chapter-05: 日常のなかで 第五節 成長と慢心
六月のはじめの土曜日の昼下がり、葉月の家のリビングは、レースのカーテン越しの白い光のなかにあった。
葉月の母が、ガラスのコップふたつに麦茶を注いだ。氷のひと粒が、コップのなかでコトリと鳴った。
「ひかりちゃん、お母さんね、最近ますますしっかりしてきたわねって思うのよ。――葉月もね、見習いなさい」
葉月の母は、エプロンでてのひらを拭いながら、目を細めて笑った。
「えー、おかーさん、なにそれー。あたしだってしっかりしてるしー」
葉月が、ソファのうえで半分体をひねって、唇を尖らせた。コップを両手で持っているせいで、すこし不格好な体勢だった。
「ふふ。ありがとうございます」
ひかりは、コップに口をつける前に、葉月の母のほうへいつもの笑いを置いた。
「ねえねえ、ひかりちゃん、漫画見てよー、新しいの、お父さんが買ってくれたの」
葉月は、もう次の話を始めていた。ひかりは麦茶のひと口を、すずしい喉の奥まで通した。
「ええ。――見せて、葉月ちゃん」
葉月の家の窓のそとには、隣の庭のさつきの最後のひと房が、白い光のしたで半分だけ色を残していた。
***
葉月の家を出て、ひかりはいつもの帰り道とは半区画ちがう路地に折れた。葉月の家の隣、ブロック塀のすこし手前で、いつもの場所にぽちがいた。
柴犬のぽちは、玄関ポーチの脇の日陰で、お腹をゆっくり上下させて寝そべっていた。耳が、ひかりの足音のほうへひと回りだけ動いた。
「ぽち、こんにちは」
ひかりは、しゃがんだ。
ぽちは目を半分だけ開けて、それから尻尾をふた振り振った。鼻先が、ひかりの差し出した手の匂いを短く確かめた。
「あら、ひかりちゃん、ぽちと仲良しね」
家の戸が開いて、飼い主のおばあさんが出てきた。手にしているのは、皺の寄った薄手の青いタオル。物干しのほうへもう半歩、歩きかけていた途中の立ち止まりだった。
「ふふ、ぽち、ふわふわで気持ちいいですね」
ひかりは、ぽちの首のうしろの柔らかい毛のところにてのひらを沈めた。指のあいだに、夏のはじめの陽の温度をひと回りだけ通った毛の流れがふっとひっかかった。
ぽちの背中の毛は、二層になっていた。表の毛がすこしだけかためで、そのすぐ下の毛が、綿のようにふわついていた。――ひかりは、てのひらの底でその二層の段差を、丁寧に覚えた。
「最近ね、すっかりおじいちゃんでね」
おばあさんは、ぽちのうしろから続けた。
「お散歩も、もう半分しか行きたがらないのよ」
「ふふ。――ぽち、無理しないでね」
ひかりは、ぽちの背中をもう一度ゆっくり撫でた。ぽちは、てのひらの重みを、飼い主のおばあさんに撫でられているときと同じ温度で受け取っていた。
ひかりは、ぽちの顔の両目のあいだの白い線のかたちを、目で一度なぞった。
「じゃあね、ぽち」
立ち上がって、おばあさんに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。――また、いつでもいらっしゃいね」
ぽちは、ひかりの背中のほうへ目だけで視線をついてこさせた。
***
葉月の家から自分の家までの中ほど、住宅地の細い路地に折れたところで、ひかりは足を止めた。
ブロック塀の日陰の側に、痩せていない、ふつうの三毛猫がいた。
茶白の雑種で、毛の流れの真ん中に、焦茶のまだら模様がふた筋、ゆるく入っていた。耳の先が、片方だけ半分ほどちぎれていた。――野良の、長く生きているほうの猫だった。
ひかりは、しゃがんだ。
「――みけ」
ひかりは、自分の声の低い温度でその名前を口のなかから出した。
三毛猫は、警戒の目をひかりのほうへ短く向けた。それから、ひかりのてのひらが差し出されているほうへ鼻先を半分ほど傾けた。匂いを確かめた。耳がひと回りだけ、ひかりの声のほうへ動いた。
警戒の目は、すぐにふつうの三毛猫の目に戻った。
ひかりはカバンの口を開けて、昨日の給食のパンの半分ほど残ったやわらかいところを、薄い紙のうえでふた口分にちぎった。
ちぎった片方をてのひらに乗せて、地面のほうへ置いた。
みけは二歩前に出た。鼻先で、パンの匂いをもう一度確かめた。それから、ふた口でそれを食べた。
ひかりは、てのひらをひらいたままもう一拍待った。
みけはもうひと口、ひかりのてのひらの最後のかけらを舌の先で取った。
「みけ、また会えたら、よろしくね」
ひかりは、最後のひとかけらを地面の日陰側にもうひと欠片だけ置いて、立ち上がった。
みけは、てのひらの匂いをもう一度確かめた。それから、ふつうの三毛猫の調子で、ブロック塀の隙間のほうへ歩き去った。
ひかりは、みけの後ろ姿のちぎれた耳のかたちを、目でもう一度追った。
***
翌日の日曜日の午後、ひかりは葉月と、青藍市立図書館の帰りの足で、すぐ脇の小さな公園に寄った。
葉月は両手に、絵の画集と、児童向けの大型絵本を、それぞれ一冊ずつ抱えていた。
「あー、ひかりちゃん、ちょっとベンチで休もうよ」
「ええ、いいよ」
公園の奥のベンチに、二人で並んで腰を下ろした。葉月は画集を膝の上にひらいた。表紙のすぐ後ろのページに、藤の絵が薄紫のグラデーションで見開きいっぱいに広がっていた。
「ねえ、これ、きれいー」
「ふふ。きれいだね」
葉月の指の白い肌の温度を、ひかりは目の端で受け取った。
公園の砂場の縁のところで、ひかりの視線がふっと留まった。
小さな結晶があった。
砂場の縁石の脇に、蜥蜴が結晶化していた。体長は、ひかりのてのひらの半分くらい。背中から頭のほうへかけて、薄い水色の結晶がひと筋育っていた。――まだ、もとの蜥蜴のかたちが半分は残っていた。
ひかりは、葉月の画集の藤のとなりのページの絵に、視線を戻した。
「葉月ちゃん」
「ん?」
「ちょっと、お手洗い行ってくる」
「あ、はーい」
葉月は、画集の絵から目を離さずに軽く頷いた。ベンチから動こうとはしなかった。
ひかりは、ベンチから立ち上がって、公園の真ん中のトイレのほうへ歩いた。
歩きながら、視界の端を丁寧に確かめた。
砂場の手前のブランコのほうには、女の子がひとり、ゆっくりと揺れていた。藤棚の下の長いベンチに、新聞をひろげた中年の男がひとり座っていた。滑り台の前のあたりに、小さな子供を連れた母親がひと組しゃがんでいた。
トイレの裏の、誰からも見えない側面まで回って、ひかりはブロックの壁の角に体を寄せた。
足元に紫紺がそっと座った。
「だいじょうぶよ、ひかりちゃん」
ルナの声は、ほんのわずかにだけはっきりした調子で、トイレの裏の白い壁のすぐ脇に置かれた。
「このくらいなら、気づかれないわ」
「……でも」
「ねえ、信じて。――すこしくらい人がいてもね、大丈夫だから」
ひかりは、ルナの紫紺の毛の上下する呼吸を目で確かめた。
「うん。――わかった」
ひかりは、内ポケットの結晶のひとつにてのひらを重ねた。
頭のなかで段取りを組んだ。――短く、終わらせる。
すずちゃんを呼んだ。
雀の輪郭がひかりの体の外側にすっと重なった。視覚のなかで、砂場の縁石の脇の小さな結晶の核の位置が強い白を返してきた。――核は、蜥蜴の背骨の真ん中の、ふつうならただの脊椎のあたり。
続けて、ひかりは、お母さんの包丁を呼んだ。
家の台所の引き出しのいつもの場所にあるはずの、木の柄のいつもの包丁が、ひかりの右手のなかにふっと現れた。柄の擦れた木目の感触が、てのひらに馴染んだ。――母の親指の付け根の重みがいつも当たっている、柄の根元の擦れの跡まで、ひかりの指先がきれいに収まった。
ひかりは、壁の角を半歩出た。
雀の身体能力で、砂場の縁石の脇まですばやく移動した。砂利のうえに、靴底の音はほとんど残らなかった。
蜥蜴の背骨の核に、包丁の刃先を当てた。
押し切った。
蜥蜴の身体は、いつもの結晶化対象と同じ調子で、毛のひと粒も骨のひとかけらも残さずに、さらさらと崩れた。核の跡には、米粒ふた粒ぶんほどの薄緑の結晶がひと粒、残った。
ひかりは、それを指先で拾った。
包丁を、もとに返した。手のなかから柄の感触が、ふっと抜けた。――母の台所の引き出しのもとの場所に戻ったはずだった。
雀の融合を、解いた。
呼吸はほんの半段だけ深かった。震えはなかった。
ひかりは、壁の角をてのひらで一度撫でて、それからいつもの歩調でベンチのほうへ歩き戻った。
「あ、おかえりー」
葉月は、画集の奥のページの絵をまだ見ていた。
「ふふ。――待たせちゃったね、葉月ちゃん」
「ぜんぜん。あのね、これ、見て」
葉月は、画集のページの端のちいさな鳥の絵を、人差し指で指した。ひかりは、その指のさきの絵の輪郭をいつもの調子で目で受け取った。
***
――公園の藤棚の下のベンチで、新聞を読んでいた中年の男がいた。
男はふと、新聞のページから顔を上げた。
何か物音が聞こえたような気がした。砂場の方角だった。何かの動きが視界の端のほうに短く映ったような気もした。
男は、新聞をいちど膝のうえに伏せて、公園のトイレの方角を目で確かめた。
トイレの白い壁は、なにごともなかった。砂場のほうにも、誰もいなかった。
男は、新聞をもう一度ひざのうえに開き直した。
――ひらいてから、また視線を砂場のほうへ戻した。
なにか、違和感があった。
奥のベンチに、ランドセルのリュックを背負った小学生の女の子がふたり、並んで座っていた。男は、その二人をいつから見ていたのか、すぐには思い出せなかった。
なにか変だ――そう思った瞬間、その「変だ」という感覚そのものが、男の頭のなかからふっと外側に流れて消えた。
男は、新聞のスポーツ欄に目を戻した。
その夕方の公園のことを、男はその日のうちにすっかり忘れた。
***
帰り道、葉月と別れた最後の一区画を、ひかりはひとりで歩いた。
足元に紫紺の影がいつもの位置にふっと寄り添った。
「ねえ、ルナ」
ひかりは、歩きながら、口のなかで言った。
「さっきはありがとう」
ひかりは、住宅地の電柱の根元の影に視線を半拍だけ置いた。――公園の藤棚の下の新聞の男も、滑り台の前の母親も、結局こちらを見ようとしなかった。ルナの言うとおりだった。
「ふふ。――だいじょうぶって、言ったでしょう」
ルナの声は、ひかりの足元からいつもの流れる調子で返ってきた。
ひかりは、頷きの代わりに、まばたきを半拍だけゆっくりにした。
***
その夜、ひかりは自室の机の灯りのしたで、ノートをひらいた。
リストの下の行に、ひかりはシャープペンの先を置いた。
「みけ。」
ひと行下げて、もうひとつ書き足した。
「ぽち。」
書いたあとで、ひかりはリスト全体を目で追った。――呼び出しと融合のリストは、ノートの見開き一面の、半分よりもうひとつ向こうのところまで広がっていた。
それから、ひかりは机の下の引き出しを引いた。
奥のほうのハンカチを、両手でひらいた。
色のちがう結晶が並んでいた。
はじまりの濃琥珀色。冬の薄水色と青磁色。初春の蜜柑色。四月の淡い緑、薄い瑠璃色、ちいさな乳白色。五月のあいだに加わった、こっくりした紅、米粒ふた粒ぶんの薄紫、ビー玉ほどの真新しい透明、夕暮れの橙金色。そして、いちばん新しい、今日の公園の蜥蜴の、米粒ふた粒ぶんの薄緑。
――ひと月前よりも、列がひと粒横に長くなっていた。
ひかりは、ハンカチの右の端のあたりに残った白の余白を、てのひらでいちどなぞった。
今日は、口のなかからなにも出てこなかった。
膝のうえに上がってきたルナも、半拍のあいだだけ、ひかりの顔を見上げて、それから、紫紺の毛の温度をひかりのてのひらのすぐ脇に、しずかに置き直した。
ひかりは、ハンカチの四隅をいつもの手つきで折り直して、引き出しの奥に収めた。引き出しを閉めた。
***
机のうえに戻った視線の先には、祖父の鎌があった。
ひかりは、ふと思いついた。
ベッドの端に腰を下ろして、てのひらをひらいた。
「ねえ、ルナ。――ちょっと、試してみていい?」
「うん」
ルナは、ひかりの膝のすぐ脇に座って、見上げた。
ひかりは、すずちゃんを呼んだ。
机のうえの祖父の鎌の刃の縁が、ひと段はっきりと縁取られて見えた。雀の視覚が、自分の体に乗っていた。
続けて、みけの爪を指先に部分出現させた。
ひかりのもとの爪の上に、もうひと層、細く鋭い白い爪がふた段になって半分だけ姿を見せた。指の感覚が、ひと回りだけ鋭くなった。
それから、すみちゃんの羽を肩のあたりに薄く出した。
背中越しに肩のうえの空気が、ひと回りだけ黒みがかった。肩甲骨のすぐ脇に、薄い羽の輪郭がふた段になって重なった。
ひかりの体には、いま、雀の視覚と、猫の爪と、カラスの羽が、同時に乗っていた。
ひかりは、てのひらをひらいたまま、自分の指先の爪を見た。背中の輪郭の二重を、肩越しに確かめた。
数秒、その状態を保った。
「できた」
ひかりは、口のなかでちいさくそう声に出した。
深い感慨はなかった。――ただ、できることがひとつずつ増えている、という確認だった。
ひかりは、三つを順に解いた。
すみちゃん。みけ。すずちゃん。
肩のうえの輪郭が消え、指先の爪が消え、視覚の端の白が、もとの色に戻った。
呼吸はほんの半段だけ深かった。
「ふふ。――ひかりちゃん、上手になったね」
ルナの声が、ベッドの脇からひかりの方へ届いた。
「うん。――もうすこし、長く保てるようになると思う」
ひかりは、口のなかで返した。
ルナは、何も返さなかった。
***
ベッドに横になると、ルナが胸のすぐ脇に丸まった。
紫紺の毛のうえに、てのひらを置いた。
ルナの背中の呼吸の上下が、てのひらの底をゆっくり通り抜けた。
窓のそとには、六月のはじめの夜空が、薄あおの最後の名残のなかにあった。
ひかりは、まぶたを半分だけ閉じた。
机の引き出しの奥の十二粒の結晶と、内ポケットの薄琥珀のひと粒と、机のうえに置かれた祖父の鎌と、胸のすぐ脇の、夜の色の重み。――今日もまた、いつもの順番で、ひかりの呼吸のなかに収まった。
六月のはじめの夜の風が、家のまわりを撫でて、夜のなかへ消えていった。




