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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 雨宮ひかり編

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chapter-06: 九月の影 第三節 夕方の河川敷

その日、ひかりが見つけた相手は、これまでで明らかに大きかった。


放課後、ひかりはランドセルを家に置いてから、ふだんの散歩より遠くまで足を伸ばした。空は薄い橙に染まりかけ、九月の午後の風がうなじを撫でていった。ルナはひかりの足元から、半歩ぶん遅れた歩調でついてきた。紫紺の毛の流れは、まだ完全には戻っていなかった。


青藍(せいらん)市の外れ、荏野(えの)(がわ)の河川敷。


橋脚の下に降りる手前で、ひかりは立ち止まった。


夕方の光が橋桁の影に折れて、川面に長い金色の帯を落としていた。下流の遠くで、軽く駆ける人影がひとつ、上流へ向かって離れていく。──小さくなる背中を、ひかりは半分だけ目で追って、それから橋脚のほうへ視線を戻した。辺りに動く影は、もう一つもなかった。


***


橋脚の根元に、それはいた。


夏のはじめにひかりが一人で倒した犬よりも、ひと回り大きい、痩せた野犬。喉元から胸のあたりまでが結晶化していて、毛の代わりに、薄青の鱗状の結晶がびっしり並んでいた。その犬の背中に、太い、結晶化した蛇のような形が、ぐるりと巻きついていた。蛇の頭部の側面に、もうひとつの()が薄く光っている。


二つの相手が、一つの体になっていた。


ひかりは半歩足を前に出した。


犬の喉元の結晶のまわりで、薄く冷気が漏れている。橋脚の根元の雑草の葉先に、霜の線が点々と走っていた。空気そのものが、犬の半径一歩ぶんだけ、夕方の橙からひと色だけ青く沈んでいる。


──蛇のほうは、すこし違う気配を漏らしていた。


鱗の側面の付近で、橋脚のコンクリートの表面が、ふだんよりも速い速度で錆びの色を広げていく。指で押したらほろりと崩れそうな、薄茶のひろがり方。剥がれかけた粉が、夕方の風に乗って、ひかりの足元のほうへちらちらと流れてきた。


ひかりはルナのほうを見た。


「ひかりちゃん、この子はふたつ、重なってる」とルナは言った。


声がまだ、すこしかすれていた。


「いままでより、すこしめんどう」


ひかりは「ええ、わかった」と返した。


***


ひかりは内ポケットに手を入れて、ちいさな結晶を握った。


戦闘の段取りを、内側で組み立てる。──犬の喉元の核と、蛇の頭部の側面の核。両方を処理する。ふだんよりひとつ多い。ふだんの組み合わせでは、たぶん足りない。


ひかりの内側のリストが、しずかに広がった。


「──母の包丁と、祖父の鎌」


口のなかでひかりはちいさくつぶやいた。


包丁は、いま家のキッチンの引き出しの中にある。鎌は、ひかりの部屋。実物がここにあるかどうかは、関係がない。顔と名前を知っていれば、呼び出しは届く。


つぎは、融合の対象。

──カラスのすみちゃん、雀のすずちゃん、三毛猫のみけ、柴犬のぽち。それから、夏のあいだに新しく覚えた、近所の野良猫の灰色のしろちゃん、近所の犬の茶色のはち。


「すみちゃんと、すずちゃん。──それから、みけの爪」


口のなかでもう一度つぶやいた。


そして、もうひとつ。


内ポケットの底に、灰色()()ひと()()が、しずかに眠っている。ひと月ちょっと前の夕方、椋鳥の暴発を自分の身に受けたとき、世界がふっと真っ白に飛んで、足の力がすっと抜けて、声がのどの奥で止まったあの感じ。──ひかりは、自分の身体でそれを知っていた。


割ったら、たぶん同じことが、いま向き合っている子に起きる。


ひかりは、指のはらでそのひと粒の輪郭をなぞり、半拍だけ止めた。


──「まだ、いい」。


ひかりはそう判断した。


「割ったら、一度きり。──ふだんの組み合わせより、ひと組だけ強くすれば、いけるはず」


口のなかでもう一度ちいさくつぶやいた。


灰色のひと粒は、内ポケットの底に、しずかに戻った。


***


ひかりは息をひとつ整えた。


ひかりの隣で、紫紺の毛の流れがふだんよりわずかに張りつめた姿勢に変わるのが、横目に伝わった。


ひかりは呼び出しで、母の包丁と、祖父の鎌を同時に呼んだ。


夕方の橙のなかに、ふたつの輪郭がしずかに像を結ぶ。包丁は右手のなかに、鎌の柄は左手のなかに、おさまった。鎌の刃は、ち、と低い音を立てて、九月の風を切った。


ひかりは、さらに、融合ですみちゃんとすずちゃんを同時に呼んだ。


肩のうしろから、黒い羽の輪郭が薄く立ち上がる。それと同じ拍で、すずちゃんの目の鋭さがひかりの瞳の奥に重なった。視野がふだんの倍ぐらいの奥行きに伸びる。蛇の頭部の側面の核の輪郭がはっきりと見えた。


ひかりは指先に、もう一段だけ力を集めた。


──みけの、爪。


右手の人差し指の先に、薄く白い爪の輪郭がすっと出た。


呼び出しがふたつ。融合がふたつ。部分出現がひとつ。

──全部で、五つ。


ひかりにとって、それはふだんの動作の延長だった。夏のあいだに六つ同時まで届くようになっていた。五つは、もう、指の先で組み立てられる。


ひかりは橋脚の根元へ踏み込んだ。


***


犬が、結晶化した喉のあたりから低く呻いた。


呻きと同時に、犬の半径一歩ぶんの空気が、ふっと芯まで冷えた。ひかりの息が、白くすっとひと筋立ち上がる。九月の夕方の空気のなかに、冬の息が一拍だけ混じった。みけの爪の指先が、ちりっと痺れた。


ひかりは奥歯をひと噛みして、力の抜けかけた膝のうしろに、息をひと吹き戻した。


──冷気。


身体が動かなくなるほどではない。けれど、もうひとつ進んで、犬の喉元のすぐ前まで踏み込めば、指先の感覚が、たぶん半拍だけ遅れる。


ひかりは、すみちゃんの羽の感覚でひと跳びに犬の頭上に飛んだ。夕方の風が、髪のひと束をふっと持ち上げる。下から冷気が、ひかりの足の裏のほうへひと筋立ち上がってきた。


ひかりは空中で、左手の鎌を振りかぶった。


ひかりは、その刃の重みを、両手で何度も持ったことがある。けれど今日、左手のなかでだけ、その重みが、ふだんよりもすこし軽く感じた。

──融合の身体能力が、ひかりの腕に、重なっていた。


──「ごめんね」。


口のなかでひかりはちいさく言った。


鎌の刃を、犬の喉元の結晶のいちばん薄いところに振り下ろす。


──ぱきり、と、ちいさな音がした。


刃は鱗状の結晶を浅く撫でただけで、止まった。


──その拍を、犬は逃さなかった。


結晶化した喉のあたりが、ぐっ、と内側へ吸い込むように沈み込み、ひかりの足の裏のほうへ、芯まで凍った冷気のひと波が、下から噴き上がってきた。


──寒い。


膝のうしろの力が、半拍だけ抜けた。空中のひかりの身体が、ひと筋横にかしいだ。すみちゃんの羽が、背中側でひと打ち強く打った。かしぎが、ひと跳びぶん横へ滑って止まった。


犬の頭が、滑った先の位置に向かって、結晶化した顎を、ぐるりと振り上げた。鱗のあいだから、薄青の歯のような結晶が、にゅっとひと並び現れた。


ひかりはすずちゃんの視覚で、刃の入った位置のひと回り左を見直した。結晶の色が、そこだけほんの少し青みが薄い。核の真上だ。


ひかりは空中で身体を切り返し、犬の顎の振りをかわす角度から、鎌をもう一度振り下ろした。


──ぱき、と、二度目の音がした。


今度は、刃が鱗の薄い層を割って、奥まで届いた。核の輪郭に、刃先がふれる感触が、左手のひらにしずかに伝わった。


犬の首が、刃の入った方向と逆にねじれた。喉元の冷気が、ひかりの手首のあたりにひと筋巻きついた。手首の皮膚が、針で刺されたように、ちりっと痺れた。


ひかりは、奥歯をもうひと噛みした。鎌の柄に、左手の力をもう一段込めた。


刃を押し込む。


核が、ぱきんとちいさく弾けた。


犬の身体が、青みがかった砂になって、地面に崩れていく。冷気が、犬の輪郭ぶんだけふっと消えた。橋脚の根元の霜の線が、夕方の橙の光のなかで、薄くほどけた。


***


砕けた砂のなかから、蛇の身体だけが、まだ動いていた。


犬の体に巻きついていた巨体が、地面に落ちて、ずるりと滑る。動きにあわせて、橋脚のコンクリートの表面が、もう一段薄茶に染まった。剥がれかけの粉が、ぱらぱらと地面に落ちる音がした。


ひかりは右手の包丁を、構え直した。


包丁の刃は、母が三年使い続けた、ふだんの料理包丁。刃渡りは短い。けれど、母の毎日の動作で研がれた刃は、ひかりが家の台所で見ているかぎり、いちばんよく切れる刃だった。


ひかりは、すずちゃんの視覚で蛇の頭部の核の位置を見つけた。


踏み込んで、包丁を振り下ろす。


──こん、と、にぶい音がした。


刃先が当たる寸前、蛇の鎌首がひと筋ぶん横へ逃げた。包丁の腹が、核の真上ではなく、鱗の側面の硬いところを薄く擦った。


擦った音の余韻も切れないうちに、蛇の頭が、こちらに振り戻ってきた。鱗のあいだから、薄茶の粉が、ぱっとひかりの顔の高さに、ひと吹き散った。


ひかりは息を止め、すみちゃんの羽でひと跳び、横へ抜けた。粉のひと吹きが、ひかりが立っていた空気の場所をふわりと染めて、夕方の風のなかへ流れていった。


着地と同時に、蛇の長い胴体が、地面のうえをひと薙ぎした。橋脚の根元の雑草がひと束なぎ倒される。──ずるりと鱗が地を擦る音が、夕方の橙のなかに低く伸びた。


ひかりは半歩踏み込み直した。


すずちゃんの視覚が、もう一度核の輪郭を捉え直す。鎌首の振りの戻り、わずかな停止の拍。──そこが入る。


ひかりは、その拍に包丁をもう一度振り下ろした。


──こん。


今度は、当たった。けれど、核は砕けなかった。鱗の表面に、ちいさな亀裂がひとすじ入っただけだった。


ひかりが包丁を引き戻すよりも先に、蛇の身体が、地面のうえでねじれるように身をくねらせた。鱗の側面が包丁の刃を内側から押し返し、ひかりの左腕の袖の端に、薄茶の粉がふっと一筋かかった。


袖の端の生地が、夕方の光のなかで、薄く色を失った。


ひかりは、左腕を半歩引いた。


──酸化。


直接触れなくても、空気の中に漂う粉だけで、布の繊維が薄く食われる。腕に触れたら、肌のうえに、たぶん薄い焼け跡のような線が残る。


ひかりはみけの爪をもう一段だけ深く呼んだ。指先の白さが、ひと回り厚くなる。爪の硬度は、たぶん酸化の粉に、布よりはもう少し長く耐える。


***


蛇の鱗が、ひかりが想定したよりも硬かった。


ひかりはわずかに距離を取り、すずちゃんの視覚で核の輪郭をもう一度なぞった。さきほどの一打で入れた亀裂は、まだ浅い。芯までは、もうひと押し。鱗の表面はなめらかで、別の角度から刃を入れ直す隙間はない。──亀裂の続きを、もう一度同じところに入れる。


橋脚の根元のコンクリートの表面で、酸化の気配が薄く広がっていく。最初は橋脚の角の一点だったのが、夕方の光のなかで目視できる速度で、染みのように根元の輪郭のほうへ走り始めた。橋脚の表面の一部が、ぼろりと剥がれ落ちる。剥がれた粉が、川面に落ちる前に、夕方の風にさらわれて、ひかりの足元のほうへ流れてきた。


ひかりは内側で、ひとつだけ確かめた。


──融合の時間。


ふだんなら、三分。長くて、四分。夏のあいだに五分まで延ばせるようになった。──いま、ひかりの内側の時計は、もう六分のあたりをしずかに指していた。


鱗の側面に、ちいさな亀裂がひとすじ。もう一度叩けば、芯まで届く。


──「もう少しだけ、長くいけるはず」


ひかりの内側で、ちいさな声がした。


ひかりは五つの同時発動を保ち続けた。


***


「ひかりちゃん、もう、それぐらいで──」


ルナの声がひかりの隣から聞こえた。


ふだんなら、ひかりの内側をふっとひと拍引き戻すはずの、ルナの一声。──けれど、いま、ルナの声は、ふだんよりもわずかに弱かった。声の輪郭の半分がふだんの流れる調子から剥がれて、夕方の風のなかに溶けていく。


ひかりはその弱さを、耳のうしろで薄く受け取った。


受け取ってから、ひかりは内側で、ふっと思った。


──「もうすこしだけ」


ひかりの目は、蛇の頭部の核のひとすじの亀裂のほうに向いていた。すずちゃんの視覚が、その亀裂の奥に芯のような点をはっきりと見せていた。あそこを、もう一度叩けば、砕ける。──確実にいける。


ひかりは右手の包丁をもう一度振り上げた。


橋脚の根元のコンクリートが、薄く(ひび)()れた。


ひかりはそれを視野のすみで受け取った。受け取りながら、右手は止まらなかった。


***


蛇の鱗の側面が、ぱきりと、もう一度音を立てた。


亀裂が深くなる──はずだった。


けれど、刃が触れたのは、亀裂のひと回り横の、まだ硬い鱗の表面だった。すずちゃんの視覚の照準が、ひかりの内側で、ふっと半拍ぶんずれた。視覚の保持時間が、限界を過ぎていた。


──こん。


包丁の刃が、にぶい音とともに、弾き返された。


ひかりの右手首に、ちりっとした痺れが走った。弾かれた反動で、上半身がわずかに前のめりに泳いだ。


その泳ぎの拍に、蛇の鎌首が、こちらへまっすぐ振り戻ってきた。鱗の隙間から、薄茶の粉が、ひかりの顔の真横にひと吹き噴き出した。


ひかりはすみちゃんの羽でひと跳び、後ろへ抜けた。粉のひと吹きが、ひかりが立っていた場所の空気をふわりと染めて、夕方の風に流れていった。


着地した足元に、橋脚から崩れたコンクリートの粉が薄く積もりはじめていた。蛇の長い胴体が、地面のうえをもう一度、ねじれるようにひかりの足元の半歩手前まで、ずるりと滑ってきた。鱗の側面の酸化の気配が、ひと回り厚くなる。橋脚の根元のコンクリートが、もう一段ぼろりと崩れた。


倒せていない。


ひかりは、奥歯をひと噛みした。


──「もうすこしだけ」。


ひかりの内側で、もう一度あの声がした。今度は、ふだんよりも半歩ぶん低かった。

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