表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 雨宮ひかり編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/21

chapter-06: 九月の影 第四節 胸の内側に

ひかりは、もう一度包丁を振り上げようとした。


──そのとき、視界が白く揺れた。


夕方の橙の光が、ひと拍だけ薄い乳白色に塗りつぶされた。橋脚の輪郭が、ふっと消えた。足元のコンクリートが、靴の底のしたでひと息ぶん沈んだ。


──クラッ。


ひかりの内側で、いままで一度も感じたことのない、その音にならない感覚がひと筋走った。


「──ひかりちゃん」


ルナの声がはやかった。


「だめ、解いて」


ひかりは、融合を解こうとした。


──解けない。


すみちゃんの黒い羽の輪郭も。すずちゃんの視覚も。みけの爪も。


ぜんぶ、ぴたりと、張り付いたまま、内側に向かって、滑り込んできていた。


「いけない」


ルナが言った。


「これ以上は──戻れなくなる!」


ルナの声がふだんの調子ではなかった。底のほうから、ぎりぎりの本気の声。──ひかりは、その声を初めて聞いた。


***


橋脚の下のコンクリートに、ひかりを中心にして、ひとつ黒い線が円く立ち上がった。


線は、ひかりの足元から、上へ、上へとしずかに伸びていった。橋桁の影をくぐり、夕方の橙の光を切り、九月の薄明の空をまっすぐ貫いた。


ひかりの周りに、黒い筒が立ちあがっていた。


円の直径は、ひかりの身体を中心に、二歩か三歩ぶん。地面から、天まで、ふだんの世界の景色をぐるりと外側にしずかに隔てた。


筒のなかは、暗かった。橋脚の光も、夕方の橙も、ぜんぶ外側に押しやられた。


蛇の身体が、まだ筒の外側でねじれていた。鱗の側面の酸化の気配も、橋脚のコンクリートの崩れも、ぜんぶ筒の外側で起こりつづけていた。


──けれど、ひとつも筒の内側に届かなかった。


ひかりは、その内側で片膝をついた。


***


ひかりの輪郭の内側に、すみちゃんの黒い羽が滑り込んできた。


かち、と何かが収まる音がした。


すずちゃんの視覚の鋭さが、ひかりの瞳の奥にもう一段深く沈んだ。


かち、ともうひとつ収まる音がした。


みけの爪の硬さが、ひかりの両手の指先のすべてにしずかに降りた。


かち、と最後の音がした。


***


ひかりの視野が、いっとき別の場所にずれた。


校舎のうしろの、いちばん高い枝。風のとおる方向。卵から孵った日の、ぼんやりとあたたかい、巣のなかの暗さ。──すみちゃんの記憶。


葉月の家の庭の、低い植え込みのうえ。夕方、ちいさな虫を追いかける視界。──すずちゃんの記憶。


物置の縁の日溜まりの匂い。家のなかの足音の重さ。──みけの記憶。


それぞれが、ひと筋ずつひかりの内側にしずかに沈んだ。


***


ひかりは、立ち上がった。


立ち上がった瞬間、ひかりは、自分の身体がふだんよりもずいぶん軽いことに気づいた。


足元の地面の感触が、ふだんの倍ぐらいの解像度で靴の底に伝わってきた。──みけの足。


夕方の風のひと筋ひと筋が、肌の上で、別々の方向に別々の速度で流れているのがわかった。──すみちゃんの風。


黒い筒の外側の、蛇の鱗の表面の、いちばん小さな亀裂の位置が、ひかりの瞳のなかにはっきりと見えた。──すずちゃんの目。


ひかりは、両手の指先をゆっくりひらいた。


爪が白く、すべての指先のさきから、ふだんの倍ぐらいの長さで伸びていた。指の腹のあたりまで、しなやかな硬さが、ひと回り覆っていた。


ひかりは、背中の輪郭を内側で確かめた。


肩甲骨の外側に、ふだんの融合のときの「影として浮かぶ翼」ではなく、もう一段はっきりとした黒い羽の輪郭が、立ち上がっていた。輪郭の重みは、ふだんの融合の半分以下だった。──軽い。ふだんよりもずっと軽い。


呼吸が深かった。膝のうしろに、力がふだんよりもひと回り戻っていた。


ふだんの融合とはまったくちがう、しずかな確かな手応えが降りていた。


***


黒い筒が、下から崩れるように、消えていった。


夕方の橙の光が、ひかりの周りに、戻ってきた。


蛇の身体が、橋脚の根元で、まだ、動いていた。鱗の側面の亀裂は、ひかりが先ほど叩いて入れた、ひとすじのまま。


ひかりは、息をひとつ整えた。


それから、地面を軽く蹴った。


──飛んだ。


ふだんの融合の翼の力ではなかった。ふだんの倍以上の高さまで、ひと跳びで上がった。空中で、ひかりは右手の指先に爪をもう一段伸ばした。


すずちゃんの視覚が、蛇の頭部の核の亀裂の奥の芯をはっきりと捉えていた。


ひかりは空中で、身体をひねった。


爪の先を、蛇の頭部の核のいちばん深いところに突き立てた。


──ぱき。


音は、ちいさかった。けれど、深かった。


蛇の鱗が、亀裂の入り口からいっせいに砕けた。核が、青みがかった砂になって、夕方の光のなかにほどけていった。


ひかりは地面に、しずかに降り立った。


***


夕方の橙の光が、橋脚の下をふだんの色で満たしていた。


地面のうえに、ちいさな結晶が二粒しずかに残っていた。犬のぶんの薄青と、蛇のぶんの淡い灰青。ふだんの結晶よりもふた回りぶん大きい。


ひかりの肩の輪郭から、黒い羽がふっとしまわれた。指先の爪も、しなやかな硬さも、ふだんの長さにしずかに戻った。すずちゃんの視覚の鋭さも、ふだんの目の奥に降りた。


けれど、ぜんぶひかりの内側に、まだ()()


いつもの融合解除のように、空気のなかに戻っていったのではなかった。


ルナが、ひかりの足元まで来た。


紫紺の毛の流れが、ふだんよりはるかにゆっくりしていた。声を出すまでに、ルナはふだんの倍以上の長い沈黙を置いた。


「ひかりちゃん」とルナは言った。


ひかりは何も言わなかった。


ルナは、もう一度沈黙を置いた。それから、しずかに続けた。


「あのね、ひかりちゃん。いま、あなたがしたのは──わたしが教えていなかった、もうひとつのもの」


ひかりは、顔をゆっくり上げた。


「呼び出しと、融合と。──それから、もうひとつ」


ひかりは、ルナの瞳の濃褐色を見た。


吸収(・・)、っていうの」


ルナのその声が、橋脚の下の風のなかにしずかに置かれた。


「ねえ、ルナ」


ひかりがふだんよりさらに低い声で聞いた。


「うん」


「すみちゃんと、すずちゃんと、みけは、──戻ってくる?」


ルナはすぐには答えなかった。


「……戻らないの。ひかりちゃん」


「……そう」


返してから、自分の声が、ふだんよりもすこしだけ平らに聞こえた。


夕方の風が、橋脚の下をしずかに通り過ぎた。


***


帰り道の景色を、ひかりはあまり覚えていなかった。


家の玄関で、母の声がして、「ただいま」と返した。台所の湯気の匂いと、味噌汁の香りが、ふだんと同じ温度でひかりを迎えた。ひかりは、ふだんの顔でふだんの夕食を食べた。母も姉も、ひかりの顔のなかに何かを見つけることはなかった。


夜、自室の戸を閉めてから、ひかりは机の引き出しを引いた。


たたんだ白いハンカチを、ひらいた。


ちいさな結晶を、左から数えて、いちばん右の隣のさらに横に、今日の二粒を、ふだんの手つきで並べた。犬のぶんの薄青と、蛇のぶんの淡い灰青。


──二粒、増えた。


ひかりは、そのことをしずかに確かめた。


そして、もうひとつ。


ひかりは、内側ですみちゃんの名前を呼んだ。


ふだんの呼び出しの場所には、すみちゃんはいなかった。ふだんの融合の場所にもいなかった。──ひかりの背中のもうひと回り内側のところに、黒い羽の感触がしずかに沈んでいた。


ひかりは、自分の右手をしずかに開いた。


内側で「出す」と思っただけで、すみちゃんの黒い羽が、薄く立ち上がった。呼び出しでもなく、融合の合図でもなかった。ひかりが内側で「しまう」と思った瞬間、黒い羽は、しずかに輪郭の内側に戻った。


ひかりは、もう一度内側で、すずちゃんの視覚を引き出した。机のうえの灰青のノートの表紙の、ひと筋の擦り傷が、ふだんよりもずっとはっきりと見えた。


それから、みけの爪を、指先にひと拍だけ出した。爪の白いしなやかな硬さが、指の腹のあたりまでひと回り覆った。


──いつでも、出る。いつでも、しまえる。


ひかりの肉体のなかに、三匹分の道具が、ふだんの呼び出し・融合の場所とはもうひと回り奥のところに、しずかに降りていた。


***


胸の内側に、黒い羽のしっとりとした重みがしずかに沈んでいた。


夜目の冴え。風のとおる方向を肌で感じる感覚。校舎のうしろの、高い枝からの視界。──すみちゃんと融合したときに、ひかりが何度も借りた感覚が、いま、解除の手つきの向こう側で、ひかりの輪郭の内側にしずかに居座っていた。


すずちゃんの細い目の奥行きも、みけのしなやかな身体の感触も、同じ場所にしずかに並んでいた。


ふだんの呼び出しや、ふだんの融合は、解除した瞬間にひかりの内側に何も残らない。けれど、内側に沈んだ三つの感触は、解除しても残った。


不快ではなかった。まるで、初めてのことじゃないみたいに。


ひかりは、そのことに、ふっとちいさな違和感を覚えた。


***


ベッドに横になった。


ルナが、膝の脇から胸の脇までゆっくりと移動して、丸くなった。ふだんと同じ動作。ふだんと同じ位置。けれど、ふたりのあいだに、ふだんはなかったひと筋の沈黙が薄く加わっていた。


ひかりは、まぶたを閉じる前に、もう一度自分の胸の内側を、しずかに探った。


三匹分の感触は、たしかにそこに沈んでいた。


──ああ、これ、すごく便利だ。


ひかりは、そう思った。


ふだんの便利な道具を、ふだんの位置にしまったときとおなじ温度だった。罪悪感はなかった。戸惑いもなかった。

──すみちゃんが、もう、校舎のうしろの枝に戻らないことも、すずちゃんが、葉月の家の庭の植え込みに戻らないことも、みけが、物置の縁の日溜まりに戻らないことも、ひかりの内側で、利得(・・)のかたちに置き換わっていた。いつでも出てくる。いつでもしまえる。


──ひかりの内側で、三匹は、ずっと、()()


ひかりは、もう一拍だけ思った。


──ほかにも、できるかな。


その思いも、ひかりの内側にしずかに降りた。


窓のそとの、九月初旬の夜空。まだ薄明るい時刻。


机の引き出しの奥に、ちいさな結晶が、今日のぶん二粒増えていた。


けれど、ひかりの内側に、もう三匹戻ってこないものが、しずかに眠っていた。


***


同じ夜。


岸本葉月は、自宅の自室のベッドのなかで、まぶたを閉じる手前に、ふっと見たことのない感触を、胸のあたりに感じた。


葉月のベッドのまわりの空気は、ふだんどおりの温度だった。窓も閉まっていた。扇風機も止めていた。──けれど、葉月の胸の内側のひと点だけ、ふっと何かがしずかに降りた気がした。


黒い、しっとりとした、羽のような感触。


葉月は、カラスの羽に触れたことが、なかった。


けれど、その感触を、知っている、と、葉月の身体は、勘違いに近い確信で感じた。背中のうしろのほうの、肩甲骨の下のあたり。なにか、つばさのようなものの輪郭が、ひと拍だけ葉月の身体の外と内のあいだに、薄く立ち上がった気がした。


そして、その感触と、同じ拍に、葉月の頭のなかに、ひかりの姿がふっと浮かんだ。


朝、教室の入口で見た、夏休み前と同じ色のシャツの背中。並んで歩いた坂道で、葉月の半歩さきを行くひかりの、揺れない髪のひと束。やわらかい笑い方。──ふだんの、見慣れた、なんでもないひかりの姿。


それが、なぜか、いま、葉月の胸の内側の羽の感触と、ひと続きになっていた。


「あれ、ひかりちゃん、なんか、あったのかな」


葉月は、口のなかでちいさくつぶやいた。


つぶやいてから、葉月は、自分の声にすこし驚いた。


──どうして、ひかりちゃんの名前が、出てきたんだろう。


理由は、わからなかった。


葉月は、ふだんの自分の調子を取り戻すように、笑った。


「ううん。気のせいかな」


葉月はそう自分に言いきかせた。


葉月はまぶたを閉じた。


葉月の内側に、見たことのない黒い羽の感触と、ひかりの背中の輪郭が、ひと続きにしずかに沈んだまま、夜が深くなっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ