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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 雨宮ひかり編

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chapter-05: 日常のなかで 第四節 初夏の手触り

ゴールデンウィークの朝、家のなかの空気は、いつもの登校日のリズムとは別の色をしていた。


母の真奈は、玄関の脇のいちばん大きい旅行カバンの口を、もう三度確かめていた。父の宗一郎は、車庫のシャッターをひと回り高めに開けて、後ろのトランクを開けてから、結のリュックの大きさにすこしだけ眉を上げた。


「結、これ、二泊だよ」


「わたしのお気に入りのワンピース、シワになるのいやだから、いちまいだけだから、ね」


「いや、ぜんぜん、いちまいに見えないだろ、それ」


「いいの。じゃ、お父さん、運転よろしくー」


長姉の美咲は、後部座席の窓辺に、新しい高校で配られた古典の問題集を一冊だけ持って乗り込んだ。膝のうえの白い表紙が、まだ折り目もつかないまま、ゆったり置かれていた。


ひかりは、いつもの場所の、結のとなりの席に乗った。膝の脇のあたりに、紫紺の影が車のうしろの座席の隅から、ふっと寄り添ってきた気配があった。


「ねえ、ひかり」


結が、ひかりの肩に半分体重をあずけて笑った。


「温泉はね、ぜったい、いちばんいいやつ入るからね」


「ふふ、そうだね」


ひかりは、結の頬のあたりの興奮の赤に、いつもの笑顔を半拍だけゆっくりめに置き返した。


***


宿は、山あいの古い旅館だった。


到着の日の夕方、家族みんなとの夕食のあと、ひかりは自分の浴衣の帯を、結のとなりでもう一度ていねいに結び直した。結の浴衣の帯は藤色(ふじいろ)のグラデーションで、ひかりのは薄萌黄(うすもえぎ)。母が「ふたりとも、ほら、ちゃんと撮らせて」と、廊下のすみで何度かスマホを持ち上げた。


「ねえ、お母さん、いつまで撮るのー」


「もう一枚だけ。ふたりとも、笑って」


「もうー」


結のとなりで、ひかりはいつもの柔らかい笑いをふた呼吸ほど、母の画面のほうへ置いた。


***


二日目の夜、ひかりは結と、宿の露天風呂に、ふたりで入った。


山あいの夜の冷えが、湯気のうえから降りていた。湯のいちばん奥のところに、岩の段差がふた段組まれていて、結はそのいちばん上の段に、足を伸ばすかたちで座っていた。ひかりは、結の足の付け根のすぐ脇の段で、湯のなかに両膝をそっと沈めていた。


頭のうえの夜空には、星が思ったよりもずいぶん近かった。青藍の家のベランダから見上げる空とは、別の場所から落ちてきているような色をしていた。


「ねえ、ひかり」


「なに?」


「最近さ、なんかちょっと、おとなびた?」


結の声は、湯のいちばん表面のあたりをふっと撫でて、ひかりの頬のところまですうっと届いた。


ひかりは、星のひと粒を目でいちど追った。それから、


「ううん。そんなこと、ないと思う」


と、いつもの調子で返した。


「そう? なんかさー、わかんないけど、ちょっと目つきがすこしだけちがう気がしたの、最近」


「ふふ。気のせいだよ、お姉ちゃん」


結は、「そっかー」と、湯のなかでもう一度足を伸ばした。爪先のあたりが、湯の表面の星の影を、ひと粒、ふた粒と揺らした。


「ま、いっか。――ひかりはひかりだもんね」


「うん」


ひかりは、湯のいちばん下のところでてのひらをひらいて、湯の熱を、ゆっくりてのひらの底に集めた。


***


連休明けの、ある土曜日の午前中だった。


教室の窓辺の席で、遠藤(えんどう)さくらが自分の机の角を、ひかりのほうへひと回りずらしてみせた。


「ねえねえ、天宮さん」


ひかりは、ふと顔をあげた。


「駅前にね、クレープ屋できたんだって。葉月ちゃんと、いっしょに行こうよ。岡部さんも、来るって」


遠藤さくらの隣で、岡部七海が、いつも噂を運ぶときの顔よりももうひと回り柔らかい角度で頷いた。そのうしろから、(あずま)茉莉(まり)桑島(くわじま)結愛(ゆあ)が、それぞれの机の角から半分だけ顔を覗かせた。


「うん、行きたい」


葉月が、ひかりの肩のすぐ脇から、ふたつぶんはやく声を出した。


「えー、葉月ちゃん、ひかりちゃんの返事、聞いてからだってばー」


桑島結愛が、口を半分尖らせて笑った。


ひかりは、葉月の頬のあたりに視線を留めてから、


「ええ。行こう、葉月ちゃん」


と、自分の机の角を、そっと葉月の方へ近づけた。


***


土曜の昼さがり、青藍駅前のクレープ屋の前で、女子六人が並んだ。


葉月はチョコバナナを選んだ。ひかりは抹茶のクレープを頼んだ。岡部七海はいちばん大きい苺の盛り合わせ、東茉莉はカスタードプリン、桑島結愛は生クリームを増量したもの、遠藤さくらはひかりと同じ抹茶を選んで「あ、いっしょー」と笑った。


帰り道、駅前の歩道橋を渡るところで、遠藤さくらが、半分残ったクレープを手に振り返った。


「ねえ知ってる? 川向こうの中学の体育館にね、よく分からないひびが入ってて、そのまわりだけ床に霜が降りてたんだって。先輩の友達が見たって」


「えー、こわっ。最近そういう話、多くない?」


岡部七海が、自分の出し物を取られたような顔で、続いて言った。


「うちのお父さんもね、ニュース、増えてるって言ってた」


葉月も頷きながら、口を尖らせた。


「あたしも、昨日テレビで見たよ。変な動物がいたって」


桑島結愛は、ひかりの隣で、生クリームの最後の一口を舐めながらそう言った。歩道橋の手すりの向こうに、青藍中央商店街せいらんちゅうおうしょうてんがいの屋根の色が、初夏の光のなかでひと段強い白を返していた。


「ふふ。そう、変な話、多いね」


ひかりは笑顔の角度を変えずに、いつもの返しを、六人の真ん中のあたりにそっと置いた。


東茉莉が自分のプリンのスプーンの先を、半拍止めて、


「天宮さんって、こういう話、こわがらないよね」


と、笑った。声には、皮肉のかけらもなかった。ただ、観察をふっと口に出しただけだった。


「そうね。――だって、こわがっても、変な話は減らないでしょう?」


ひかりは、東茉莉のプリンの黄色のあたりに半拍だけ視線を留めて、それから、自分の抹茶のクレープのいちばん固い端を、ひと口口に入れた。


葉月が、ひかりの肩のすぐ脇で、


「ひかりちゃん、なんかさあ、たまにおばあちゃんみたいなこと言うよね」


と、口の端だけで笑った。


「ふふ」


ひかりは、葉月の笑いの角度に、自分の笑いの角度を半拍だけ合わせて揃えた。


歩道橋の向こうの空のいちばん高いところに、初夏のうろこ雲が、ひと筋、ふた筋と薄く流れていた。


***


五月の終わり、土曜日の午後だった。


ひかりは、家の裏の物置の前で、祖母の静江のとなりにしゃがんでいた。


「お祖父ちゃんの古いものをね、すこし、整理しちゃおうかと思ってね」


祖母は、薄い綿の手袋を両手にひとつずつはめながら笑った。手袋は、もう何度も洗ってきたらしく、手首のゴムのところが半分ほど伸びかけていた。


「うん。手伝うね」


ひかりも、台所から借りてきた軍手を、自分の手の大きさよりもひと回り大きいサイズで両手にはめた。


物置の戸を引くと、なかからひと冬ぶんの埃の匂いと、油と、土と、古い木の匂いがいっせいに立ちのぼった。母の真奈が、物置のことを「あそこはお祖父ちゃんの場所だから」と言って、長く触らずにきたことを、ひかりはずっと前から知っていた。


奥のほうの棚の、布のかぶったいちばん古い段を、祖母が両手でゆっくり引いた。中身は、古い土の付いた園芸用の鉢と、紐の束と、針金の輪っかが、いくつか。さらにその下の段の床板のうえに、何かが長く伏せられていた。


ひかりはその輪郭に、ふっと視線を留めた。


(かま)だった。


刃の半分に、赤茶けた錆びがまばらに浮いていた。それでも、刃のかたちは、まだ綺麗だった。柄は木で、てのひらに馴染む磨きが、まだ半分ほど残っていた。


「あら」


祖母が、ひかりのうしろから首を斜めに傾けて覗き込んだ。目を細めて、それからほんの半拍だけ、口の端を笑いともなつかしさともつかない角度に整えた。


「お祖父ちゃん、これでね、畑の草、刈ってたわねえ」


「うん」


ひかりは、軍手のままでは、と思って、いちど軍手を脱いだ。それから、両手でそっと鎌を持ち上げた。


柄の重みが、てのひらの底にゆっくりと降りた。


鎌は、ひかりの想像していたよりもひと回り重かった。けれど、その重みはふしぎなくらい、てのひらの内側のいつもの場所に馴染んだ。


ひかりは、頷きの代わりに、てのひらをもう一度、柄の擦れた木目のうえにそっと走らせた。


擦れの跡が、お祖父ちゃんの親指の付け根がいつも当たっていた位置で、ひと回り深く刻まれていた。


「これね」


祖母が、すぐうしろから、もうひと段低い声で続けた。


「お祖父ちゃんが、いちばん長く使ってたのよ。――ほかにもね、新しいのがいくつかあったんだけど、結局これがいちばんしっくりくるって、ずっとね」


「うん」


ひかりは、鎌の柄を、両手でゆっくり持ち直した。


「お祖母ちゃん」


「うん?」


「これ、もらってもいい?」


祖母は、ほんの一拍、ひかりの顔を見た。


ひかりは、すぐに、自分の口元をいつもの柔らかい角度に整えて、続けた。


「お祖父ちゃんのこと、なんだか、忘れたくなくて」


祖母の目のなかで、ほんの一瞬、何かがゆっくり揺れた。――春の朝の池のいちばん表面のところに、風がひと吹き通ったときの、あの揺れに似ていた。


それから祖母は、いつもの穏やかな笑い方にゆっくり戻った。


「いいよ」


「うん」


「お祖父ちゃんも、ひかりに大事にしてもらえるなら、喜ぶよ。――なんだか、ひかりは、お祖父ちゃんに、よく似てるねえ」


ひかりは、頷きの代わりに、まばたきを半拍だけゆっくりにした。


「ええ。ありがとう」


口の中で、自分の「ええ」と「ありがとう」が、いつもよりもひと回り近い距離で並んでいた。


祖母は、ひかりの肩のあたりを軍手のままでいちど、ぽんと軽くたたいた。それからまた、物置の奥のほうの段に両手を伸ばした。


ひかりは、鎌の柄をハンカチでいちどそっと拭った。錆びの粉が、白いハンカチの真ん中に薄くすこし移った。


物置の入り口の上のほうから、初夏の午後のやわらかい光がふた筋、三筋と、土間の隅まで斜めに降りてきていた。


***


その夜、ひかりは自室の机の卓上灯の橙のしたで、ひさしぶりにノートをひらいた。


ノートは、新しいものではなかった。去年の冬のある夜から、ひかりが自分の机の引き出しのいちばん上の段にそっと収めてきた、罫線のシンプルなノートだった。表紙の色は、淡い灰青。背の糊のところが、もう何度かひらかれて、すこしだけ白くなりはじめていた。


ノートのいちばん前のページに、ひかりは几帳面な字でひとつ見出しを書いていた。


「呼び出せるもの」


その下に、これまでに行をひとつずつ書き連ねてきていた。


すずちゃん。

すみちゃん。

葉月の白いハンカチ。

お母さんの裁縫箱のはさみ。

学校の掃除箒。

お母さんの包丁。


ひかりは、いちばん下の行にシャープペンの先を置いた。


「おじいちゃんの鎌」


書いたあとで、ひかりは自分の字の縦の線が、いつもよりも半画ぶんだけしっかり立っていることに気づいた。


ノートをいちまいめくった。


「呼び出せるもの」リストは、もう見開き一面の半分のところまで近づいていた。――気づかないあいだに、こんなに増えていた、とひかりは思った。


それから、ひかりは机のいちばん下の引き出しを、いつもの手つきで引いた。


奥のほうのハンカチを、両手でゆっくりひらいた。


色のちがう結晶が十一粒、並んでいた。


はじまりの濃琥珀色(こいこはくいろ)。冬の薄水色と青磁色。初春の蜜柑色。それから、四月のあいだに加わった、淡い緑、薄い瑠璃色、いちばんちいさな乳白色。五月のあいだに加わった、こっくりした紅、米粒ふた粒ぶんの薄紫(うすむらさき)、ビー玉ほどの真新しい透明、いちばん最後の、夕暮れの空にひと筋走るような橙金色。


――大きさも、それぞれちがった。


ここに並んでいない、もうひと粒の薄琥珀色のことを、ひかりはてのひらの内側でいちど確かめた。――いちばんはじめの蝶のひと粒だけは、いつもの内ポケットのいつもの場所に、ずっとひかりと一緒にいた。お守りのように。


ひかりは、ハンカチの真ん中の十一粒を灯りの橙のしたで、しばらく目で追っていた。


「ふやそうとしてたわけじゃないんだけど」


ひかりが口のなかでひとりつぶやいた。


膝のうえに上がってきたルナが、半拍おいて、


「ええ、それは、たまたまね」


と、いつもの流れる調子で返した。


「うん」


ひかりは、ハンカチの四隅をいつもと同じ手つきで折り直して、引き出しの奥のいちばん深いところに、もう一度収めた。


それから、机のうえに戻った視線の先には、まだ鎌があった。


明日磨こうと、ひかりはひと言だけ内側で決めた。


刃のあたりに残った錆びの粉が、灯りの橙のなかで、そっと光を返した。


***


ベッドに横になった。


ルナが、膝の脇からするりと胸のすぐ脇まで移動して丸まった。


紫紺の毛のうえに、てのひらをそっと置いた。


ルナの背中の呼吸の上下が、てのひらの底を通り抜けた。


窓のそとには、五月の終わりの夜空が、薄あおの最後の名残のなかにあった。


ひかりは、まぶたを半分だけ閉じた。


机の引き出しの奥の冷たい結晶の十一粒と、内ポケットの薄琥珀のひと粒と、机のうえに置かれた祖父の鎌と、胸のすぐ脇の、夜の色の重み。それらが、今夜もいつもの順番で、ひかりの呼吸のなかに収まった。


ひかりはゆっくりと、まぶたをもう半分も閉じた。


五月の終わりの夜の風が、家のまわりをひと吹き撫でて、また、夜のなかへ消えていった。

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