chapter-05: 日常のなかで 第六節 揺らぐ影
六月の中ごろの、ある夕方だった。
学校の帰り、ひかりは葉月といつもの分かれ道で別れて、いつもは通らない、神社の境内裏の杉並の細道のほうへ足を折った。
理由はない。ただ、その日の夕方の風の流れが、なんとなく境内のほうへひかりの体を寄せていった。
「ねえルナ、こっちから帰ろっか」
「うん」
ルナの返事は、いつもの流れる調子で、ひかりの足元に置かれた。
***
神社の鳥居をひとつくぐって、境内の本殿の脇から奥へ。杉並の根元のあたりは、もう夕方の陽がさし込まない、灰青の影のなかにあった。
杉の梢の上のほうだけが、夕陽の名残のひと筋を半分だけ残していた。
風はなかった。
足音が砂利のうえで、いつもよりひと回りはっきりしていた。
――ルナが立ち止まった。
足元に寄り添っていたはずの紫紺の影が、半歩前に出て止まった。
「ひかりちゃん」
ルナの声は、ひかりの背中の半分のところまで届いた。
「下がって」
その声は、ひかりがいままでにいちども聞いたことのない調子だった。
いつもの流れる語尾の伸びも、柔らかい温度も、そのどちらもいまルナの声のなかにはなかった。低く芯の通った、短く切られた、初めて聞く声だった。
ひかりは足を止めた。
杉の根元の奥のあたりの空気がゆがんでいた。
具体的な姿はなかった。輪郭もなかった。ただ、その一点だけ空気の密度がいつもとちがって見えた。――向こう側の杉の幹のかたちが、その一点を通るあいだだけ半分ゆれて見える。何かが形を取ろうとしている。けれど、まだ、形にはなっていない。
ゆがみの周りの空気だけが、温度をしずかに落としていた。
ひかりの耳の奥が低い圧で詰まった。――境内の奥の鳥の声も、遠くの夕方の街のかすかな音も、その一点の周りの半径ふた間ぶんだけ、薄く吸い込まれて聞こえなくなっていた。音の抜けた円が、杉の根元のあたりにひとつ、しずかにひらいていた。
ひかりは、自分が息を止めているのに、半拍遅れで気がついた。
胸の真ん中の奥のところに、ふだん覚えのない冷えがひと筋降りた。――結晶化したイタチを見たときのこわさとも、夜道の闇のこわさとも、種類のちがう冷えだった。「ここに居てはいけない」と、ひかりの体の芯のあたりが、ひかりの頭より半拍だけ早く声にならないかたちで判じていた。
「ひかりちゃん、これは、ちょっと、危ないの」
ルナは、ひかりのほうを振り返らずに続けた。
「結晶のあの子たちとは、ちがうの。――下がっていて」
ひかりは、ルナの声の意味を半分しか理解できなかった。
ただ、ルナの声の調子から、これがいつもの結晶生物よりひと段厄介な何かであることだけは、はっきりと伝わった。
ひかりは反射のままに、二歩、三歩と後ろに下がった。
ルナは、ひかりの足元から前に出た。
***
――ルナは、何も言わなかった。
ただ、杉の根元のゆがみのすぐ近くに、座らずに立った。
ひかりの目から、ふた間ぶんほど離れた場所に、ルナの背中があった。
――そのあいだ、十数秒のことだった。
ルナの紫紺の毛の輪郭が、呼吸ごとに濃さを変えた。
夕方の灰青の影のなかで、いつもなら毛のひと筋ひと筋のあいだに溶けているはずのルナの輪郭が、ひと回りはっきりと立った。――次の呼吸で、今度はひと回り薄く、影に溶けた。それを何度か繰り返した。
何度目かの呼吸で、ひかりは、息を呑んだ。
ルナの背中の半分のあたりがいちど透けた。
向こう側の杉の幹の縦の縞がルナの紫紺の毛のうえに、半秒だけそのまま重なって見えた。――次の呼吸で、ルナの紫紺がもう一度濃く戻ってきた。
境内の風が止まった。
奥のほうから聞こえていた鳥の声が、ひと拍だけ途切れ、――次のひと拍では、もう聞こえなかった。
杉の梢の高いところが、風がないのに、上から順にひと枝ずつゆっくりと揺れた。
ひかりの足元のちいさな砂利のひと粒が、ルナのいるあたりのすぐ脇で、独りでにころころと転がった。
杉の根元の空気のゆがみは、十数秒のあいだに、ふいに膨らみ、ふいにしぼんだ。形を取りそうになっては、また形をなくした。
――膨らみがいちばん深くなったとき、ひかりはそれを見た。
ゆがみの内側のいちばん奥に、輪郭でも姿でもない、ひかりの知らない方向の「奥行き」がひと瞬間口をひらいた。地面でも、空でも、杉の根元でもない、そこにあるはずのない方角に、ふっと底が抜けていた。
体の奥の、いつもなら名前のついている感情のどれにも当てはまらない場所に、「これは、いけない」とだけ、声にならないかたちでひと言が立った。
――その瞬間、ルナの紫紺の輪郭がいちばん薄くなった。
ひかりの目に、ルナの体の向こうの杉の根元の苔の緑がひと筋はっきりと透けて見えた。
ひかりは声をのみ込んだ。とっさに伸ばしかけた手のひらが、自分の口の前で宙のまま止まった。
――ルナが、ひと呼吸深く吐いた。
ルナの紫紺の輪郭がもう一度濃く戻った。
ゆがみの「奥行き」が、ひと瞬間あけた口をしずかに閉じた。
最後に、空気が深くひしゃげた。
――それから、ゆっくりと、元に戻った。
ゆがみは消えた。
杉の根元には、何も残らなかった。
奥のほうから、鳥の声が戻ってきた。
境内のほうから、風がもう一度ひと吹き吹き抜けた。
***
ルナの紫紺の輪郭が戻りきらなかった。
――夕方の灰青の影のなかで、ルナの背中の毛のひと筋ひと筋が、ふだんよりも半段だけ影に溶け残っていた。次の呼吸で、紫紺がいつもの濃さの八分目あたりまでゆっくりと戻ってきた。
ルナは、その場で前足を折った。
それから、地面の柔らかい砂のうえにお腹を半分ほど沈めた。
ひかりは、ルナのそばに駆け寄ってしゃがんだ。
「ルナ」
ひかりは、ルナの名前を呼んだ。
ルナは、目をひと回り細めて、ひかりのほうを見上げた。
「ええ、終わった、よ」
ルナの返事は、いつもの流れる調子よりひと拍だけゆっくりだった。語尾の伸びの最後のあたりが半分だけ削れていた。
ひかりは、ルナの背中にてのひらを置いた。
ルナの毛の流れは、いつものふと撫でただけで指のあいだを通り抜けていく整った流れと、ちがった。表の毛のひと筋ひと筋が、いつもより半分ほどもつれて見えた。
「だいじょうぶ?」
ひかりは、自分の声の低い温度でルナに聞いた。
「うん。――ちょっと、つかれただけ」
ルナの声は、いつもの語尾の伸びの半分のところで止まった。
ひかりは、てのひらの下でルナの呼吸の上下を確かめた。――いつもより半段浅かった。
ひかりは、両手でルナの体を抱き上げた。
ルナは、抵抗しなかった。ひかりの腕のなかで、目を細めたまま丸まった。
いつもなら、家までの帰り道は、ルナはひかりの足元でついてくる。今日は、ルナがずっとひかりの腕のなかにいた。
ルナの体は、ひかりが想像していたよりもひと回り軽かった。
***
家に帰って、誰にも見られないようにベッドまでルナを連れていって、ひかりはシーツの柔らかいところにルナを置いた。
ルナは、丸まったまま目を閉じた。
ひかりはベッドの脇に座って、ルナの背中をてのひらでしばらく撫でた。
ルナの毛の流れは、撫でているうちにいつもの流れのほうへゆっくりと戻った。けれど、呼吸の浅さは、夜になっても、もとの深さには戻らなかった。
夜のあいだ、ルナはいちども口をひらかなかった。
ひかりは、卓上灯を半分の明るさでつけたままにした。
灯りの橙が、ルナの紫紺の毛のうえに落ちていた。
「――おやすみ、ルナ」
ひかりは、ルナの背中にてのひらを置いた。
ルナは、目を半分だけひらいた。
返事はなかった。
そのまま、ひかりはまぶたを閉じた。
***
翌朝、ひかりが目を覚ますと、ルナがいなかった。
ベッドの足元のいつもルナが丸まっている場所が空いていた。シーツの白だけが、そこにあった。
ひかりは半身を起こした。
「――ルナ」
ひかりは、ルナの名前をひとつ口のなかから出した。
返事はなかった。
部屋のなかを見回した。
机のうえ。本棚の前の、日が当たる場所。窓辺の端の、夏のはじめの光が落ちているところ。ベランダの戸の手前。――いつものルナの居場所のどこにも、いなかった。
ひかりは、ベッドのうえにしばらく座っていた。
シーツの足元の白を、てのひらでいちど撫でた。――いつもなら、ルナの毛の温度がてのひらに残っているはずの場所だった。今日は、シーツの白の冷たさだけが、てのひらの底にしずかに降りた。
いつもここに、いつもの順番で収まっていたはずのものの、ひとつがいない。
ひかりはいちど、自分の頬をてのひらで軽くはたいた。
それから、いつもの順番で身支度を始めた。
***
食卓の朝の光のしたで、ひかりはいつもと同じ味噌汁の椀を両手で持った。
「ひかり、ちゃんと食べてる?」
母の真奈が、台所の流しの脇からいつもの調子で声をかけた。
「うん」
ひかりはいつもの調子で頷いた。
味噌汁の椀の縁を唇にいちどつけた。
――味が、よく分からなかった。
いつもなら、母の出汁のわずかに甘い昆布の温度が、舌の真ん中に広がる。今日は、その甘さがひかりの舌まで届かなかった。
ひかりはもうひと口飲んだ。
二口目の味も、ひと口目と同じ調子で、ひかりの口のなかを通り抜けた。
姉の結が、トーストの端を齧りながら、テレビのほうへ半分だけ目を向けていた。長姉の美咲は、自分の教科書のページをめくっていた。父の宗一郎は、新聞の二面をひらいた。
家のなかは、いつもの順番でいつもの音を立てていた。
「いってきます」
いつもと、変わらないはずの日常。
足元に紫紺の影はなかった。
***
通学路の桜並木の根元の柔らかい影のなかに、いつもならルナの紫紺がふっと寄り添う。
葉月と合流する分かれ道のところまでの五分間、ひかりは自分の左側の足元へ視線を何度か落とした。
何度目かのところで、自分が同じことを繰り返しているのに気がついた。
ひかりは口の端の角度をひと回りだけ整えた。
「ひかりちゃん、おはよう!」
葉月がいつもより大きい声で、ひかりの肩のすぐ脇から声を出した。
「ええ。――おはよう、葉月ちゃん」
***
教室の自分の机で、ひかりはノートをひらいた。
授業のあいだ、ひかりは机の下の奥へ、てのひらをそっと伸ばした。
いつもなら、授業のあいだじゅう、ひかりの足の脇に、ルナの紫紺の影が丸まっている。
今日は、何もなかった。
ひかりはてのひらを机のうえに戻した。
ひかりはシャープペンの先をノートの罫線のうえに戻した。
罫線の青のうえに、ひかりはいつもの几帳面な字で、いまの授業の見出しをひと行書いた。
字の縦の線が、いつもより半画ぶんだけ震えた。
ひかりは、その縦の線のうえにシャープペンの先をもうひと撫でなぞらせた。
***
放課後、葉月と、いつもの分かれ道までの帰り道。
「ねえ、ひかりちゃん」
葉月が、ひかりの肩のすぐ脇からひかりの顔を覗き込んだ。
「今日、なんかちょっと、元気ない?」
ひかりは、葉月の頬の午後の陽の光に視線を半拍だけ留めた。
「ええ、ちょっと寝不足かも」
ひかりの「ええ」は、いつもの調子で葉月の頬のあたりに置かれた。
「あー、わかる、わかる。あたしも昨日ね、お父さんの帰りが遅くて、寝るのちょっと遅くなったの。――そういうのね、次の日、ぼーっとするよね」
葉月は、自分の話をもう半区画ぶん続けた。ひかりは、頷きの「うん」をいつもより半拍だけゆっくりに、葉月の声の流れのほうへ置いた。
――頷いている内側で、ひかりは気がついた。
今日のこの帰り道の葉月の話の、いちばん面白かったところを、わたしは今夜、ルナに話せない。
ひかりの息のいちばん下のところが、ふっとひと段落ちた。
「ふふ。――そうだね」
ひかりは、葉月の頬のあたりにいつもと変わらない笑いを置いた。
葉月との分かれ道で、葉月が「じゃあねー」と、いつもの調子で手を振った。
「ええ。――またね、葉月ちゃん」
葉月の背中が、夕方の桜並木の遠いあたりまで小さくなった。
ひかりは、自分の左側の足元へ視線を半拍だけ落とした。
そこには、何もいなかった。
ひかりは、いつもよりひと回り早足で家までの最後の一区画を歩いた。
***
家に帰って、自室の戸をいつもの開け方で引いた。
戸をそっと閉めた。
いつもなら、ここで肩の力がすうっと抜ける。
――今日は、抜けなかった。
ひかりは、自分の肩にてのひらをいちど置いた。
肩の奥の筋肉が、いつもよりひと段固かった。――いつもなら、自室の戸を閉めた瞬間、ルナの紫紺の影が、ひかりの足元にふっと寄り添う。それから、ひかりはベッドのうえにかばんを下ろして、ルナを膝のうえに乗せて、葉月の今日の話をひとつ話す。
肩の力が抜けるのは、それからだ、と、ひかりは今日、初めて知った。
ひかりは、ベッドのうえにかばんを下ろした。
机の引き出しをいつもの手つきで引いた。
奥のハンカチを、両手でひらいた。
十二粒の結晶が、いつもの順番で並んでいた。
ひかりは、それをしばらく目で追った。
それから、ハンカチの四隅をいつもの手つきで折り直して、引き出しの奥にもう一度収めた。
引き出しをそっと閉めた。
***
その日の夜も、ルナは戻ってこなかった。
ひかりは、ベッドに横になった。
足元のシーツの白を、しばらく目で追った。
「――ルナ」
ひかりは、口のなかからその名前をひとつ出した。
返事はなかった。
ひかりは、もうひとつ出した。
「ルナ」
返事はなかった。
ひかりは、まぶたを半分だけ閉じた。
それから、もう一度口のなかから出した。
「ルナ」
部屋の窓の隙間から、家のほかの部屋の音が薄く聞こえてきた。父のテレビのニュースの音。姉の結が自分の部屋で聴いている音楽の、低い拍。台所のほうから、母が食器を片付けている音。――家族の音は、いつもの順番でいつもの場所にあった。
葉月にLINEを送れば、葉月はいつもと同じ調子ですぐに返事をくれるだろう。
――けれど、ひかりが自分の本当の調子で話せた相手は、ここにはいない。
葉月の今日の話の、いちばん面白かったところ。
植木桃子のお弁当の端の卵焼きの厚さ。
岡部七海が今日ひかりに運んできた、川向こうの中学の体育館の床の霜の話の、新しい続き。
いつも、ひかりはそれを、ルナの紫紺の毛の上下する呼吸の音のなかで、「ねえ」といちばん砕けた調子で話していた。
ひかりがそれを話しているあいだ、ルナは「うん」「そうね」「ふふ」と、流れる語尾の伸びで、ひかりの「ねえ」の半拍あとに相槌を置いた。
それが、今夜は、ない。
ひかりは、天井の灯りの橙の端を、目で追った。
それから、心のなかでいちど問うた。
――あの夜、ぜんぶ、って言ったの、聞いてくれてたよね。
返事はなかった。
ひかりは、まぶたをもう半分も閉じた。
ベッドの足元のシーツの白が、まぶたの内側にも残った。
六月の中ごろの夜の風が、家のまわりを撫でて、夜のなかへ消えていった。




