chapter-04: 光る、小さなもの 第一節 光るもの
机のうえに開いた本のページが、すこしずつ夕焼けの色に染まりはじめていた。
ひかりは、ページを指でなぞる手を止めて、窓のほうへ視線を投げた。秋の夕暮れの空が、ガラスの向こうで、ゆっくりと沈んでいくところだった。
膝のうえで、紫紺の毛のかたまりが、ふっと顔を上げた。
「ひかりちゃん」
ふだんと、ちょっとちがう声だった。
ふだんの、ふわっと宙を撫でるような調子のなかに、何かをこちらに置きにくるような、ためらいに似たものが混じっていた。
「ちょっと、付き合ってくれない? 近くの公園まで」
「公園? 今から?」
「うん。ひかりちゃんに、見せておきたいものがあるの」
ひかりは、本のページをしずかに閉じた。
彼女が、自分のほうから「行こう」と促すのははじめてのことだった。
ひかりは、その違いを、てのひらの内側でいちど確かめた。
「ええ、わかった」
カーディガンを羽織って、家を出た。
日曜の夕暮れ、住宅地はしずかだった。どこかの家の窓ガラスのむこうから、夕方の番組の笑い声が、ふっと流れていた。
紫紺は、ひかりの足元のすこしうしろを、しずかについて歩いた。
***
うすあかり公園は、ひかりの家から歩いて三分ほどのところにある、ちいさな児童公園だ。
砂場と、すべり台と、低い桜の若木が一本。そこに、もう陽の暮れかけた光が斜めに落ちていた。
砂場のそばで、子供が三人、輪になっていた。みんな、六つか七つくらい。
真ん中のひとりが、しゃがみこんでしゃくり上げていた。
両脇のふたりは、すこしとまどった顔で、泣いている子の頭のうえを覗き込んでいる。
ひかりは、自然な歩幅で駆け寄って、すこし離れた位置にしゃがみこんだ。
「どうしたの?」
立っていた子のひとりが、ひかりを見上げて、ぱっと声を出した。
「あのね、ちょうちょさんがいたの。きれいな、くろい羽の」
もうひとりが、こっくり頷きながら付け加えた。
「ひなちゃんがね、つかまえようとしたら、ちょうちょが急にあつくなったの。それで、やけどしちゃったの」
真ん中の子――ひなちゃんは、左手の親指の付け根を、もう片方の手でぎゅっと押さえていた。指のすき間から、米粒くらいの赤いやけどが、のぞいていた。
ひかりは、ひとつまばたきをした。
こういうとき、何を言えばいいかを、ひかりはよく知っていた。
「ちょっとだけ、見せてね」
声は、年下の子にむけるやわらかさ。
ひかりは、ひなちゃんの手をそっと取って、人差し指でやけどのまわりをゆっくり指した。
「あっち、お水あるよね。すこし、冷やそうね。――そのほうが、ずっと早く痛くなくなるから」
砂場の脇の水道までは、五歩ほど。
ひかりは、ひなちゃんを連れてゆっくり歩いた。
蛇口をひねると、夕暮れに冷えた水が、白い線になって流れ出した。
「冷たいよ。ちょっとだけ、がまんしてね」
ひかりは、ひなちゃんの親指のうえに、水のやわらかい線をまっすぐに当てた。
ひなちゃんは、肩をひとつすくめた。それから、こっくり頷いた。
「先生がね、やけどはね、いちばんに冷たいお水で冷やすんだよって、教えてくれたの」
ひかりの声は、自分でも気づかないくらい、なめらかに出てきた。
ひなちゃんは、しゃくり上げをやめて、流れる水の先を、じっと見つめていた。
時間にして、一分半ほど。
ひなちゃんの親指の根もとから、赤みがすこしずつ引いていった。
ひかりは、蛇口をしずかに閉めて、ハンカチで指先をそっと包んだ。
「もう、大丈夫。――おうちに帰ったら、お母さんに見せてね」
ひなちゃんは、ちいさく頷いた。
周りのふたりが、ほっとした顔で、声を揃えた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
ひかりは、薄く笑い返してから、ふっと声を落として聞いた。
「ちょうちょは、どこにいたの?」
「あっちの、低い枝のところ。――まだ、いるよ」
ひとりが、桜の若木のほうを指さした。
「みんなはね、もう近寄っちゃだめだよ。またあつくなったら、こんどはもっと痛いかもしれないからね。お願い」
子供たちは、こっくり頷いて、砂場のほうへ三人で離れていった。
***
桜の若木の、地面から二の腕ほどの高さの、低い枝。
そこに、一匹の蝶が止まっていた。
ひかりは、ひとりゆっくりと近づいた。
黒い羽の蝶だった。
けれど――左の羽の半分が、透明な結晶になっていた。
光の角度によって、結晶のなかに、水晶のような輝きがゆっくり走った。
蝶は、生きていた。
残ったほうの黒い羽を、弱々しくぱたぱたと動かしている。
結晶部分のすぐ周りの空気が、わずかに揺らいでいた。
開いたてのひらを近づけてみた。
ほんの少しだけ、熱を帯びていた。
蝶の止まる枝の樹皮が、結晶のあたるところだけ、うっすらと焦げていた。
「これ……」
ひかりの声が、しずかに震えた。
足元に、いつのまにか紫紺の彼女がいた。
「あの子はね、世界のほころびに触れてしまった子なの」
「ほころび、って?」
「世界のほつれが、たまにこんなふうにちいさな子のなかへしみこんでしまうことがあるの。こうなった子はね、もう元には戻らないのよ」
紫紺の声は、落ち着いて、ひとつひとつひかりの内側にしずかに置いていくような話しかただった。
「それだけならね、まだいいの。――でもね」
ひかりは、視線を彼女のほうへゆっくり動かした。
「あの子、自分の意思とは関係なく、まわりにちいさな『なにか』を起こしてしまうの。さっきのひなちゃんのやけど、たぶんあの子のせい」
ひかりの中に、しずかな冷気がふっと降りた。
「あの子が、やったの?」
「ううん、やった、っていうのとはちがうの。あの子に悪気はないのよ。ただ、ほころびに侵されてしまったその身体が、ひとりでに暴れちゃっているの。――やけどくらいならまだいいの。でもね、もしもっと強い火だったら。もし、相手がもっとちいさな子だったら。あの子はたぶんこれからも何度も同じことをくりかえす。自分の意思とは関係なくね」
ひかりは、蝶を見つめたまま、まばたきをすることを忘れていた。
「治せないの?」
ようやく、聞いた。
「……わたしの力でも難しいの。――ちゃんと止めてあげるのが、いちばんやさしい終わらせかたかもしれないのよ」
ひかりは、ひと息おいて、視線を地面へ落とした。
「……止める、っていうのは。――あの子を」
「うん。あの子のためにも。それから、たまたまあの子のそばを通ってしまうほかの誰かのためにも」
ひかりは、何も言わずに、蝶を見つめていた。
桜の若木の葉のあいだを、夕方の風がしずかに抜けていった。
すこし、つめたい風だった。
しばらくして、ひかりは、ひとつ深く息を吐いた。
「ええ、そうね」
声に、迷いのようなものは、もうほとんどなかった。
「呼び出しで、いける?」
「うん。道具ならなんでもいいのよ。ちゃんと止めてあげられれば」
ひかりは、しゃがんだまま、片手のてのひらの内側を、ぎゅっと握りしめた。
――学校の、教室の、掃除箒。
形と感触を、思い出した。
教室の前の壁に立てかけてある、ささくれた柄、すり減った穂先、握ったときの軽さ。
空気が、ひかりの手のすぐうえで、しずかに歪んだ。
長い柄の影が、ふっと現れた。
ひかりは、両手でその柄を握った。
一拍。
「ごめんね」
蝶の止まる低い枝に向かって、箒の穂先をしずかに寄せる。
蝶を、穂先で、地面のほうへそっとはらい落とす。
落ちた蝶のうえに、こんどは、柄の末端をまっすぐに押し当てた。
こん、と、軽い音。
黒い羽が、結晶もろともつぶれた。
結晶部分が、さらさらと細かい光になって、空気のなかへ散っていった。
苔のうえに、米粒よりすこし大きいくらいの、琥珀色のちいさな結晶が、ひとつ残った。
黒い羽は、そこになかった。
ひかりは、しずかに肩のちからをいちど抜いた。
そこにちいさな黒い亡骸が残らなかったことが、ひかりの胸の奥をなぜかほんのすこしだけ軽くした。
ひかりは、箒を消した。
長い柄の影は、ふっと空気のなかへ戻っていった。
***
「これ、なに?」
ひかりは、ちいさな結晶をてのひらに乗せた。指先に、ひんやりとした手触りが伝わった。
「あの子の、最後のかけら。――いつか役に立つから、しまっておいて」
「役に立つ、って?」
「うん。説明はちょっと難しいの。でもね――」
紫紺は、結晶のそばにするりと寄り添って、てのひらのうえで、いちど転がさせるように、鼻先をふっと近づけた。
「それを近くに持っていると、結晶化してしまった子が近くにいるとき、その子のコア――いちばん大事なところが、ひかりちゃんにだけすこし光って見えるようになる、らしいの」
「らしい、っていうのは」
「ええ。わたしも、まだぜんぶはわからないのよ」
紫紺は、ちょっと笑うように、しっぽを揺らした。
それから、ひと呼吸おいてつづけた。
「あとね、ひかりちゃん。――その子のちから、つかいたいときは、その子を割るの。ぱきん、って。そうするとね、いちどだけその子が持っていたちからを、ひかりちゃんがつかえるようになる」
ひかりは、てのひらのうえの結晶を、もういちど目の端で確かめた。
夕暮れの光が、内側の水晶のような輝きを、ふっとすべるように動いた。
「割る、っていうのは。――このまま、ぎゅっと?」
「うん。手のなかでも、地面に当ててもいいの。割れさえすれば、ちからが一回ぶん、ひかりちゃんに移ってくる。――ただ、いちどだけよ。割ったら、もう戻らないから」
――いちどだけ。
ひかりの胸の奥に、ちいさな熱が、すっと灯った。
「できることが、ふえる」――そのことが、ひかりの胸の真ん中にあった。
ひかりは、ちいさな結晶をハンカチに包んで、カーディガンのポケットに丁寧にしまった。先ほど、ひなちゃんの指を包んだのと、同じハンカチだった。
ポケットのなかで、ひかりは結晶をいちど指先でやさしくなでた。
帰り道、空はもう紫がかった青に沈んでいた。
紫紺が、するりとひかりの肩のあたりにのぼった。
「ひかりちゃん。――たぶんね、ああいう子はこれからもいるの。ぽつぽつとね。ちっちゃい子から、おっきい子まで」
「……ええ」
「ぜんぶをひかりちゃんがやらなくちゃいけないってわけじゃないのよ。――でも、もし見つけてしまったら」
一拍。
ひかりは、ポケットの中のちいさな結晶を、てのひらでいちど確かめた。
「ええ」
こっくり頷いた。
「――誰かが、傷つく前に、ね」
紫紺は、しずかに頷き返した。
肩のうえの重みが、ふしぎと温かかった。
***
家までの道は、まだしばらくあった。
ひかりは、すこし歩いてから、こころのなかで、ひとつ思いついた。
「ねえ」
「うん?」
「いまさらだけど、あなたのこと、なんて呼んだらいいかな」
紫紺は、すこしのあいだ、ひかりの肩のうえで、しっぽをゆっくり揺らしていた。
「……名前、ないのよ。わたしには」
「ないんだ」
ひかりは、目線を、夕暮れの空のほうへゆっくり動かした。空の端のあたりに、まだ細い月が、ぼんやりと紫の濃いところに浮かびかけていた。
「じゃあ、わたしがつけてもいい?」
「……もちろん。ひかりちゃんがつけてくれるなら、なんでもうれしいわ」
ひかりは、肩のうえの紫紺の毛色を、もういちど目の端で確かめた。
夜の手前のような色だった。月の出る空に、近い色だった。
「ルナ、っていうのは、どう?」
「ルナ?」
「ええ。お月さまの名前。――夜の色みたいな毛、しているから」
紫紺は、しっぽをふっと笑うように揺らした。
「ルナ。――いい名前ね。ありがとう、ひかりちゃん」
肩のうえで、ルナがゆっくりと目を細めた。
そんな話をしながらも。
「次にまた、見つけたら」――その言葉が、ひかりの胸の真ん中に、ふしぎなくらいまっすぐに、根を下ろしていた。
***
月曜の朝、ひかりは家を出るときに、カーディガンのポケットの結晶を上着の内ポケットにいちど移し替えた。
ルナは、玄関のところでひかりの靴の脇に、すっと座っていた。
「今日もずっと一緒にいてくれる?」
ひかりは、靴を履きながら、しずかに聞いた。
「うん。授業のあいだは、机の下にいるよ」
葉月と合流して登校した。
葉月は、学校に着くまでのあいだじゅう、テレビの話を喋りつづけた。
学校では、平凡な一日だった。
ひかりは、いつもどおりノートを取り、給食を食べ、葉月の冗談に薄く笑った。
三時間目の途中、机の下にいるはずだった紫紺の気配が、ふとなくなる時間があった。
ひかりはノートに目を落としたまま、ほんの一拍だけ椅子のうえの自分の体重を、てのひらで確かめた。
気づいたときには、足元にふだんどおりの重みが戻っていた。
ひかりは、それを誰にも言わなかった。
けれど、休み時間に窓の外を見るたびに、内ポケットの結晶のひんやりとした冷たさをいちどずつ、てのひらで確かめた。
終わりの会のあと、葉月が、机を寄せながら声をかけてきた。
「ねえ、ひかりちゃん、今日、商店街のほうからまわって帰らない? お母さんから、お醤油買ってきてって言われてさあ」
ひかりは、ランドセルを背負い直しながら、こっくり頷いた。
「ええ、いいよ。わたしも、ちょっと寄りたいところがあったから、ちょうどよかった」
***
公園の脇の駐車場を通り過ぎるとき――。
ひかりの内ポケットの結晶が、ひんやりとわずかに温度を変えた気がした。
ひかりは、そちらに視線をゆっくり向けた。
駐車場の隅、停まっている軽自動車の影に、野良猫らしき姿が一匹。茶白の雑種、ひどく痩せていた。
――後ろ脚と背中のあたりが、結晶化していた。
透明な結晶が、毛の下からせり出していた。
そして、首の付け根のあたり――そこだけが、ひかりの目に、ほんの少しだけ、はっきりと光って見えた。
ポケットの結晶が、その光を見せていた。
「ねえ、あの猫、なんか変じゃない?」
葉月の目には、せり出した結晶までは見えていない。「変な猫」までしか。
ひかりの背筋が、ひとつしずかにこわばった。
――蝶と、同じ光。
「具合悪いのかなあ。誰か、呼んだほうがいいかな」
ひかりは、駐車場の隅から目を離さずに、声を整えた。
「葉月ちゃん、先に、お醤油買ってきていいよ。わたし、ちょっとだけ、見てくる」
「えー、いっしょに行くよ?」
「ううん。猫って、人がたくさんいると、怖がって危ないことするかもしれないから。――ね、お願い」
「……うん、わかった。気をつけてね」
葉月の背中が、商店街のほうへ走っていった。
角を曲がって見えなくなるまで、ひかりは、視線でしっかりと追った。
葉月を遠ざける口実が、ひかりの口から、ためらいなく出た。
足元に、ふっと紫紺の姿が現れた。
ルナだった。
一拍。
ひかりの視界のなかで、自分の足元のルナと、駐車場の隅の猫の輪郭が、わずかに重なった。
けれど、駐車場の猫の目はうつろで、首の付け根が、しずかに光っていた。
――あれは、この子じゃない。
「来たね」
「ええ。――今日は、もっと大きい子」
「うん。あの子、たぶんもう長くないのよ。それまでに、何かを起こすと思う」
ルナは、しっぽの先で、ひかりの首すじをふっと撫でた。
「――その前に、終わらせてあげて。それが、いちばんやさしい終わらせかただから」
ひかりは、深くひとつ息を吸った。
「ええ。――わたしが、ちゃんと終わらせてあげる」
その声に、迷いはなかった。
「無理しないでね。融合は、できそう?」
「ええ。すみちゃんと、すずちゃん。――あと、お母さんの裁縫箱の、大きなはさみ」
ひかりのうちに、ちいさくリストが並んでいた。
カラスのすみちゃん、雀のすずちゃん、お母さんの裁縫箱の大きなはさみ。
――この数日のあいだに、こっそり増やしていた。
ルナは、しずかにしっぽを揺らした。
ひかりは、駐車場のフェンスのほうへ、ゆっくり一歩踏み出した。
夕方の風が、ひかりの髪の先を、ふっとはらった。
つめたい風だった。




