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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 雨宮ひかり編

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12/21

chapter-05: 日常のなかで 第二節 年明けの静けさ

大晦日の夜、年越し蕎麦の湯気が立ちのぼった。


父の宗一郎は、いつもと同じ位置でテレビの紅白を背中で聞きながら、ひと箸ずつゆっくり蕎麦を口に運んでいた。母の真奈は、台所と居間のあいだを、いつもよりひとつ少ない動きで往復していた。長姉の美咲は、受験対策の本を、今夜ばかりはこたつのうえに伏せて置いていた。次姉の結は、テレビの歌手の歌に合わせて、こたつ布団のうえで足を上下に揺らしていた。


ひかりは、こたつのいちばん端の場所で、蕎麦の湯気の流れを目で追っていた。湯気は、テレビの光のなかでひとたび白く明るくなり、それから、天井のほうへ薄く吸い込まれていった。膝のすぐ脇では、紫紺の影が年越しの夜のいちばん静かな呼吸をしていた。


時計の針が、十二の数字のうえで、ふたつ重なった。


「あけまして、おめでとうございます」


母が、テレビのカウントダウンよりも、ひと拍だけ遅れて、家族みんなの顔を見渡して言った。


それから、家中が一斉に、いつもよりすこしだけ柔らかい挨拶を交わした。


ひかりは「おめでとう」を、家族みんなの顔の真ん中あたりに、丁寧めの調子でゆっくりと置いた。


***


元日の朝は、ひかりが目を覚ますころには、もう家のなかが、いつもと違う匂いで満ちていた。


雑煮の出汁の匂いと、お屠蘇の独特の香り。台所では、母と祖母の静江が肩を並べて、お重の中身を最後に整えていた。


「ひかりちゃん、おはよう。お雑煮、もう少しでできるからね」


祖母が、振り返って笑った。祖母の手の動きは、母とよく似ていた。けれど、母よりももうひと回りゆっくりとした角度で動いた。


朝のお祝いの席のあと、家族で初詣に出かけることになっていた。


近所の上葉(かみば)神社は、年明けの三が日のあいだ、地域でいちばん賑わう場所だった。


歩いて十五分の距離を、家族みんなで連れ立って歩いた。父は、お賽銭用の小銭をジャケットの内ポケットにわけて入れていて、歩くたびに、ちりちりと低い音が漏れた。母は、結の真新しいダウンの袖を、何度か軽く整え直してやった。祖母の静江は、母のひと歩うしろを、年明けの参道に合わせるようなゆっくりとした歩幅でついてきた。美咲は、家を出る前に手袋を片方しか持ってこなかったことに、半ばのあたりで気づいて、苦笑いした。


ひかりは父の背中の少しうしろを歩いた。家族のかたまりから、ほんの半歩ぶんだけ離れた位置を選んでいた。足元の紫紺の影は、人通りのなかでも、ひかりの靴のすぐ脇から一度も離れなかった。


***


上葉神社の鳥居の前まで来ると、参道の入り口から拝殿(はいでん)のほうへ、人の列がゆるく続いているのが見えた。


参道の砂利が靴底のしたで、いつものけやきの落ち葉の道よりもひと回り硬い音を立てた。


赤い鳥居をくぐる瞬間、父がいつもの調子で、軽く頭を下げた。母がそれに続いて、祖母が母と同じ角度で、結が真似をして、美咲は半拍遅れて、それぞれの仕方で頭を下げた。ひかりも、いつもの背中よりもほんの一寸ぶん深く頭を下げた。紫紺の影は、鳥居の柱のすぐ脇を、人の足のあいだをすり抜けるようにして、ひかりの足元へ戻った。


参道の途中の、手水舎(ちょうずや)の脇の小さな氷の張りに、ひかりは目をひととき止めた。手水鉢のふちのあたりに、本来あるはずのない、薄い氷の輪が、いちまいだけ残っていた。いつもなら、初詣の朝に、これほど水が冷えているはずはなかった。


「あら、今年は氷張っちゃってるねえ」


祖母が、こちらに一度振り返って、笑い半分で言った。


「最近、変な話、よく聞くもんねえ」


母も、それに小さく頷いて、家族はそのまま、列のほうへ進んだ。


拝殿の前で、家族六人は、いったん横に並んだ。


父がお賽銭用の小銭を、ひかりと結と美咲のてのひらに、それぞれ少しずつ分けて握らせた。結のたなごころのうえの五円玉は、新年の明るい光に当たって、いつもよりひと回り艶を返した。


ひかりは賽銭箱のまえで、一度目を閉じた。


家族みんなが、今年も元気でいられますように。

お姉ちゃんが、希望の高校に合格しますように。

葉月ちゃんと、来年もずっと、いっしょのクラスにいられますように。


そうして、ありきたりな順番で、ありきたりな願いを、口のなかで、いちまいずつ重ねていった。


――いちばん最後に。


家族にも葉月にも口に出したことのない、もうひとつの願いを、ひかりは内側で組み立てようとした。


その願いの輪郭が、口のなかの奥のほうで、ようやく半分ほど形になりかけた、ちょうどそのときだった。


「ひかり、はやくー」


斜めうしろから、結のいつもの調子の声が、ひかりの背中に届いた。


ひかりは、目を開けた。


てのひらの五円玉を、賽銭箱のうえへ、いつもの角度で落としたつもりだった。


けれど、五円玉はひかりの指のあいだから、いつもよりひと回り浅い軌跡で抜けて、賽銭箱の手前の縁にあたり、軽く跳ねた。


ちん、と小さな金属の音。


五円玉は賽銭箱の手前のすのこ板のすきまにすべり落ちて、見えなくなった。


ひかりはいちど、その場で動きを止めた。


「あら」


母が、こちらに気づいて、笑い半分で声をかけた。


「ひかり、もう一枚、投げ直す?」


ひかりはいつもの調子で、ゆっくり首を横に振った。


「ううん。――大丈夫」


それから、二礼二拍手一礼の最後の動作を、ひかりはふつうの調子で、そっと済ませた。


ひかりの拍手は、結のよりもひと拍だけ静かで、美咲のよりもひと拍だけ柔らかかった。


いちばん奥のほうの願いは、口のなかで形になりきらないまま、賽銭箱のすきまの下の暗がりへ、五円玉といっしょに、すべり落ちたままだった。


***


参拝を終えて、家族は、破魔矢(はまや)の授与所のほうへ移った。


「あなたの破魔矢、もうそろそろ古いから、新しいのにしましょうよ」


母の声に、父が「そうだな」と頷いた。授与所の前には、若い巫女(みこ)さんが、白い装束の袖を整えながら、人の列を案内していた。


ひかりは家族の列のいちばん後ろにいて、視界の端に社殿の脇の細い小道を捉えた。


参拝客の人波の流れから、すこし外れたところ。古い灯籠(とうろう)の足元のあたり、苔の生えた石畳の隅に、白っぽいちいさな影がぺたりと伏せていた。


ひかりは半歩だけ、足を止めた。


イタチだった。


うちの近所では、ふだん見かけない動物。てのひらにふた粒分くらいの大きさの、薄茶色の獣。顔のあたりまで、白い結晶が薄く貼りつくように覆っていた。前足の片方が、もうほとんど、結晶のなかに溶け込みかけていた。動いている気配は、なかった。けれど、まだ苔のうえに、ひっそりと伏せていた。


参道の人の流れは、その小道のほうを誰一人として見ていなかった。家族も、もう破魔矢の列のところで、巫女さんの手元に視線を集めていた。


ひかりの足元の紫紺の影が、一度だけしっぽの先を揺らした。


ひかりは、その揺れの理由をもう半分くらいわかっていた。


イタチの喉元の、薄白い結晶の中心が、内側からほんのり灯っているのが、ひかりの目には見えていた。


「ひかりー、なにしてんのー」


結が、破魔矢の列の中ほどから、振り返って手を振った。父の肩のすぐうしろから、長姉の美咲の髪の端が、ちらっと覗いた。


「ううん。――なんでもないよ」


ひかりは自分の声を、いつもの柔らかい温度に合わせて、結のほうへ返した。


それから、灯籠の影のほうへ、もう一度だけ目をやった。


イタチは、まだ灯籠のすぐ脇の同じ位置で、動かないままだった。


ひかりは、その白っぽい影に声に出さずに、一度頷いた。


それから、家族のかたまりのほうへ自分の足をもう一度動かした。


砂利が靴底のしたで、いつもと同じ硬さの音を立てた。


紫紺の影は、ひかりの靴のすぐ脇を、いつもより半拍だけゆっくりついてきた。


***


家に帰った夜、家族みんなが、いつもよりひと回りゆっくりした寝支度に入った。


ひかりは、入浴を終えて、自室の扉をそっと閉めた。


卓上灯の橙のひと粒の光だけが、机のうえに灯っていた。窓の外には、元日の夜のいちばん深い色の青が、降りていた。


ベッドのへりに腰をおろすと、足元から紫紺の影がゆっくり膝のうえに上がってきた。いつもより半拍だけ、丁寧な角度で。


「ねえ、ルナ」


ひかりの声は、自室の扉を閉めた瞬間に肩から落ちた、いつもの軽い重さのなかに、やわらかく置かれた。


「うん」


ルナの返事は、灯りの橙のなかへ、いつもの調子で収まった。


「今日見つけたあの子のこと、ね」


ひかりは、ルナの背中にてのひらをそっと置いた。紫紺の毛の上下する呼吸が、てのひらの底をひと拍、ふた拍と通り抜けていった。


「ほうっておいて、大丈夫かな」


ひかりの声は、その尾のあたりで、いつもよりほんのり低い色をしていた。


ルナは、ひかりの膝のうえで一度、目を半分だけ閉じた。それから、もう一度開いて、


「うん。ひかりちゃん、ぜんぶをひかりちゃんが終わらせなくちゃいけないってわけじゃないのよ。あれはたぶん、誰にも見つからずに、明日には消えてしまっているの」


ルナの声は、いつもの「ええ」「そう」よりも、二拍ほど長く、卓上灯の橙に滲んだ。流れる調子のままで、けれど、もうひと回り丁寧な間合いを、ひかりの耳の奥に置いていった。


ひかりは、ルナの背中にてのひらを、もう一度置いた。


「……そう」


口のなかで、いつもと同じ調子の相槌を一度置いてから、ひかりは、しばらく何も言わなかった。


ルナの紫紺の毛の流れの隙間で、卓上灯のひと粒の光が、ふっと瞬いた。


ひかりは、その光をルナの背中のうえに、一度目で追った。


いつもなら、こういう問いを、ひかりは自分のなかで決着させてから、ルナに聞いていた。聞くまえに、自分の答えは、もう半分くらい決まっていた。ルナの返事は、その半分の答えをもう半分だけ押してくれるものだった。


けれど今夜は、そうではなかった。


「ぜんぶを、ひかりちゃんが、終わらせなくちゃいけないってわけじゃない」


ひかりは、いちど机のいちばん下の引き出しのほうへ目をやった。


ハンカチのなかの四粒の冷たさが、目を閉じなくても、てのひらの裏にひと粒ずつ浮かんだ。


「ふふ。――そっか」


ひかりの声は、口のなかで、いつもの「ええ」よりもひと回り柔らかい角度で転がった。


「うん」


ルナは、それだけ返した。


ひかりは、ベッドのうえにもうひとつ膝を引き寄せた。


「ルナはね」


「うん」


「わたしが、なにを決めてもいい、って思ってくれる?」


その問いは、ひかりが口に出した瞬間に、自分でも、すこし戸惑った。なぜそういう問いの形に、口が動いたのか、ひかりははっきりとはわからなかった。


ルナは、一度ひかりの膝のうえで姿勢を変えて、ひかりの顔のほうへ半分だけ顔を寄せた。


「ええ。ひかりちゃんが決めることなら、わたしはそれでいい」


ルナの返事は、いつもの流れる調子のうしろに、すこし重みのある色を残した。


「お父さんやお母さんに『そうしなさい』って言われるから。先生に『こうしなさい』って言われるから。――そういうのとは、ちょっと別のところで、ひかりちゃんがひかりちゃん自身で選ぶこと。それなら、わたしはちゃんと見てる」


ルナの言葉は、いつもよりすこし長かった。長くなった理由を、ひかりはまだわからなかった。けれど、長くなった、ということだけは、てのひらの底に確かに残った。


「……そう」


ひかりは、ルナの背中の毛のあたりにもう一度、てのひらを置いた。


ルナの体温が、てのひらの底にいつもより一拍だけ長く留まった。


「あのね、ルナ」


「うん」


「今日、あの子のことを、ほうっておいたとき。――わたし、ちょっと楽だった」


ひかりの声は、自分でもすこし驚いた角度で、口の外へ出た。


「ふふ」


ルナは、笑った。


「楽だった、っていうのは――ほっとしたほう? それとも、すこしずるをしたほう?」


ルナのその問い返しは、いつもの相槌の調子のなかに、半拍だけ奥ゆかしい質問の形を持っていた。


「ふふ。――たぶん、両方」


ひかりは、ルナの問いをてのひらの底でひと撫でしてから、そのまま口に乗せた。


ルナは目を細めて、ひかりの膝のうえでもう一度姿勢を整えた。


「両方ね。――両方わかってるなら、それでいいのよ」


ルナの声は、いつもよりひと回り低く長く、ひかりの耳の奥にとどまった。


ひかりは、まぶたを一度閉じた。


引き出しの奥のハンカチのうえの、四粒の結晶の色が一度浮かんだ。


ふた粒の琥珀色と、薄水色と、青磁色。


それぞれの結晶の冷たさは、ひかりが自分の意志で、ハンカチのなかに並べてきたものだった。


そして、上葉神社の灯籠の影に置いてきた白いイタチの色は、いつもの結晶の色とは別のところに、ひっそりと置かれていた。


――両方、知っておく。


ひかりは、口には出さずにもう一度、ルナの言葉を自分の内側でなぞった。


ルナは、それ以上、何も言わなかった。


いつもより、ひと呼吸長い沈黙のあと、ひかりは、ベッドの脇の卓上灯を、一度指のはらで撫でるようにして消した。


橙のひと粒の光が消えるその一瞬まえに、ルナの瞳のなかで、ふた粒、ちいさくにじんだ。


***


一月の終わりごろ、土曜の午後だった。


ひかりが昼ごはんを食べおえて自室に戻ろうとしたところで、台所の入り口から、母の声がいつもより半拍だけ柔らかい調子で、振り返ってきた。


「ひかり、お母さん最近すこし忙しくてね。――料理、ちょっとだけ手伝ってくれると助かるんだけど」


母の声は、頼んでいるというよりも、半分くらい、誘っている調子だった。


「うん。いいよ」


ひかりは、自室へ戻りかけていた足をすぐに台所のほうへ向け直した。


母は、エプロンの紐の片方をもう一度結び直していた。母のエプロンの花柄は、ひかりが小さい頃から、ほとんど同じ色をしていた。


「じゃあ、まずね、お母さんの手元、ちょっと見ててね」


母は、まな板のいちばん端のほうに、ひかりの場所を空けてくれた。台所の流しの脇の窓から、午後の光がすこしだけ斜めに、母のエプロンの肩のあたりへふた筋入ってきていた。


その日、ふたりで作るのは、夕食の豚汁だった。


まな板のうえに、母はまず大根を一本、横に倒して置いた。包丁を横の引き出しから抜いて、刃のあたりをひと拭いした。


「大根はね、いちょう切りにするの。――こうやって、まず縦に半分にして、それをもう半分にして。それから、薄く切っていくと、いちょうの葉みたいな形になる」


母は、太い大根をまず縦に、ふたつに割った。それから、その半分を、さらにもう半分に。手のなかで、長い大根が細長い四つの欠片になった。


「これね、お母さんのいつもの包丁。――もう何年もずっと使ってきたものだから、ひかりが握ったときに、お母さんの手の癖が刃の動きにちょっと出ちゃうかもしれないけど」


母は、笑った。


「ふふ。それでも、いい?」


「うん」


ひかりは、母のとなりに半歩入って、まな板のすぐ前に立った。


母は、包丁の柄の付け根のあたりを、いつもと同じ握り方で一度握ってみせた。それから、その柄の握りの位置を、ゆっくりひかりの右手のほうへ渡した。


ひかりのてのひらに、母の包丁の柄がすうっと収まった。


柄の木の感触が、想像していたよりも、もうひと回り重かった。母の親指の付け根がいつも当たる位置の塗装が、薄く擦れてちいさく木目が浮いていた。その擦れが、ひかりのてのひらの真ん中のくぼみに、しんと触れた。


母は、ひかりの右手のうえに、自分の右手を、ふんわりと重ねた。


「いまね、刃をまな板に、こう垂直に近い角度で当てるの。――まっすぐ降ろすんじゃなくて、手前から奥の方へ、すう、ってなぞるの」


母の声は、いつも家族にものを言うときよりも、半音だけ低くて、半音だけひかりに合わせていた。


ひかりは、てのひらに当たる柄の擦れの跡を、一度自分のてのひらの真ん中でゆっくり確かめた。


それから、母の手の角度に合わせて、刃を一度すべらせた。


すと、と四つ割りにされた大根のいちばん上から、いちょうの葉のかたちの薄片が、ひと呼吸の音で、まな板のうえに、ぽとりと落ちた。


「ね。――そう。ひかり、力じゃないのよ。重さで切るの。包丁の重さに、てのひらをいちまい添えるだけ」


母は、ひかりの手のうえの自分の手を、ほんのり上から離した。


ひかりは、母の手の気配が消えたあとも、自分の手のなかに、母の手の角度の余韻をしばらく残しておくことができた。


それから、もう一度、刃を手前から奥へ、すうっとすべらせた。


すと、ともういちまい、まな板のうえにいちょうの葉の薄片が、ぽとりと落ちた。


「ふふ。ひかり、覚えるの、はやいね」


母は、笑った。


「お母さんが、結のときに教えたときよりも、ふた回りくらい、はやい」


ひかりは、母の笑い方の頬のあたりを、ちらと見て、


「ふふ」


と、いつもの調子で笑い返した。


それから、ひかりはもう、母の手の助けを借りずに、大根をいちまいずつ、いちょう切りにしていった。包丁の柄の擦れた木目の感触が、何度すべらせても、ひかりのてのひらの真ん中の同じ場所に戻ってきた。


母は、隣でねぎを切りはじめていた。母の包丁の音は、ひかりの音とは、すこし違うリズムだった。母の音は、ひかりの音よりも、もう半拍だけ間合いの広いリズムを刻んでいた。


「お母さん」


ひかりは、刃をまな板に、一度立てた。


「うん?」


「これ、お母さんの包丁って、お母さんがずっと使ってるの?」


「ええ、ずっとよ。お母さんが結婚するときに、おばあちゃんがひとつ、これを餞別(せんべつ)みたいに渡してくれたの。――だから、もう、お母さんとずっと一緒にやってきた相棒みたいなものね」


「そうなんだ」


ひかりは、てのひらのなかの柄の擦れた木目にもう一度、自分の指の腹をそっと当てた。


自分が誰のとも知れない箒の柄や、葉月の家の白いハンカチや、母の裁縫箱のはさみの感触を、なぜ覚えておこうとするのか――その理由を、ひかりは自分のなかではっきり言葉にしていなかった。


ただ、いま、てのひらに重く落ちる、お母さんの包丁の柄の感触は、ひかりの内側の引き出しのいちばん上の段に、いつもよりひと回り丁寧な角度で置かれた。


いちょう切りの大根が、まな板のうえに、ぜんぶで十二枚、並んだ。


「ありがとう、ひかり。――助かったよ」


母は、笑った。


「ええ」


ひかりも、いつもの調子の笑いで頷いた。


台所の窓の外、庭の奥のほうの、椿(つばき)の木のあたりに、午後のやわらかい光の色がひと筋、溜まっていた。


ルナは、台所の入り口のすぐ脇の暗がりに、丸まっていた。


***


二月のはじめ。節分の夕方。


母は、台所で炒った大豆の匂いを、家じゅうに広げていた。父は、玄関のたたきで、いつもの背広の代わりに、ひと回り古いセーターを上から羽織り直していた。


「お父さん、もうちょっと、悪役顔、してくれない?」


結が、鬼の面のひもを父の後頭部で、一度結び直した。鬼の面は、結が幼稚園の頃に工作で作ったいちばん大きな(やつ)で、もう頬のあたりの赤い色が、半分くらい剥げかけていた。


「これでいいか?」


父が、面の下から、いつもの穏やかな声で言った。


「ぜんぜん、こわくないよー」


結は、いつもの調子で笑った。


「もう、なんでもいいから、はやく外、出てて」


母が、台所のほうから声をかけた。


父は、面の奥で、いつもの宗一郎の調子のまま、「はいはい」と返して、玄関の戸を開けて、外の寒さのほうへ出て行った。


ひかりは、結と並んで玄関のたたきに立った。長姉の美咲は、二階の階段の途中で、「あんまり大きい声、出さないで」と短くこぼして、また踊り場のほうへ消えていった。


母が、炒り豆の入った(ます)を、ひかりと結のあいだに半分ずつ渡した。


「鬼は外! ふくはー、うちー!」


結の声は、玄関の外の空気のなかへ、元気よく飛び出した。結の手から、豆が父の足元の砂利のうえに、二、三粒、転がっていった。


ひかりは、結のとなりで升のなかの豆を、てのひらにひと粒だけ拾いあげた。


「お父さん、ごめんね」


口のなかで、小さく笑った。


それから、豆を軽く父の足元のほうへ転がした。


豆は、玄関の外のたたきに転がって、父の靴の先のすぐ手前で止まった。


父は、鬼の面の奥で、


「ひかり、優しいねえ」


と、笑った。


ひかりは、結のとなりで升の豆をもうひと粒だけ、てのひらに拾いあげた。


二粒目も、同じ角度で、父の足元のほうへ転がした。


結が、横から、呆れ半分の笑いを落とした。


「ひかり、それじゃ鬼、外に出て行かないってばあ」


「ええ。――だってね、お父さん、寒そうなんだもん」


ひかりの声は、玄関のたたきの冷たさのなかに、いつもの柔らかい温度で置かれた。


父は、鬼の面の下で、声を立てて笑った。


玄関の戸が、もう一度だけ風の音でひとつ揺れた。


紫紺の影は、玄関の奥の廊下の暗がりから、玄関のたたきのほうへ、一度耳先だけ向けていた。


***


豆まきが終わって、家のなかが、いつもの夕食の匂いに戻る頃には、もう二月の夜のいちばん深い色が、窓の外に降りていた。


夕食の食卓に、家族みんなが順番に着いた。母は、節分のあとに焼いた(いわし)の皿をテーブルの真ん中に置いた。


「今年も、家族みんなで、無事に節分、迎えられたわねえ」


祖母が、椀を両手で包み込みながら、ひとり言の調子で言った。


ひかりは、味噌汁の椀のふちにいつもどおり、指先を一度一周させた。


「ええ」


いつもの調子の相槌が、ひかりの口のなかでひと呼吸置かれた。


食卓の下では、紫紺の影がいつもの位置で、そっと耳を立てていた。


引き出しの奥のハンカチのうえの四粒の結晶のことを、ひかりはその夜、口にしなかった。


上葉神社の灯籠の影に置いてきた、白いイタチの色のことも、口にしなかった。


味噌汁を口に運ぶ手は、いつもと同じ速さで動いた。


二月の夜の風が、家のまわりをひと吹き撫でていった。

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