chapter-06: 九月の影 第二節 もつれた紫紺
数日が経った夜。雨が降っていた。
ひかりは宿題のノートを閉じて、窓辺に立った。
街灯のあかりが、雨に濡れたアスファルトに映っていた。雨足は、ふだんの夜の雨よりすこし強かった。
ひかりは窓辺から離れ、階下に降りた。玄関で水色の傘を取った。
「ひかり、こんな時間に?」
台所から母の声が聞こえた。「ちょっとだけ外、見てくる」とひかりは返した。
「雨だよ」
「うん」
ひかりは玄関の戸を開けた。雨の匂いが、顔のうえに広がった。
***
ひかりは傘を差して歩いた。
足の向かう先を、ひかりは決めていなかった。ふだんの夜の散歩なら、まっすぐ進んで公園を周って戻る。
──今夜、ひかりの足は、ひとつ目の角で、まっすぐの道を選ばなかった。二つ目の角で、左に曲がった。
雨粒が布を叩く音と、軒先からたれた水が落ちる音と、ひかり自身の足音。ふた月以上前のあの夜と、ほとんど同じ音だった。
ひかりは歩いた。
足がルナとはじめて出会った場所のほうへ向かっていた。行こうとしているのではなかった。けれど、足はその場所へ向かっていた。
ひかりは、気づきかけて、片づけた。
──ぱた。
うしろから、雨音にまぎれそうな足音が聞こえた。ひかりの歩幅と合っていない。もうすこし軽い足。
ひかりは立ち止まらず、ゆっくり歩き続けた。
足音は近づいてきた。
ひかりは振り向いた。
同じ場所。
同じ街灯。
同じ、雨に濡れたアスファルト。
──そこに、猫が座っていた。
***
雨に濡れた毛は、深い紫紺の色だった。瞳だけが、闇のなかではっきりと見えた。ひかりの瞳と同じ、しっとりとした褐色。
猫は鳴かなかった。ただひかりを見ていた。
ひかりの肩から力が抜けた。
「──ルナ」
ひかりの口から声が出ていた。呼ぶつもりはなかった。
ひかりの足は、半歩前に出ていた。傘の柄をにぎる指が、ひかりの知らないあいだにゆるんでいた。
胸のうえに、夏のあいだなかった温いふくらみが押し上がってきた。喉の奥にも、まぶたのうしろにも、いっせいに広がった。
──ルナだ。ルナが戻ってきた。
うれしい、と思った。こころの底から、はっきりと。
「ただいま、ひかりちゃん」
と、ルナは言った。声がかすれていた。
ひかりは、はじめて紫紺の毛のもつれに気づいた。ひと筋ひと筋がいつもより薄く、見たことのない方向にねじれていた。背中の毛の一部に、薄い傷の線があった。
「ルナ、傷が──」
ひかりはそう言いかけた。先が続かなかった。
ひかりは傘の柄をかたむけて、ルナのうえに傘の布が広がるようにした。雨粒がひかりの肩に跳ね返って、つめたかった。
「濡れちゃうよ」
ひかりはそう言った。ふた月以上前のあの夜とおなじ声で。
「おかえり、ルナ」
***
ひかりは傘の下にしゃがんで、ルナを抱き上げた。毛は雨で湿っていて、いつもよりずっと冷たかった。
ひかりはルナをいちど、胸のあたりでぎゅっと抱きしめた。
ルナはひかりの腕のなかで、目を細めた。
「ちょっと無理をしすぎちゃった。すこし、休ませてね」
「ええ。ゆっくり、休んで」
ひかりはルナを抱いたまま家のほうへ歩きはじめた。
***
家に戻ると、ひかりは傘を傘立てに戻した。台所から「おかえり、ひかり」と母の声がして、「うん、ただいま」と返した。
ひかりは階段をのぼり、自室の戸を閉めた。
机のうえにタオルを広げ、ルナをのせると、ひかりは紫紺の毛を拭きはじめた。ルナは、ひかりのてのひらの下で目を閉じた。
「──ありがとう、ひかりちゃん」
ひかりは小さく頷いて、紫紺の毛をていねいに辿った。
ルナは、ひかりが拭き終わるのを待ってから、目を開けた。
「もう、すこしすれば戻ると思う。──すこしのあいだ、ひかりちゃんに、甘えてもいいかな」
ひかりは「ええ」と返した。返事が半拍だけ遅れた。
***
ひかりはタオルの隣にルナをそっと寝かせた。ルナはそこで目をなかば閉じた。
「ねえ、ルナ」
ひかりは、ルナのとなりの椅子に腰かけた。
「ルナがいないあいだのこと、すこし、話してもいい?」
「ええ。ぜんぶ、聞かせて」
ひかりは、夏のあいだのことをぽつぽつと話しはじめた。
七月のおわりに、塀のかげで、結晶化のなかばまで進んだ子猫を見つけたこと。八月に入ってから、駅前の裏路地でも、河川敷でも、見かける数がすこしずつ増えていったこと。
「夏のはじめは週に一度か二度だったのが、おわりのほうは、二日に一度になってた」
ひかりはそう言った。
「気のせい、かな。──ちょっとずつ、ふえてる気がするの」
ルナは目を細めて聞いていた。それから、ほんのすこしだけ目の奥のあかりが沈んだ。
ひかりは、その沈みに気づかなかった。
「あのね、ルナ」
ひかりはことばを継いだ。
「わたし、ね。ひとりでもできたんだよ」
ルナはひかりを見た。
「呼び出しも、融合も、結晶を見つけるのも、ひとりでやれた。最初はちょっと、こわかったけど」
ひかりはちいさく笑った。
「最後のほうは、こわくもなかったの」
ルナはなにも口を挟まなかった。ひかりの言葉をしずかに受けていた。
「ね、覚えてる? まえに、ルナにだけ、話したこと」
「ええ」
「大きくなったら、なんでも自分でできる人になりたい、って」
「ええ。覚えてる」
「あれ、ね。──すこしずつ、近づいてる気がするの。誰にも頼らないで、ぜんぶ自分で、できる人」
ひかりは、ことばを置き終えてから、自分の声がいつもよりほんのすこしだけいい温度に響いたような気がした。
ルナはひかりを見ていた。
「そう。──よかったね、ひかりちゃん」
ルナはそう返した。声から、ふわっと流れる調子が半分以上抜けていた。
ルナの瞳の底で、なにかがもう一段深く翳った。
ひかりの目は、自分の声の余韻のほうに向いていて、ルナの翳りを拾わなかった。
***
翌朝、紫紺の影はひかりの足元に、半歩ぶん遅れた歩調でついてきた。
葉月と合流する公園のところで、ひかりは一度足を止めた。
「あれ、ひかりちゃん、どうしたの?」
葉月がひかりの顔を覗き込んだ。
「ううん。なんでもない」
葉月は「そう?」と言って、ひかりの隣に並んだ。
ふたりは、見慣れた坂道をふだんの歩調で下った。
***
放課後、校門を出るとき、葉月がひかりに言った。
「ねえ、ひかりちゃん」
ひかりは葉月の横顔を見た。葉月は前を向いたままだった。
「最近のひかりちゃんって、なんていうのかな──夏休み前と、すこし、ちがう気がする」
葉月は笑い顔のままそれを言った。
「そう?」
「うん。あ、ううん。気のせいだとは思うんだけど」
葉月は笑いを高くした。
「あたしね、夏休みのあいだ、ちょっとさみしかったから。それで、変な感じがしただけかも」
「ううん。気のせいだよ、葉月ちゃん」
ひかりはやわらかく笑った。葉月も笑い返したけれど、その笑いは、頬の端から先へ届ききらずに止まっていた。えくぼのへこみは、朝よりもさらに浅くなっていた。
ひかりは何も言わなかった。




