chapter-05: 日常のなかで 第三節 春のはじまり
三月のはじめ、長姉の美咲の高校受験の合格発表の朝だった。家のなかに薄い緊張が張っていた。
午前中はずっと、誰もテレビをつけなかった。母の真奈は台所の片隅で念入りに茶碗を洗っていた。父の宗一郎は新聞をめくる速さが落ちていた。次姉の結はこたつ布団のうえに座り、何度もスマホの画面を見ては伏せていた。
ひかりは自室の机で、宿題のドリルをひらいたままペン先を動かしていなかった。
午後一時の少し前、玄関の戸が勢いよく開いた。
「あったー!」
美咲の声が玄関のたたきに飛び込んできた。足音が声を追って廊下を踏み鳴らし、居間へ駆け込んできた。
「番号、あったの」
ひかりは机を離れて廊下に出た。母が台所から出てきて、結がこたつから跳ね起きた。
美咲はコートの裾を膝のあたりで両手でつかんだまま、玄関先のたたきに立っていた。頬が、外の寒さで説明のつく以上に赤かった。鼻の頭も濃いピンクだった。――さっきまで走ってきたのだろう。
「美咲、よかったね」
母の真奈の声がいちばん先に届いた。母はエプロンの裾で手のひらを拭き、美咲の頬へ両手を持ち上げかけて止めた。十六歳の娘の頬を挟み込むのを、母はいつのころからか躊躇するようになっていた。
母の手は結局、美咲の二の腕で止まった。
「うん、お母さん。わたし、ほんとうに、合格してた」
美咲の声は、家のなかで聞く高さより半音上だった。
「うん、よかった。ほんとに、よかったね」
母はそれだけ言って、涙腺のあたりをエプロンの肩で押さえた。
結はたたきまで滑り込んで、美咲の腰に両手で巻きついた。
「お姉ちゃーん、お姉ちゃん、すごーい! ねえ、おめでとうって何回言ったらいい?」
「もう。結、コートの裾踏まないで」
美咲が苦笑いした。それでも結の腕は振り払わなかった。
ひかりは廊下のいちばん奥で足を止めた。
「お姉ちゃん、おめでとう」
ひかりの声は、結の歓声と母の涙声のあいだに置かれた。
美咲は結の頭の向こうから、ひかりへ目を細めた。
「うん。――ひかり、ありがとう」
その瞬間、ひかりは見つけた。
美咲の右手の指先がふるえていた。コートの裾を握っていた指の関節が白かった。外の寒さの色ではない。合格発表の番号を自分の目で見つけた直後の、まだ抜けていない震えだった。
――しっかり者の長姉の指が震えるのを、ひかりは見たことがなかった。
ひかりは、その指の白さを自分のいちばん奥の引き出しへ、頁を一枚めくる手つきで収めた。
夕食には、母が朝から仕込んでいた赤飯と結がリクエストした唐揚げが、大きい器にふたつ並んだ。父はビールの缶を早々に開けた。祖母の静江は椀を両手で包み込み、「美咲が高校生になるねえ」と何度も言った。
ひかりは味噌汁の椀のふちに指先を一周させた。それから家族の笑い声のあいだへ、自分の「うん」と「ふふ」を置いていった。
ルナはこたつの奥の暗がりに丸まっていた。
***
三月の終わりの夕方、家への帰り道で、ひかりは公園の細い遊歩道をひとり歩いていた。
葉月はその日、家族で祖父母の家に行っていた。
公園の桜の若木の根元に、まだ開ききっていない蕾が固い色のまま並んでいた。三月の終わりの光は冬の灰色ではなく、春のやわらかさにも届いていなかった。風が靴のうらの砂利を撫でて、植え込みの向こうへ抜けた。
砂場のいちばん奥、植え込みの根元の手前でひかりは足を止めた。
ちいさな子猫だった。
両のてのひらに乗りそうな大きさ。淡い茶トラ。背中に薄白い結晶がふた粒、張り付いていた。前足の片方は半分以上、透明な結晶に置き換わっていた。残った毛のあいだから、桜の若木の影がぼんやり透けていた。
植え込みの向こうの遊歩道に、犬の散歩の足音も子どもたちのはしゃぎ声もなかった。砂場の砂のうえへ、夕方の光が斜めに降りていた。
ひかりは周囲をぐるりと見渡してから、ランドセルの肩ベルトを整え直した。
「すみちゃん」
口のなかで、ちいさく名前を呼んだ。
肩甲骨のすぐ下が温度を変えた。背中の輪郭の外側に、カラスの羽の気配が薄く浮かんだ。視界の明度が上がった。――三月の終わりの光のなかで、植え込みの葉の縁のうぶ毛まで見えるようになった。
「箒」
ひかりはもうひとつ、口のなかで呼んだ。
学校の掃除箒の柄の感触が、右手のなかにすうっと満ちた。木の柄の節が、てのひらのくぼみに当たった。穂先の竹のささくれが、夕方の光をひと筋、二筋と返した。
ひかりはいちどだけ、息を整えた。
子猫の喉元、薄白い結晶の核が内側からほんのり燈って見える場所へ、箒の穂先をすべらせた。
しゃきん。
ふしぎなくらい抵抗のない金属の音が、夕方の砂場の空気にひと粒置かれた。
子猫の身体がわずかに揺らいだ。皮膚に残っていた薄白い結晶が、さらさらと細かい光になって桜の根元の苔へ流れた。茶トラのかたちは苔と土のうえへするりと崩れ、見えなくなった。
ちいさな結晶が、ひと粒、苔のうえに残った。
蜜柑色の、米粒より小さい結晶だった。冬のあいだに集めた薄水色や青磁色とは別の色をしていた。
ひかりは膝を折り、上着のポケットからハンカチを取り出した。真ん中にひと粒を置いて四隅を折りたたみ、上着の内ポケットへ収めた。
膝を伸ばして、ひかりはもう一度ぐるりと周囲を見渡した。
遊歩道の向こうにも、桜の若木の向こうにも、誰もいなかった。
足元に紫紺の影が寄り添っていた。
「またひと粒、ふえたね」
ルナの声は、桜の若木の蕾の脇の空気にすこし長く留まった。
「ええ」
ひかりは内ポケットのうえから、ハンカチごとの重みをてのひらで確かめた。
***
家に帰ると、玄関のたたきに結のスニーカーが脱ぎ捨てられていた。居間のテレビから、夕方のニュースの男性アナウンサーの声が廊下のいちばん奥まで届いた。
「市内の小学校近くで、原因不明の腕時計の集団停止が報告されています。商店街の電器屋の店主によりますと、修理に持ち込まれた腕時計はいずれも、内部の機構には物理的な異常がないとのことです。専門家は、近隣の電磁波環境の変化を含めて原因を調査中だと話しています」
画面が切り替わり、商店街の電器屋の店主がカウンターに並べた腕時計を、ひとつずつ両手で数えていた。
「あれー、お父さん、また変なニュースだよー」
居間のソファのほうから、結の声が響いた。
「うちの時計、大丈夫だろうな」
父の宗一郎の声が続いた。
「あなたの時計はね、もう五年ものでしょう。そろそろ寿命がきても、おかしくないわよ」
台所のほうから、母の真奈が笑い半分の声で返した。
「ええー、まだぜんぜん、いけるってー。修理出したら万単位だぞ、これ」
「そう、なら、いいけど」
母の声はそこで終わった。
ひかりは玄関のたたきで靴の踵を脱いだ。靴下の足のうらに、廊下の冷たさがすうっと上がってきた。
「ひかり、おかえりー。手、ちゃんと洗いなさいね」
母の声は台所から、廊下のいちばん奥まで届いた。
「うん」
ひかりは声の高さを変えずに返した。
***
その夜、机のいちばん下の引き出しを、ひかりはひと月ぶりに引いた。
上着の内ポケットからハンカチを出して、蜜柑色のひと粒をてのひらへ移した。それから、引き出しの奥のハンカチを両手でひらいた。
ふた粒の琥珀色、薄水色、青磁色。そのとなりへ蜜柑色のひと粒を置いた。卓上灯の橙のしたで、五粒がそれぞれ違う角度の光を机に返した。
――五粒目。
口に出さずに、ひと言だけ置いた。
「すこし、ふえてきたね」
ひかりが今度は、口のなかでつぶやいた。
「ええ。――色もすこしずつちがうね」
ルナの返事は、流れる調子のうしろに暖かい色を残した。
ひかりはハンカチを折り直し、引き出しの奥へ収めた。
かたん、とちいさな木の音が、机のなかで響いた。
***
四月のはじめ、入学式と進級式のあいだの、よく晴れた朝のことだった。
ひかりは新しい学年の名札を、胸の左に母の真奈の手で留めてもらった。
「ひかり、もう六年生かあ」
母の声は、語尾の伸びが長かった。
「うん」
ひかりは左胸の名札にてのひらを当てた。名札の角の硬さが、てのひらの底に薄く伝わってきた。
学校の門のところへ、葉月がひかりより先に走ってきていた。
「ひかりちゃーん、おはよう!」
葉月の声は半音上ずっていた。新しいヘアピンがふた粒、前髪の生え際で春の光をちらりと返した。色は淡い薄桃色。先週末に葉月のお母さんと買いに行ったやつだろうと、ひかりはすぐわかった。
「おはよう」
「ねえねえ、クラス、どこかな!」
「ええ。いっしょだといいね」
ふたりは肩を並べて、校庭の隅の掲示板のところまで走った。
新しいクラスの名簿に、ふたりの名前は隣どうしで並んでいた。葉月が両手の指を組み、その場で二回跳ねた。
「やったー! よかったー!」
「――ふふ。ね、よかった」
ひかりは葉月の肩の脇で笑い返した。
教室に入ると、机の位置は去年とほとんど変わっていなかった。葉月は隣の席。担任の先生も去年と同じだった。学級委員に、また柳美月の名前が黒板の左隅に書かれていた。――彼女はもう自分の席で、新しい連絡帳に几帳面な見出しを書きはじめていた。
朝の会のあと、保健委員の発表があった。
「保健委員、天宮ひかりさん、植木桃子さん」
担任の先生の声に、教室の前で植木桃子が顔をあげ、ひかりへ短く目を向けた。
***
休み時間、植木桃子が自分の席を立ってひかりの机まで来た。
「天宮さん、今年もよろしくね」
植木桃子の声は、半年前の保健委員会のときとほとんど変わらなかった。すこし遅い。すこし丁寧。
「ええ、よろしく」
ひかりは植木桃子の声に、自分の声の角度をすこし合わせて返した。
植木桃子は笑った。
「今年もね、ふたりで救急セットの当番、回そうね。――去年、絆創膏のところをすごく几帳面にしてくれてたから、川嶋先生がずっとほめてた」
「ふふ。そう。――ほめてもらえてた、なんて、知らなかった」
「うん。たぶん、天宮さんに直接は、言ってないと思う。川嶋先生、そういう人だから」
植木桃子の笑い方は、教室の音のなかでひとつだけ音量が低かった。
「ええ。――植木さんも、ね」
「うん?」
「植木さんの花瓶の水替え、いちばん丁寧で」
「ふふ。気づいてたんだ」
植木桃子は、ほんのり頬を赤くした。
「気づかれていないと、思ってた」
「ええ。気づいてたよ」
ひかりの「ええ」は、家族に返すときの「うん」とは別の場所から出てきた。葉月に返すときの「ええ」よりも半音だけ丁寧めに整えられていた。その丁寧さの底に、ひかりが人前では出さない温度のひと粒が混ざっていた。
植木桃子は、その「ええ」を自分の頬のあたりで転がした。
「じゃあ、またよろしくね」ともう一度笑って、自分の席へ戻った。
葉月が、振り向きざまに、
「ひかりちゃん、植木さんと、また保健委員いっしょなんだね」
と、声を半分だけ笑いの形に弾ませた。
「ええ」
「ひかりちゃんって、植木さんと結構、相性いいよね」
「ふふ。――そうかな」
「うん。なんかね、いっしょにいるとき、ふたりともおなじようなしずかな顔してる」
葉月は自分の口から出た言葉に、自分でいちばんはにかんだ顔をした。
ひかりは葉月の頬の色に、いちど視線を留めた。
「ありがとう」
ひかりの「ありがとう」は、語尾の落ち方が遅かった。
「えー、なんで、お礼ー」
葉月が口を半分尖らせて笑った。
「ふふ」
ひかりは机のうえの新しい教科書の角を、てのひらで撫でた。
教室の窓の外を、桜の花びらがひとひら、四月の光のなかを横切っていった。
***
四月の終わりの、ある夜。
学校から帰って家族にただいまと言い、手を洗い、自室の扉を閉めた。その瞬間、肩のあたりからすうっと何かが落ちた。一日じゅう身体のうえに乗せていた重さが、扉の向こう側へすべり落ちていった。
ひかりはこの感覚をもう何度か知っていた。
知ってはいたが、なぜ扉の向こう側でしか落ちないのかを、自分の言葉で説明したことはなかった。
卓上灯の橙のひと粒を机に灯した。窓のそとに、四月の終わりの夜の青がまだ薄く残っていた。
ベッドのへりに腰をおろすと、足元から紫紺の影が膝のうえに上がってきた。
「ねえ、ルナ」
その声は、「ええ」「そう」「うん」のどれとも違う調子だった。
葉月が放課後の教室で話しかけてくるときの、あの軽さのある声。――自分の声がそれに似ていることに、ひかりはまだ気づいていなかった。
「うん」
ルナはひかりの膝のうえで目を細めた。紫紺の毛のあいだから、夜の橙の光がひと粒、ふた粒とすべり落ちた。
「今日ね、葉月ちゃんが、ぜんぜん違う話を三つくらい同時にしてきたの」
ひかりはルナの背中にてのひらを置いた。紫紺の毛の上下する呼吸が、てのひらの底を通り抜けていった。
「あの子ったらね。放課後の話を始めたかと思ったら、急にお母さんに買ってもらった漫画の話で、それから給食の揚げパンの話。――ふふ。もう、頭が追いつかなかった」
「ふふ。葉月ちゃんって、そういう子よね」
ルナの声は、流れるような調子でそれだけ返した。
「うん。――だからね、いっしょにいると、こっちがすこししずかにしてあげる感じになるの」
ひかりは膝のうえのルナの背中を、てのひらでなぞった。
「お姉ちゃんの結に、ちょっと似てるかも。すぐ、わー、ってなる。――だからね、わたしの方がしずかにしてあげないと」
「うん。ひかりちゃんは、そういうこと自然にできちゃう子だものね」
ルナはひかりの言葉を、長めに受け止めた。指摘も訂正もしなかった。
自分の言葉のなかに、葉月や姉をてのひらの下へ置いて見るような色合いが、ひとはけ滲んでいた。ひかりはそれに気づいていなかった。「しずかにしてあげる」「おさえてあげている」――そうした言いまわしは、ひかりにとってごく自然な観察の表現だった。
ひかりの声は、自分でも気づかないままにすこし低く、すこし甘い調子になっていた。学校の廊下で植木桃子に「ええ、よろしく」と返すときの、丁寧めに整えた声とは別の音だった。教室で岡部七海の噂話を「ふふ、そう、変だったね」と引き取るときの声ともちがった。
ここでだけ、出てもよかった音。
仮面の下に押し込んでいる、ほんとうの呼吸の音。
「ふふ。――ねえ、ルナ」
「うん」
「あのね。――こういうこと、誰にも言わないの。お母さんにも葉月ちゃんにも、お姉ちゃんたちにも言わない。ルナだから、話せるの」
「ええ、ちゃんと聞いてるよ」
ルナは目を半分だけ閉じて、それからもう半分も閉じた。聞いている気配だけは、ひかりのてのひらの底に残っていた。
ひかりは姿勢をすこし変えた。膝のうえのルナの背中に、もう一度てのひらを置いた。
「わたしね、――大きくなったら、なんでも自分でできる人になりたいの」
その言葉に、口に出してから自分でも驚いた。
誰にも言わない言葉だった。母にも父にも、葉月にも姉たちにも、一度も口にしたことがなかった。――それが、ルナの相槌のなかで唇の外へ出てきた。
頬のあたりが、ひとりでに熱くなった。
それから、構わずに続けた。
「お父さんやお母さんが、お姉ちゃんたちが、なにかを誰かに頼っているとき。――わたしは誰にも頼らずに、自分ひとりでぜんぶできる人がいい」
「うん」
「お父さんが行ける場所より、もっと遠くも、行きたい。お姉ちゃんが読んでいる本より、もっとたくさん読んでいたい。葉月ちゃんが行ったことのない場所も、行ってみたい。――ぜんぶ」
「ふふ。――ぜんぶ、なのね」
ルナは笑った。
否定も煽りもしなかった。ひかりの「ぜんぶ」を、夜の灯りの橙のなかへ受け止めた。
「うん」
ひかりはもう一度、ルナの背中をてのひらで撫でた。
そのとき、胸の真ん中のすぐ下がほんのり熱を帯びた。
「ルナはね」
「うん」
「笑わないでくれるから。――どんな話も、ぜんぶ聞いてくれる。葉月ちゃんといるときは、楽しいんだけどね。――やっぱりすこしつかれるの。気をつかうから」
その言葉が口の外へ出た瞬間、自分のなかのいちばん奥の引き出しの、もうひとつ奥の扉がひらいた。
「ルナといるときね、わたしは、たぶんいちばん楽」
「ええ。わたしも、ひかりちゃんといる時間が好きよ」
ルナの声は、ひかりの耳の奥に長くとどまった。
ひかりは卓上灯の橙の光のなかで、ルナの紫紺の毛のうえを揺れる影をしばらく目で追った。
てのひらの温度とルナの背中の温度が、どちらが先か分からないくらいに混ざっていった。
肩の付け根や首のうしろに、一日じゅうかかっていた重さがあった。
それが、ルナの呼吸の上下に合わせて抜けていった。
楽しい、というよりも、つかれていない。そちらに近かった。
自分がつかれていることに、ひかりはあまり気づいていなかった。
ここでだけ、そのつかれがなくなっている――と、わかる。それがこの時間の不思議さだった。
「ねえ、ルナ」
「うん」
「あのね。わたしの話をちゃんと聞いてくれる人はいないの。――聞いてくれているように見えても、ね。ほんとうに聞いてもらえてる、って思えていないの」
ひかりは自分が何を口にしているのか、半分くらいわからなくなっていた。
それでも、それが嘘でないことだけはわかった。
「うん」
「ルナはね、聞いてくれてるって、わかるの」
「うん。――聞いてるよ、ひかりちゃん」
ルナの声は、流れる調子のままひかりの胸の奥にとどまった。
ひかりはまぶたを半分だけ閉じた。
紫紺の毛の上下が、てのひらの底で遅い呼吸を続けていた。
「ぜんぶ、欲しいの」
ひかりはもう一度口にした。
今度は、最初に言ったときよりも自分の声が重かった。
「ふふ。――ええ、知ってる」
ルナの返事はわずかに長く、夜の橙のなかにとどまった。
ひかりはまぶたをもう一度開いた。
ルナの瞳のなかで、卓上灯のちいさな影がひと粒、ふた粒と揺れていた。
「ねえ、ルナ」
「うん」
「もう少しだけ、こうしていていい?」
「ええ」
ひかりはてのひらを、ルナの背中の毛の流れのうえへ移した。
ルナの呼吸の上下が、さらに遅くなった。
机の引き出しの奥の五粒の結晶のことを、ひかりはその夜も誰にも口にしなかった。
うすあかり公園の子猫のことも、口にしなかった。
ただ、ルナの背中の上下する呼吸だけが、ひかりの夜の時間をてのひらの底で形にしていった。
――「ぜんぶ」。ひかりはもう一度、声には出さずに口の中でつぶやいた。
その「ぜんぶ」のひと言は、しばらくひかりの口の中に留まった。
ルナはそれ以上、何も言わなかった。
ひかりがベッドの脇の卓上灯を指のはらで消した瞬間、ルナの瞳のなかでふた粒、ちいさな影が揺らいだ。
四月の終わりの夜の青が、自室の窓のいちばん高いところに、ひと粒ふた粒と星を増やしていった。




