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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 雨宮ひかり編

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chapter-05: 日常のなかで 第七節 紫紺のぬくもり

ルナがいなくなって、数日が経った日のことだった。


朝、ベッドの足元のシーツは、ふだんとおなじ白さに戻りつつあった。


胸の脇のぬくもりが、最初の夜と二日目の夜のあいだは、ひと呼吸ごとに思い出されていた。三日目あたりからは、思い出される回数が、ひと呼吸の間隔よりもすこしだけ長くなっていた。


身体は、思い出すのをすこしずつ忘れていく。


ひかりは、その「忘れていく速さ」を内側でしずかに見守っていた。


怖くはなかった。ただ、自分のなかのなにかが、ふだんよりすこし冷たい速さで進んでいるのがわかった。


朝食の味噌汁は、ふだんとおなじ味のはずだった。母が「ひかり、もう一杯どう」と聞き、ひかりは「ううん、いい」と返した。お椀の縁をしずかに置いた。


姉が新聞のページをめくった。父が湯のみのお茶をひと口口にした。家のなかの音は、それぞれの順番でならんでいた。


ひかりは、その「ならんでいる」のなかに、自分も自分の位置で座っているのを内側で確かめた。


***


学校では、ひと日がいつもの順序で流れた。


葉月が「ねえねえひかりちゃん、保健室の前の新しいポスター見た?」と笑い、ひかりは「ふふ。見た見た。あの犬の絵、しっぽがちょっと太いよね」と返した。葉月は「だよね。あれ絶対、しっぽから描いた人なんだよ」と笑った。


机の下に、ひかりは右の手をいちどだけ伸ばした。


指先のさきに、なにもなかった。


ひかりは、右手を机のうえに戻した。


葉月の話を、ひかりは半拍ごとの頷きで聞いた。聞きながら、内側で、今日もこの話、ルナにできない、とひと拍だけ落ちた。


それは、もう何度目かの落ちかただった。


「落ちる」たびに、内側のどこかで、その落差がすこしずつもとの目盛りに近づいていく。


***


その日から、また数日が過ぎた。


ルナがいなくなって、ちょうど一週間が経った日の放課後だった。


ひかりは、ひとりで帰る道を選んで、住宅地のせまい路地のブロック塀のいちばん奥のところで立ち止まった。


中型の野良犬が、後ろ脚の片側のあたりを薄い水色のひびに帯びさせて、地面に座り込んでいた。首輪はあったが、ネームプレートはなかった。――ぽちではない。


ひかりは、犬の喉元のうえにちいさな点が薄あおく光っているのを見た。


――核。


ふだんなら、ここでルナが「ええ、人がいないうちにね」と言う。


今日は、足元になにもなかった。


ひかりは、ひと呼吸息を止めて、まわりを見た。


二階のベランダで、知らない女のひとが、洗濯物をひと枚ずつ取り込んでいた。子供の高い笑い声が、ふた軒となりの家の窓のあたりからひと続きに漏れていた。郵便配達のバイクの低い音が、一本むこうの道でまだ止まらずに走っていた。


――人がいる。


ルナが横にいるあいだは、それがあまり気にならない。ひかりとまわりのあいだに、なにか、薄い覆いのようなものがひと枚はさまっている。――ふだんとふだんでないの境界が、半分ほど溶けていた。今日は、その薄さがない。


ひかりは、犬から少し離れた電柱の影に体をしずかに寄せた。


内側で、段取りを組み立てた。


呼び出し――祖父の鎌。融合――雀の視覚()。それと、もうひとつ、ひかりの内ポケットには、米粒大の、いちばんはじめの蝶の薄琥珀のひと粒が、ずっと入っていた。


ひかりは、それをはじめて割ることを決めた。


理由は、ふたつあった。犬の結晶化は、これまで処理してきたどの子よりもひと段深く進んでいた。ただ「切る」だけでは、刃が核まで届かないかもしれない。――そして、人がいる路地で、なるべく短く終わらせたかった。


ひかりは、犬のそばにしゃがんだ。


「ごめんね」


口のなかでちいさく言った。


呼び出し。融合。――そして、薄琥珀のひと粒。三つを順に。


祖父の鎌の柄が、ひかりの右手のひらにふいと現れた。雀のすずちゃんの視覚が、目の奥に薄く重なった。犬の喉元の薄あおいひと点が、いつもよりひと段はっきりとひかりにだけ見えた。


最後に、右手のなかの薄琥珀のひと粒が、ひと呼吸ぶん薄く光った。そのまま、ぱきりと米粒の身体を割って、てのひらにぬるい熱が広がった。


ひかりは、その熱を鎌の刃のうえに、しずかに移した。


刃の銀色が、ぬるく曇った。


ひかりは、鎌をひと振り、しずかに振り下ろした。


熱を帯びた刃が、犬の喉元の結晶をすうっと焼き切るように通った。


犬の身体は、毛皮も骨も残さずに、さらさらと崩れた。


崩れたあとに、ビー玉ぐらいの大きさで、淡い茶色のひと粒が、地面のうえにころりと残った。


ひかりは、それを拾った。


融合を解除した。鎌の呼び出しも解除した。


薄琥珀のひと粒のあった右のてのひらには、もうなにもなかった。粉のようになって、すでに風に散っていた。


時間にして、二十秒くらいだった。


ひかりは、立ち上がって、まわりを見た。


二階のベランダの女のひとが、まだ洗濯物の前にいた。


そして、こちらを見ていた。


ひかりは、息を止めた。


***


二階のベランダのその女のひとは、洗濯物を干していた手を、ふと止めていた。


なにかが見えた気がした。


下の路地のいちばん奥のあたり、ブロック塀の影で、ちいさな女の子がしゃがんで、なにか変な動作をしていた。手に持っていたのは、棒のようなもの、いや、もうすこし長くて、片端のあたりに銀色の鈍い反射のようなものがあった気もした。子供の足元には、たぶん、犬が一匹いた。――いた、と思った瞬間に、犬の輪郭が、半秒だけ空気のなかに、さらりと溶けて見えた。子供の背中の輪郭も、ふだんの子供のそれとは、ひと回り違って見えた気がした。


女のひとは、目をいちどこすった。


こすってから、もう一度下の路地のほうを見た。


ちいさな女の子は、ふつうの小学生の女の子だった。手には、なにも持っていなかった。背中も、ふつうの背中だった。犬は、もうどこにもいなかった。


女のひとは、自分が何を見ていたのか、よく分からなかった。


「気のせい、かしら」


口のなかでちいさく呟いた。


ふだんなら、そういう「気のせい」は、頭のなかからすぐに消えていく。だが、今日は消えていかなかった。


女のひとは、洗濯物を全部取り込み終わってからも、しばらく、ベランダの手すりに片手を置いて、下の路地のほうを目で追っていた。


その夜の夕食で、女のひとは、夫に「ねえ、今日の夕方、変な子を見た気がするのよ」と話そうとした。けれど、何を見たのかを、具体的に言葉にできなかった。結局、話は、味噌汁の二口目のところでふっと止まった。


***


女と目が合ったあと、ひかりはすぐに視線を逸らした。


手のひらには、もうなにもない。鎌の呼び出しも、もう解除している。


ひかりは、変わらない歩調で路地を歩き去った。


歩きながら、自分の心臓が、ふだんよりもずっと速く打っていることに、てのひらの内側で気がついた。


――ルナがいないと、こうなる。


ひかりは、初めてそれを身体で知った。


ルナが横にいたときに、感じていた「人がたくさんいても、なんとなくだいじょうぶ」という、あの薄い覆い。今日はない。


逸れていてくれたはずの女のひとの目は、はっきりとこちらに向いていた。


――たぶん、覚えられた。


ひかりは、息の半歩内側でしずかにそう思った。


ひかりは、家まで半歩だけ速い小走りで戻った。


***


その夜、自室の机のいちばん下の引き出しを、ひかりはそっと引いた。


奥のほうの白いハンカチを、両手でゆっくりひらいた。


色のちがう結晶が十二粒並んでいた。


ひかりは、その隣に、淡い茶色のビー玉ほどのひと粒をしずかに置いた。


十三粒目。


並んだ十三粒をしばらく目で追った。


それから、机のうえの灰青のノートをひらいた。


「呼び出せるもの」のページからいちまいめくった。


あたらしいページのいちばん上に、ひかりはひとつ見出しを書いた。


「使ったもの」


その下に、几帳面な字で一行書き加えた。


――いちばんはじめの蝶のひと粒(米粒大・薄琥珀(うすこはく)/消費)。


ひかりは、内側でもう一度ちいさく確認したあと、ノートをそっと閉じた。


***


それから、また数日が過ぎた。


ルナがいなくなってから、もうすぐ二週間。


朝、ひかりは、ベッドの足元のシーツを両手で整えるようになっていた。空中に置いたままだった右のてのひらは、いつの間にかもとの位置に戻りはじめていた。


身体は、無いものをすこしずつ無いままに置きはじめる。


ひかりは、その「置きかた」が自分のなかでもとの位置に近づいていくのを、内側でしずかに見ていた。


――忘れていく、ということとは、ちがう。


ひかりは、内側でしずかに訂正した。


ルナのぬくもりの位置は、まだもとの位置にある。ただ、そのまわりのてのひらや、シーツや、肩のあたりが、自分の動きをすこしずつ思い出している。


――無いことに慣れていくのは、てのひらの側だ。


ひかりは、その距離を細い息で測っていた。


***


その日の放課後、葉月と通学路の途中で別れたあと、ひかりはふだんとちがう道を選んだ。


一週間前の洗濯物の女のひとの目が、まだひかりの内側に薄く残っていた。


――あんなふうに、見られない場所。


ひかりは、通学路のひと筋うしろ、住宅地のいちばんはずれから河川敷へ降りていく細い坂道のほうへ、足を折った。坂のいちばん下のあたりは、両側に丈の高い藪が伸びていて、片方のフェンスは、もう半分倒れかけていた。坂の途中の道路から、藪の奥は、ほとんど見えない。誰もここを通らない。


坂のなかほどで、ひかりは足を止めた。


――そこに、いた。


藪のあいだの、夕方の薄い陽だまりのなかに、ちいさな鳥がひと羽結晶化していた。雀ではない、もう一回り大きい、灰色の、たぶん椋鳥(むくどり)のような鳥が、地面のすぐ脇の枯草のうえで、首のあたりに濡れたような薄い水色のひびを帯びさせて、もう動かなかった。羽が一枚、夕方の光のなかで灰色に薄く光っていた。


ひかりは、しゃがんで、藪のあいだからまわりをもう一度しずかに確かめた。


坂のうえの道。河川敷のほうの土手。両方とも、人の影はなかった。遠くの土手のうえで、夕方のジョギングの男のひとがひとり走っていた。けれど、こちらの藪に気づく距離ではなかった。


ひかりはひと呼吸息を整えた。


――ふだんよりも、ひと拍だけ、長く。


ひかりは、内側で段取りをもういちど確かめた。


呼び出し――お母さんの裁縫箱のはさみ。融合――雀のすずちゃんの視覚。――それから、もうひとつ。


――すみちゃんの羽だけ。


ひかりは、背中のあたりにカラスのすみちゃんの黒い羽の輪郭だけを、薄く薄く出した。融合の、ぜんぶではない。輪郭のいちばん外側だけ。


六月のはじめのあの自室の試行から、呼び出しと融合のあいだの、もうひとつの引き出しを、ひかりはノートのうしろのほうに、ばらばらと書き始めていた。背中の羽だけ。目だけ。爪だけ。指先だけ。融合の、ぜんぶをかけずに、ほしいぶんだけを薄く身体の表面に重ねる。


体が、すこし軽くなった。――気配も、ひと回りだけ薄くなる。


ひかりは、椋鳥のような鳥のすぐそばまで、しずかにひと足近づいた。


藪の枝が肩のあたりに触れて、葉のすれる音がひと呼吸ぶんだけ立った。――それ以外の音は、立たなかった。


「ごめんね」


口のなかでちいさく言った。


雀のすずちゃんの視覚のなかで、鳥の喉元のいちばん奥に薄あおいひと点がはっきりと光っていた。――核。鳥の結晶化は、犬よりもずっと浅かった。「切る」だけで届く深さだった。


ひかりは、はさみの刃先を鳥の喉元の薄あおい点のうえに、しずかに合わせた。


――刃先が点に触れた、その瞬間だった。


鳥の嘴の隙間から、ひと声ちいさな鳴き声がぽろりとこぼれた。


電線の上で聴く椋鳥の、晴れた高い声とはちがう、低くて、ひと続きに震える、もっとずっと近い距離の声だった。


ひかりの耳の奥が、ふっと引かれた。


――次の半拍で、ひかりの背中の真ん中のあたりの筋肉が不意に強張った。肩のあたりが、ひと回り固くなる。指先のはさみの柄を握る力が、自分の意志をすこしだけ追い越して、ぎゅっと入った。


それから、膝の力がすうっと抜けた。


ひかりの体重が踵のほうへ、ひと寸傾いた。


――頭のなかが、ふっと白くなった。


藪の枝の緑、刃先の銀、鳥の灰色の羽。――そういう、いま見ているはずのものの輪郭が、ひかりの目のなかから、半分だけ引いていった。


軽い、めまい。


ひかりは、それを自分の額のすぐ内側のあたりで薄く感じた。視界の中心のひと点だけが、半秒ふらりと揺れた。


――だめ。


ひかりは、自分のなかから、ひと声ちいさく自分に投げた。


奥歯をぐっと噛んだ。


膝のうしろの力の抜けた場所に、ひと息ぶんの力を、自分で戻した。


膝が立ち直る。視界の中心も、ひと拍だけおいてもとの位置に戻ってきた。


頭のなかの白さは、ふた呼吸のあいだにすこしずつ薄れていった。


――いま、なにか、された。


ひかりは、内側でちいさく確かめた。


それから、はさみの柄をてのひらのなかでにぎり直した。もう一度、刃先を鳥の喉元の薄あおい点に合わせ直す。


しゃきん、とちいさな金属の音が、藪のあいだでひと呼吸だけ立った。


鳥の身体は、灰色の羽ごと、さらさらと崩れた。


崩れたあとに、ビー玉よりもすこしちいさめの灰色のひと粒が、土のうえにころりと残った。


ひかりは、それを指先で拾いあげた。


――さっきの、声。


ひかりは、その鳥が最後のひと声でひかりのなかに、あの白さと、揺れと、力の抜けを薄く置いていったのを、内側で確かめた。


ひかりにも、それが何だったのかは、はっきりとはわからない。ただ、土のうえに残った灰色のひと粒の重みは、これまでのどのひと粒ともちがう深さで、てのひらの底に降りた。


ひかりは、灰色のひと粒を、内ポケットの薄琥珀のひと粒のあった場所にしずかに入れた。


***


ひかりは、立ち上がって、もう一度藪のあいだからまわりを確かめた。


坂のうえの道にも、土手のうえにも、まだひかりに気づいた目はひとつもなかった。


ひかりは、坂道のほうへゆっくり戻った。


歩きながら、肩のあたりに、まだすみちゃんの黒い羽の輪郭の感触が、ひと呼吸ぶん長く残っているのに気がついた。


――ふだんなら、はさみを離した瞬間にいっしょに解いていた。


今日は、坂道の半ばまでひかりの背中にいた。


ひかりは、坂のいちばん上のあたりでしずかに部分出現を解いた。


――いま、ふだんよりも長く融合していた。


ひかりは、内側でしずかにそう確かめた。


息は、すこし深くなっていた。けれど、上がってはいなかった。


ひかりは、自分の胸のあたりにてのひらをしずかに置いた。心臓の音は、もとの位置に戻りつつあった。


――「もう少しだけ、長く」。


ひかりは、内側でふだんよりも長くそのひと言を置いていた。


***


家に帰る道の、ちょうど葉月の家の前を通り過ぎたところで、葉月の家の隣の、すこし古びたブロック塀の手前で、ぽちが、しっぽを嬉しそうな速さで振った。


「ぽち、こんにちは」


ひかりは、声をかけた。


ぽちは、垂れた目尻のあたりを半月のかたちに崩して、ひかりの足元にひと歩近づいた。


ひかりは、しゃがんで、ぽちの首のうしろのちょっと張った毛をてのひらで撫でた。ぽちの体温は、いつものとおりだった。犬のぬるいぬくもり。


ひかりは、しばらくその温度のなかにてのひらを置いていた。


――犬のぬくもり。


紫紺の毛のぬくもりとは、ぜんぜんちがう温度だった。


ひかりは、そのちがいをてのひらの底でしずかに受け取った。


「またね、ぽち」


声をかけて、ひかりは立ち上がった。ぽちは、しっぽをまだおなじ速さで振っていた。


***


その夜、自室の机のいちばん下の引き出しを、ひかりはそっと引いた。


奥の白いハンカチを、両手でゆっくりひらいた。


並んだ十三粒のいちばん右のすぐ隣に、ひかりは、ビー玉よりもすこしちいさめの灰色のひと粒をしずかに置いた。


十四粒目。


ハンカチのうえの十四粒の色のちがいを、しばらく目で追った。


濃琥珀、薄水色、薄緑、淡い茶色――そして、灰色。


ひかりは、ハンカチの真ん中の十四粒を卓上灯の橙のひかりのしたで、しばらく見ていた。


それから、机のうえの灰青のノートをひらいた。


「使ったもの」のページの下に、ひかりはもういちまいページをめくった。


あたらしいページのいちばん上に、もうひとつ見出しを立てた。


「のばせたもの」


その下に、几帳面な字でひとつ書いた。


――カラスの羽の部分出現(ひと呼吸→ふた呼吸ぶん、のばせた)。


シャープペンの先を、「のばせた」の四文字のうえでもう一拍だけ止めていた。


――のばせた。


ひかりは、内側でもう一度ちいさく確認した。


ノートをそっと閉じた。


***


ベッドに横になった。


ふだんなら、ここで紫紺の毛のぬくもりが、胸のすぐ脇にするりと寄ってきていた。


今日もなかった。


ひかりは、ベッドの足元のあたりに、空いている白いシーツをしばらく見ていた。


「ルナ」


口のなかでちいさく呼んだ。


返事はなかった。


「ルナ」


もう一度呼んだ。


返事は、やはりなかった。


ひかりは、足元の空白をしばらく見つめてから、自分の右のてのひらを目の前にゆっくりひらいた。


ふだんなら、てのひらの内側に、ルナの紫紺の毛の感触が薄く残っている時間帯だった。


今日はなかった。


代わりに、坂道の藪のなかで、背中に出したカラスの羽の輪郭の、薄い軽さの感触が、まだ肩のあたりに、ひと呼吸ぶん残っていた。


それから、ぽちの首のうしろの犬のぬるいぬくもりの記憶が、てのひらの真ん中に薄く置かれていた。


ふたつの感触は、紫紺のぬくもりのもとの位置を埋めるものではなかった。


ただ、もとの位置のすぐ隣に、ふた呼吸ぶんずつしずかにならんでいた。


ひかりは、てのひらをしばらく見ていた。


「わたし、一人()()()、できる」


内側で、ひかりははっきりとそう思った。


ふだんの「ええ」や「そう」や「もう少しだけ」とはちがう温度の明確な肯定だった。


***


窓のそとの、六月の終わりの夜空に、まだ薄あかるい光がひとすじだけ残っていた。


ひかりは、まぶたをしずかに閉じた。


机の引き出しの奥の白いハンカチのうえで、今日もひと粒だけ結晶がふえていた。


灰色のひと粒。


並んだ十三粒の、いちばん右のすぐ隣で、卓上灯の消えた橙のひかりの跡を、しずかに含んだまま、夜のなかで、しずかな呼吸をしていた。

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