chapter-06: 九月の影 第四節 胸の内側に
ひかりは、もう一度包丁を振り上げようとした。
──そのとき、視界が白く揺れた。
夕方の橙が、薄い乳白色に塗りつぶされた。橋脚の輪郭が消えた。足元のコンクリートが、靴の底のしたで沈んだ。
──クラッ。
胸の底から後頭部まで、音にならないものがひと筋走った。いままで一度も、覚えのない感覚だった。
「──ひかりちゃん」
ルナの声がはやかった。
「だめ、解いて」
ひかりは、融合を解こうとした。
──解けない。
すみちゃんの黒い羽の輪郭も。すずちゃんの視覚も。みけの爪も。
ぜんぶが張り付いたまま、ひかりの内側へ滑り込んできていた。
「いけない」
ルナが言った。
「これ以上は──戻れなくなる!」
流れる調子は、どこにも残っていなかった。底から出た、ぎりぎりの声だった。ひかりは、その声を初めて聞いた。
***
橋脚の下のコンクリートに、ひかりを中心にして、黒い線が円く走った。
線は足元から上へ伸びた。橋桁の影をくぐり、夕方の橙を切って、九月の薄明の空をまっすぐ貫いた。
黒い筒が、ひかりを囲んで天まで届いていた。
直径は、二歩か三歩ぶん。地面から天まで、外の景色をぐるりと隔てていた。
筒のなかは暗かった。橋脚の光も、夕方の橙も、ぜんぶ外へ押しやられていた。
蛇の身体は、まだ筒の外でねじれていた。鱗の側面の酸化も、橋脚のコンクリートの崩れも、外で起こりつづけていた。
──けれど、ひとつも筒のなかに届かなかった。
ひかりは、筒のなかで片膝をついた。
***
ひかりの輪郭の内側に、すみちゃんの黒い羽が滑り込んできた。
かち、と何かが収まる音がした。
すずちゃんの視覚の鋭さが、ひかりの瞳の奥にもう一段深く沈んだ。
かち、ともうひとつ収まる音がした。
みけの爪の硬さが、ひかりの両手の指先すべてに降りた。
かち、と最後の音がした。
***
ひかりの視野が、いっとき別の場所にずれた。
校舎のうしろの、いちばん高い枝。風のとおる方向。卵から孵った日の、ぼんやりとあたたかい、巣のなかの暗さ。──すみちゃんの記憶。
葉月の家の庭の、低い植え込みのうえ。夕方、ちいさな虫を追いかける視界。──すずちゃんの記憶。
物置の縁の日溜まりの匂い。家のなかの足音の重さ。──みけの記憶。
それぞれが、ひと筋ずつひかりの内側に沈んだ。
***
ひかりは、立った。
立った瞬間、身体が軽かった。持ち上げるつもりで入れた力が、余った。
靴の底に、砂利のひと粒ひと粒の角が伝わってきた。──みけの足。
夕方の風が、肌のうえで幾筋にも分かれて流れていた。それぞれの向きと速さが、別々にわかった。──すみちゃんの風。
筒の外の蛇の鱗の、いちばん小さな亀裂の位置まで、瞳のなかにはっきり見えた。──すずちゃんの目。
ひかりは、両手の指先をゆっくりひらいた。
爪が白く、指のさきから、爪だと思えない長さまで伸びていた。指の腹のあたりまで、しなやかな硬さが覆っていた。
ひかりは、肩をうしろへ引いた。
肩甲骨の外側に、黒い羽の輪郭があった。融合のときのように、影として浮かんでいるのではない。羽の一枚一枚まで、かたちがあった。それでいて、背中にかかる重みは、これまでの融合の半分もなかった。
呼吸が深かった。膝のうしろに、力が戻っていた。
融合とはちがう手応えが、指先まで降りていた。
***
黒い筒が、下から崩れるように、消えていった。
夕方の橙が、ひかりの周りに戻ってきた。
蛇の身体は、橋脚の根元でまだ動いていた。鱗の側面の亀裂は、さっき叩いて入れたひとすじのままだった。
ひかりは、息をひとつ整えた。
それから、地面を軽く蹴った。
──飛んだ。
融合の翼の力ではなかった。ひと蹴りで、これまでにない高さまで上がった。空中で、ひかりは右手の指先に爪をもう一段伸ばした。
すずちゃんの視覚が、蛇の頭部の核の亀裂の奥の芯をはっきりと捉えていた。
ひかりは空中で、身体をひねった。
爪の先を、蛇の頭部の核の芯まで突き立てた。
──ぱき。
音は、ちいさかった。けれど、深かった。
蛇の鱗が、亀裂の入り口からいっせいに砕けた。核が、青みがかった砂になって、夕方の光のなかにほどけていった。
ひかりは地面に、しずかに降り立った。
***
夕方の橙が、また橋脚の下まで届いていた。
地面のうえに、ちいさな結晶が二粒残っていた。犬のぶんの薄青と、蛇のぶんの淡い灰青。どちらも、これまでのどの粒よりも大きかった。
ひかりの肩の輪郭から、黒い羽がしまわれた。指先の爪も、しなやかな硬さも、もとの長さに戻った。すずちゃんの視覚の鋭さも、目の奥に降りた。
けれど、ぜんぶひかりの内側に、まだ居た。
これまでの融合の解除のように、空気のなかへ戻っていったのではなかった。
ルナが、ひかりの足元まで来た。
紫紺の毛の流れが、ひどく遅かった。声を出すまでに、ルナは長い沈黙を置いた。
「ひかりちゃん」とルナは言った。
ひかりは何も言わなかった。
ルナは、もう一度沈黙を置いた。それから続けた。
「あのね、ひかりちゃん。いま、あなたがしたのは──わたしが教えていなかった、もうひとつのもの」
ひかりは、顔をゆっくり上げた。
「呼び出しと、融合と。──それから、もうひとつ」
ひかりは、ルナの瞳の濃褐色を見た。
「吸収、っていうの」
ルナの声が、橋脚の下の風のなかにしずかに置かれた。
「ねえ、ルナ」
ひかりの声は低かった。
「うん」
「すみちゃんと、すずちゃんと、みけは──戻ってくる?」
ルナはすぐには答えなかった。
「……戻らないの。ひかりちゃん」
「……そう」
返してから、自分の声が平らに聞こえた。
夕方の風が、橋脚の下を通り過ぎた。
***
帰り道の景色を、ひかりはあまり覚えていなかった。
家の玄関で母の声がして、「ただいま」と返した。台所から、湯気と味噌汁の匂いが出てきた。ひかりは手を洗って、出された夕食を食べた。母も姉たちも、ひかりの顔に何も見つけなかった。
夜、自室の戸を閉めてから、ひかりは机の引き出しを引いた。
たたんだ白いハンカチを、ひらいた。
ハンカチの並びの右のはしに、今日の二粒を置いた。犬のぶんの薄青と、蛇のぶんの淡い灰青。
──二粒、増えた。
ひかりは、その二粒を指の先で押さえた。
そして、もうひとつ。
ひかりは、声に出さずにすみちゃんの名前を呼んだ。
呼び出しの場所に、すみちゃんはいなかった。融合の場所にもいなかった。──背中の、もうひとつ奥のところに、黒い羽の感触が沈んでいた。
ひかりは、自分の右手を開いた。
「出す」と思っただけで、すみちゃんの黒い羽が薄くひらいた。呼び出しでもなく、融合の合図でもなかった。「戻す」と思った瞬間、黒い羽は輪郭の内側へ戻った。
ひかりは、もう一度、すずちゃんの視覚を引き出した。机のうえの灰青のノートの表紙に、擦り傷がひと筋走っているのが見えた。そこにあったことを、ひかりはいままで知らなかった。
それから、みけの爪を指先に出して、すぐに戻した。白いしなやかな硬さが、指の腹まで覆って、消えた。
──いつでも、出せる。いつでも、戻せる。
ひかりの身体のなかに、三匹分の道具が降りていた。呼び出しの場所よりも、融合の場所よりも、奥のところに。
***
胸の内側に、黒い羽のしっとりとした重みが沈んでいた。
夜目の冴え。風のとおる方向を肌で読む感覚。校舎のうしろの、高い枝からの視界。──融合のたびに借りていたものが、解除の手つきの向こう側に居座っていた。
すずちゃんの細い目の奥行きも、みけのしなやかな身体の感触も、同じ場所に並んでいた。
呼び出しも融合も、解除した瞬間に何も残らない。けれど、この三つは残った。
不快ではなかった。まるで、初めてのことじゃないみたいに。
ひかりは、そこにちいさな違和感を覚えた。
***
ベッドに横になった。
ルナが、膝の脇から胸の脇までゆっくりと移動して、丸くなった。動作も、位置も、これまでどおりだった。けれど、ふたりのあいだにひと筋、沈黙が挟まっていた。
ひかりは、まぶたを閉じる前に、もう一度自分の胸の内側を探った。
三匹分の感触は、たしかにそこに沈んでいた。
──ああ、これ、すごく便利だ。
ひかりは、そう思った。
よく切れるはさみを、引き出しの決まった場所にしまうときと変わらなかった。罪悪感はなかった。戸惑いもなかった。
──すみちゃんがもう校舎のうしろの枝に戻らないことも、すずちゃんが葉月の家の庭の植え込みに戻らないことも、みけが物置の縁の日溜まりに戻らないことも、ひかりのなかで利得のかたちに置き換わっていた。いつでも出てくる。いつでもしまえる。
──三匹は、ずっと、近い。
ひかりは、もうひとつ思った。
──ほかにも、できるかな。
その思いも、ひかりの内側に降りた。
窓のそとの、九月初旬の夜空。まだ薄明るい時刻。
机の引き出しの奥で、ちいさな結晶が二粒増えていた。
けれど、ひかりの内側に、もう戻らない三匹が眠っていた。
***
同じ夜。
岸本葉月は、自室のベッドのなかで、まぶたを閉じる手前だった。胸のあたりに、覚えのない感触があった。
部屋の空気は、冷たくも暑くもなかった。窓は閉まっていた。扇風機も止めていた。──それなのに、胸のひと点にだけ、何かがふっと降りた。
黒い、しっとりとした、羽のような感触。
葉月は、カラスの羽に触れたことがなかった。
けれど葉月の身体は、その感触を知っていると思った。理由のない確信だった。肩甲骨の下のあたりに、つばさのようなものの輪郭が薄く浮いて、すぐに消えた。
同時に、葉月の頭のなかに、ひかりの姿が浮かんだ。
朝、教室の入口で見た、夏休み前と同じ色のシャツの背中。並んで歩いた坂道で、葉月の前を行くひかりの、揺れない髪のひと束。やわらかい笑い方。──見慣れた、なんでもないひかりの姿。
それが、いま、胸の羽の感触とひと続きになっていた。
「あれ、ひかりちゃん、なんか、あったのかな」
葉月は、口のなかでちいさくつぶやいた。
つぶやいてから、葉月は自分の声に驚いた。
──どうして、ひかりちゃんの名前が出てきたんだろう。
理由はわからなかった。
葉月は、布団の端を握って、笑ってみた。
「ううん。気のせいかな」
葉月はそう自分に言いきかせた。
葉月はまぶたを閉じた。
見たことのない黒い羽の感触と、ひかりの背中の輪郭が、ひと続きのまま葉月のなかへ沈んだ。
そのまま、夜が深くなっていった。




