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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 雨宮ひかり編

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chapter-06: 九月の影 第一節 ルナのいない夏

夏休みが、終わる。


最後の朝、岸本(きしもと)葉月(はづき)はベッドのなかでまどろんでいた。窓の外で蝉の声がうすくなりはじめ、すこし冷たい風がカーテンの裾を動かしていた。


夏のあいだ、葉月はひかりと何度か会った。プール、宿題、コンビニのいちごみるく。いつものひかりだった。やわらかい笑い方、おだやかな声、しずかな目。


けれど葉月は、ひかりの笑いの底に、夏のはじまりにはなかった冷たい色のようなものが、薄く塗られている気がしていた。


──ひかりちゃんが、こわい。


そんな考えが、夏のおわりごろ、葉月のなかに二度、三度勝手にうかんだ。うかぶたびに、葉月は口のなかで首を振った。


「ひかりちゃんは、やさしいんだから」


枕に頬を埋めて、葉月は自分に言いきかせた。


葉月は目を閉じた。


夢の記憶が薄く戻ってきた。夢のなかでひかりが笑っていた。見たことのない冷たさの笑いだった。夢の葉月は、その笑顔の前で、うしろにさがろうとしていた。


葉月はまぶたをもう一度ぎゅっと閉じた。


「ううん。なんでもない」


夢は、夢。葉月はシーツのなかで伸びをした。窓の外の風がつよく吹いた。


***


九月の初め。


二学期の始業式の朝、ひかりはベッドの足元を見た。


ルナはまだ戻ってきていない。


六月の終わりにルナが消えてから、ふた月とすこし。


夏のあいだ、ひかりは結晶処理をひとりで続けていた。


はじめは、週に一度か二度。青藍(せいらん)市の北の住宅地、駅前の裏路地、河川敷の手前。ひかりの足はずいぶん遠くまで伸びた。知らない道でも迷うことは少なかった。地図は頭のなかで自然に組み上がっていた。


七月の中ごろから、見かける数がすこしずつ増えてきた。週に二度が、三度になり、四度になった。場所の範囲も、ひかりの足の届くさきまでしずかに広がっていった。


ひかりは、それをはっきりとは考えなかった。気のせいかな、と思って、まぶたを閉じた。


***


七月のおわりの夜、塀のかげで、結晶化のなかばまで進んだ野良の子猫を、ひかりは見つけた。瞳の半分が薄く透き通っていた。子猫は声を発することもできていなかった。


その日は、夜の九時を過ぎても、空気はなまぬるく、肌にまといついた。アスファルトは、まだ昼の熱を吐いていた。湿った匂いがひかりの足元から立ちのぼってきた。塀の影に膝を折ったひかりの首筋を、汗が一筋ゆっくりと流れた。


街灯の白い光が、子猫の半分透き通った瞳に落ちていた。光はその瞳を通り抜けて、奥のなにかを照らさないまま、消えた。子猫の小さな胸は、ほとんど動いていなかった。


頭の上で、ただ蝉が鳴いていた。何匹いるのか、どこから鳴いているのかも、わからなかった。耳の奥のほうまで、その音は染みこんできた。


子猫を処理するのに、さほど時間はかからなかった。

呼び出しと、融合。いつもの手順で、いつも通りに。

夏のはじまりにあったためらいの震えは、もうなかった。


「終わったよ」と言いかけて、ひかりはやめた。

足元には、誰もいなかった。


***


呼び出しと、融合と、部分出現の保持時間。以前のおおよそ倍近くまで伸びていた。同時に動かせるものは、四つから五つ、それから六つへ増えていった。


ひかりは、それらをもうノートに書かなくなっていた。


夏の中ごろのある夜、机のうえの灰青のノートを撫でてから、引き出しのなかへしまった。


「もう、ノートに書く意味はないかな」


口のなかでつぶやいた。灰青の表紙には、自分の指のあとだけが薄く残っていた。


毎晩、ベッドに横になる前に、足元の場所を見る癖だけはやめられなかった。


ひかりのなかで、ある種類の冷たさが、夏のあいだに育っていた。冷たさは、いつのまにか寂しさのうえに薄くかぶさっていた。


「ルナがいなくても、わたしはできる」


何度も、そう自分に言い聞かせた。


ふた月以上、ひかりは自分の足で立っていた。


***


朝食の食卓には、白い湯気が立っていた。


母の真奈(まな)が味噌汁の椀をひかりの席に置きながら、ひかりの顔をまじまじと見た。


「ひかり、最近ちょっとおとなびた?」


ひかりは湯気のむこうに母の顔をみた。


「ううん。そんなこと、ないと思う」


母は「そう?」と笑って、鍋をテーブルの真ん中へ滑らせた。


ひかりは椀に口をつけた。


***


教室の入口に立った瞬間、葉月が駆け寄ってきた。


「ひかりちゃーん、おっはよう!」


葉月の声は、夏休み前と同じ温度だった。賑やかで、まろやかで、両頬のえくぼがいつもの位置にあった。


「おはよう、葉月ちゃん」


葉月の声がいつもよりすこしちかかった。


葉月はひかりの席のとなりにかばんを置きながら、机のうえに身を乗り出してきた。


「ひかりちゃん、夏休み、ぜんぜん会えなかった気がする」


葉月の声は、いつもよりわずかに高かった。


「あ、いや、何度かは会ったっけ。あたし、寝ぼけてた。ええと──」


葉月は自分の言葉のなかで道に迷ったような顔をしてから、笑い顔を取り戻した。


「夏休みの宿題、終わった? あたしね、最後の日にぜんぶ片づけたんだ。読書感想文がさいごまで残ってて、もう、ほんと、たいへんだったんだから」


「ええ、終わったよ」


ひかりはやわらかい笑い方で応えた。


葉月はいつものとおり笑い返した。


葉月のえくぼは、いつもの位置にあった。けれど、いつもよりわずかに薄かった。


***


家に帰り、自室の机の前に立った。


ひかりは机の引き出しを引いた。奥のほうにたたんだ白いハンカチがあった。開くと、ちいさな結晶が、ハンカチの面のうえにずらりと並んでいた。色も大きさも、ばらばら。夏のはじまりには十数粒だったのが、いまは三十粒余りまで増えていた。


そのうちのいちばん右の隣のひとつ──ひと月以上前の、椋鳥のあの夕方の、灰色のひと粒。ひかりはその粒を、夏のあいだ、内ポケットに移し替えて持ち歩いていた。今朝もランドセルの内ポケットに入れていた。てのひらに乗せると、ちいさな重みが指のあいだにしずかに沈んだ。


「ルナ、まだ戻ってこない」


灰色の粒を、てのひらのうえで撫でながら、口のなかでつぶやいた。


つぶやいた言葉のなかに、ふだんよりも薄い何かが混じっていた。


──さみしくは、ない。


そう追加した。


「大丈夫」


灰色の粒を、ハンカチの元の位置に戻した。


「わたしは、できる」


ハンカチをたたみ、引き出しを閉じた。


***


夜、ベッドに横になった。


夕方の灰色の粒の重みが、てのひらにまだ薄く残っていた。


呼吸が長くなった。


ひかりのなかに、九月初めの夜空のような薄あかるい光が、ひとすじだけ残っていた。それは、ふだんの夜の光より、すこし冷たい色だった。

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