作るときに向いてる手してるよね」
葉月が、ボウルのふちに付いたクリームを指でこそげ取って、口に入れながら、笑った。
「そう?」
ひかりは、泡立て器をボウルの縁に、滴を一回切る角度で当てて、葉月の言葉をてのひらの内側で、いったん受け止めた。
「うん。なんていうか、こう……お母さんっぽい? でも、お母さんとは、なんか違うんだけど」
「ふふ。――そうかな」
ひかりは自分のてのひらの冷たさのことを、葉月の言葉のなかで、ほんの一拍だけ考えた。考えた、というほどはっきりした輪郭ではなくて、ただ、てのひらの温度のあたりで、何かがするりと擦れていった。
そのまま、二人は苺をいちばん上に並べる作業に移った。
***
クリスマス会の当日、教室はいつもより明るくて、いつもより少しだけ騒がしかった。
窓に貼られた銀色のモールが、午後の光を細かく弾いていた。黒板の右上のサンタの絵は、葉月の力作で、髭の白いところに、本物の綿が一筆ぶん貼ってあった。
出し物の真ん中で、黒田真央が、テレビで見たお笑い芸人のものまねを披露した。声の高さも、間の取り方も、思った以上に本人に似ていて、教室全体が、ひと拍遅れて爆笑になった。
葉月は声を立てて、両肩で笑った。
ひかりは唇のはしだけで笑った。
笑い終わってから、葉月が自分の肩でひかりの肩を軽くつついた。
「ひかりちゃん、もー、ちゃんと笑ってよー」
「ええ、笑ったよ」
「ぜんぜん声出てなかったじゃーん」
「ふふ。――だってね、葉月ちゃんが笑ってるところを見るほうが、おもしろいんだもん」
葉月はその返しに、たっぷり三秒くらい目を丸くしてから、
「もう、ひかりちゃんってば」
と、呆れた笑い方をした。
ひかりは葉月の呆れた笑い方の目尻のしわのあたりに、ふっと視線を留めた。葉月の顔が笑うときに顔のどこから順番に動くのか、ひかりはもう、ほとんど暗記してしまっていた。
それを自分がいつ覚えたのかは、覚えていなかった。
***
クリスマス会のケーキは、教室の真ん中の机に並んで、葉月とひかりのホールケーキも、岡部七海が持ってきた小ぶりのチョコケーキも、植木桃子が用意したクッキーも、それぞれが自分の場所をすこしずつ占めて、夕方の四時前には、もう半分以上が空のお皿になっていた。
四時を回ると、窓の外の空がもうすっかり夕方の色になっていた。
下校のチャイムが鳴る頃には、教室の机のうえは、紙皿と、生クリームの白い滲みと、散らばった銀色のモールの切れ端だけになっていた。柳美月が片付けの最後の指示を、いつもと変わらない声で出していた。
ひかりはランドセルの肩ベルトを、もう一度肩の上で整え直した。
「ひかりちゃん、いっしょに帰ろー」
いつもの調子で、葉月がひかりに声をかけた。
***
校門を出て、川沿いの遊歩道に入る頃には、ふたりの両手の指先のあたりまで、十二月の夕方の風が、しんと染みていた。
荏野川の水面は、いつもより一段低くて、灰色の空の色を、つるりと撫でていた。岸辺の枯草が、川下のほうへ斜めに倒れていた。鴨が川の真ん中あたりに、二、三羽、流れの遅いところに浮かんでいた。
「あ、犬」
葉月が、遊歩道の向こうのほうを指差して、声を上げた。
中型の柴犬が、ひかりたちの方へ向かって、リードを引いた飼い主さんと一緒に走ってきていた。葉月は、犬が好きだった。葉月が犬のほうへ半歩身を乗り出した、ちょうどその瞬間に、ひかりは別のほうへ目をやっていた。
遊歩道の縁の、コンクリートの護岸のすぐ手前の、枯草のあいだに、小さな白い影が、二つ。
結晶化した蛙だった。
二匹とも、地面にぺたりと張り付くようにして、動かなくなっていた。手のひらに乗るくらいの大きさ。後ろ足が、結晶化のせいで透明になりかけていた。背中の輪郭の半分ほどが、半透明の薄白い結晶に置き換わっていて、その下の、もとの斑の皮膚が、ぼんやり透けて見えた。冬眠しているはずの季節の、その遊歩道の枯草のあいだに、ふいに、そこにあった。
ひかりは、葉月の背中の二歩うしろで、足を止めた。
「あ、葉月ちゃん、ごめん。――ハンカチ、忘れたかも。教室、戻ってくる」
葉月は、犬を撫でた手をぱっと離して、こちらを振り向いた。
「ええー、ひかりちゃん、あたしも、いっしょに行こうか?」
「いいよ。――暗くなっちゃうから、葉月ちゃんは先に帰って。明日また話そう」
「うー、でもー」
葉月は、いちど唇を尖らせかけたが、ひかりの「明日、また」の調子で、すぐにいつもの顔に戻った。
「じゃあ、ぜったい明日ね。あしたちゃんと続きの話してよ」
「ええ」
葉月は、犬の飼い主さんに「ありがとうございましたー」と頭を下げてから、ランドセルを揺らして、遊歩道の向こうへ走って行った。
葉月の背中が、川沿いの楓の影のところで見えなくなるまで、ひかりはその場で、いつもよりすこし長い目をしていた。
***
葉月の背中が、完全に見えなくなってから、ひかりはいつもより半拍だけ、深い息を吐いた。
それから、上着の内側のポケットへ手を入れて、引き出しから持ち出してきていたほうの、ちいさな結晶の存在を、指のはらで確かめた。米粒くらいの、薄い琥珀色のひと粒。自分の体温よりもひと回り冷たい重みが、てのひらに、とん、と馴染んだ。
結晶のいちばん中心の透明度が、ほんのわずかに、温度を下げた気がした。
――二匹のほうへ向けて、何かが反応していた。
ひかりは遊歩道の縁から、枯草のあいだへふたつぶんの足跡で踏み込んだ。土がいつもよりひと回り柔らかかった。靴底のしたに、湿った冷気の感触があった。
「すみちゃん」
口のなかで、ちいさく名前を呼んだ。
肩甲骨のすぐ下のあたりが、ふっと温度を変えた。背中の輪郭の外側に、薄く、カラスの羽の気配が広がった。視界の明度が、いちど、すこし上がった。夕暮れの灰色の空のなかに、雲の輪郭の細かい段差まで、ふいに見えるようになった。――視覚の拡張は、もう、いつもの呼吸と同じ感覚で立ち上がった。
「箒」
ひかりは、もうひとつ、口のなかで呼んだ。
学校の掃除箒の柄の感触が、右手のなかに、すうっと立ち上がった。木の柄の節のあたりが、てのひらの内側に、いつもの場所で当たった。穂先の竹のささくれが、視界のなかで、夕方の光をひと筋、二筋と返した。
ひかりは、いちどだけ、息を整えた。
それから、二匹の蛙の喉元の、薄白い結晶の核が、内側からほんのり燈るように見えている場所に、箒の穂先を続けざまにすべらせた。
しゃきん。
ひと拍おいて、
しゃきん。
ふしぎなくらい抵抗のない、軽い金属の音が二度、川面のすぐ手前の空気のなかに続けて立った。
二匹の蛙の身体は、ほんの一瞬、揺らいだ。それから、皮膚のうえに残っていた薄白い結晶のあたりが、さらさらと、細かい光になって、枯草のうえへ散っていった。もとの斑の蛙のかたちは、ふた呼吸のうちに、苔と土のうえへ、するりと崩れて、見えなくなった。
ふたつの結晶が枯草のうえに、小さく残った。
ひとつは米粒よりすこし大きいくらいの、淡い薄水色。
もうひとつは指先ほどの、ちいさな青磁色。
ひかりは、膝を折って、ハンカチを広げた。葉月の家でケーキを焼いた日に、葉月の母がおみやげに持たせてくれた、新しい白いハンカチだった。
ひかりはふた粒の結晶をハンカチの真ん中に並べて、四隅をていねいに折りたたんでから、上着の内ポケットへそっと収めた。
手の動きは、もう、ひと月ほど前の月曜の夜、商店街の手前で野良猫の喉元を切ったときよりも、ずいぶん落ち着いていた。震えるところが、どこにもなかった。
ひかりは、立ち上がって、いちど周囲を見渡した。
遊歩道の向こうのほうには、もう、犬の散歩の人の姿はなかった。川の真ん中の鴨も、いつもと変わらない速さで、流れの遅いところに浮かんでいた。誰も、こちらを見ていなかった。
足元に紫紺の影が、いつのまにか寄り添っていた。
「えらかったね、ひかりちゃん」
ルナの声は、川面のすぐ上の冷たい空気のなかに、いつもよりほんの半拍、長くとどまった。
「ええ」
ひかりは、内ポケットのうえから、ハンカチごとの結晶の重みを、もういちどてのひらで確かめた。
***
家に帰ると、玄関のたたきに母のパンプスがいつもより斜めに脱いであった。台所から、煮物のしょうゆの匂いがしていた。
「ただいま」
「おかえりー、ひかり、寒かったでしょう。早くお風呂入っちゃいなさい」
母の声は、常と変わらない明るさだった。
居間のテレビは、もう夕方のニュースの時間に入っていた。アナウンサーの男性の声が、台所の煮物の音と重なって、廊下まで届いてきた。
「青藍市荏野川河川敷で、野犬が、体の一部が結晶化したような状態で発見されました。保健所は処分の方法に困っており、対応を苦慮していると話しています。――現場の映像は、こちらです」
ひかりは、玄関のたたきに腰をおろして、靴下の足をフローリングの冷たさのうえに、いったん下ろした。靴下の繊維の隙間を通って、足のうらに、十二月の家の床の冷たさが、すうっと立ちのぼった。
居間のソファのほうから、父の声がした。
「最近、変な事件多いな」
「あなた、お風呂ね、もう沸いてるから」
母の声は、台所のほうから返ってきた。
ひかりは、ランドセルを背負ったまま、廊下を歩いた。居間の扉のいちばん向こうの隅で、ルナがもういつもの場所に丸まっていた。
***
夜、自室の机の卓上灯の橙のしたで、ひかりは机のいちばん下の引き出しを、ゆっくり引いた。
学校のプリント類のいちばん奥に、いつものハンカチが敷いてあった。
そのうえに、もとからあった、米粒くらいの薄い琥珀色のひと粒と、ビー玉ほどの濃い琥珀色のひと粒が、四日前の月曜の夜と同じ位置で並んでいた。
ひかりは、今日のハンカチを、ゆっくりほどいた。
淡い薄水色と、ちいさな青磁色のふた粒を、もとからあったふた粒の隣に、ていねいに並べた。
四粒の結晶は、卓上灯の橙のなかで、それぞれ、ほんの少しだけ違う角度の光を返した。
――ふえてきた、と、ひかりは声には出さずに思った。
ハンカチをもう一度ていねいに折りたたんで、引き出しの奥へ戻した。
かたん、とちいさな木の音が、机のなかで響いた。
夕食のあいだ、ひかりはニュースの野犬のことを、口にしなかった。
川沿いの蛙のことも、ハンカチのことも、口にしなかった。
父が「保健所も大変だな」と言って、母が「物騒な世の中ねえ」と返したときも、ひかりは味噌汁の椀のふちに、指を一周させた。
食卓の下では、ルナのしっぽが、いつもより半拍だけ長く揺れていた。
***
入浴を終えて、自室に戻ると、窓の外には、十二月の夜のいちばん深い黒が、もう降りていた。
ひかりはベッドの縁に、いちど腰をおろした。
ルナが布団の足元のほうから、するりと膝のうえに上がってきた。
紫紺の毛のうえを、てのひらでひと撫でした。
ルナの背中の上下する呼吸が、てのひらの底をひと拍、ふた拍と通り抜けていった。
「ねえ、ルナ」
「うん」
「今日のあの蛙のね、――ふた粒の色、すこしずつ違うね」
「ふふ。そうね。――いろんな色の結晶があるみたい」
ルナの声は、灯りの橙のなかに、いつもとおなじ調子で収まった。
ひかりは、ルナの背中をもう一度、てのひらでなぞって、それから、自分のてのひらを自分の胸のところへ、そっとあてた。
いつもよりも、ほんの少しだけ、自分の鼓動が、自分の指のうえにはっきり伝わってきた気がした。
怖さでは、なかった。よろこびとも、ちがう。
――「ふえた」、というただひと言が、胸の真ん中にそっと置かれているだけだった。
ひかりは、まぶたを閉じた。
窓のそとで、十二月の風が、荏野川の方角からひと吹き、家のまわりを撫でて、また、夜のなかへ消えていった。




