chapter-03: 呼応する身体 第三節 飛ぶ、ひととき
しずかな夜だった。
土曜の夜の空気は、雨上がりの土と葉の匂いを、すこしだけ残していた。
月は見えなかった。空には、薄い雲が流れていた。
ひかりは、ベランダの窓をしずかに開けた。
裸足のままで、フローリングの縁に腰を下ろした。てのひらに、サッシのレールのわずかな冷たさが伝わってきた。
猫は、手すりのうえにぴたりと座っていた。紫紺の毛が、街灯のあかりにほんのすこし紫を帯びていた。
「次は、もうひとつのほう、やってみる?」
猫が、夜風に紛れさせるように聞いた。
ひかりは、ベランダのむこうの夜の街の輪郭を、いちど見渡した。
屋根の連なり。電線。遠くの、誰かの家の、まだ点いているあかり。
「ええ、やってみたい」
ひかりの声は、ふだんよりも、ほんの少しだけ低かった。
***
「顔と名前」
猫が、しずかに繰り返した。
「ええ」
ひかりは頷いた。
雀の「すずちゃん」には、もう名前をつけてあった。
けれど、顔のほうがまだすこし曖昧だった。電線のうえの、あの瞬間の輪郭は覚えていた。けれどその雀の、まばたきの癖や、首をかしげるときの角度までは、まだ自分のなかにしまわれていなかった。
それに、月のない薄い雲だけが流れている空に、白いつばさはたぶんすこし目立ってしまう。
――黒い子のほうが、いい。
ひかりが、この数日のあいだに、ひっそりと顔まで覚えていた鳥は、もう一羽いた。
登下校の道のいちばん大きな欅の、いつも同じ枝に止まっている、すこし大柄なカラスだった。
つやのある、まっくろな羽。
首をすこしかしげる癖。
誰かが下を通っても、すぐには飛び立たない、あのちょっとした図々しさ。
じっとこちらを見下ろしているときの、賢そうな目。
口の中で、ひかりはこっそりその子に名前をつけていた。
すみ。
「すみちゃん。――来て」
ひかりは、ベランダの手すりのほうへ、声を置いた。
空気がささやかに揺らいだ。
ベランダの手すりの、すこし離れたところに、ふっと黒い影が現れた。
紫紺の猫の斜め横、すこしだけ離れた位置だった。
すみちゃんは、現れた瞬間、ほんの一拍だけ首を傾けた。
それから、低く一度だけ、カァ、と鳴いた。
夜の空気のなかに、その声は、ふしぎなくらい、すんなり馴染んだ。
***
ひかりは、すみちゃんにゆっくり手を近づけた。
すみちゃんは、賢そうな目で、ひかりをじっと見上げた。
「いっしょになるね。少しのあいだだけ」
すみちゃんの黒い目が、ひかりの目と合った。
それから、すみちゃんの輪郭がふっとひかりの輪郭に重なった。
***
ひかりの背中のあたりが、ふいに軽くなった。
服のうえから、肩甲骨のさらに外側に、黒い、けれど確かな羽の影が、ゆっくりと伸びていた。輪郭が二重にゆっくり揺らいでいた。
ふしぎなことに、服のどこも、破けはしなかった。
黒い羽は、肉や骨を押しのけて生えてくるわけではなく、ひかりの身体の輪郭のすぐ外側に、影のようにそっと重なっていた。背骨も、肩も、すこしも形を変えていない。けれど、たしかに、そこに翼があった。翼の機能だけが、ひかりの背中の輪郭に、貸し与えられている、という感じだった。
完全な変身ではなかった。
ひかりは、まだひかりだった。
けれど、すみちゃんの輪郭の影が、ひかりの上にいま、しずかに重なっていた。
視線の高さが、ふだんより、ほんの一段だけ上がった気がした。
暗がりのなかに沈んでいた屋根の縁が、わずかな光のなごりだけで、しずかに浮かびあがってきた。
それから、夜の空気の中のちいさな流れの方向が、肌のうえに、そのまま読める、というふしぎな感覚があった。
風の流れていく道が、見えた。
「五分くらいよ」
猫がベランダの手すりから、しずかに言った。
「それ以上は、長くしないでね」
「ええ」
ひかりは頷いた。
それから、ベランダの手すりに、ちょこんと足をかけた。
***
夜の街は、しずかだった。
ひかりは、手すりの縁から、ふっと足を踏み出した。
落ちる、と思った瞬間、背中の黒い羽の影が、ふわりと大きく空気を押し下げた。
ひかりの身体は、落ちなかった。
ふっと、屋根のうえを越えた。
街灯の高さを越えた。
家の屋根の連なりが、ひかりの足の下にゆっくりと広がっていった。
黒い羽は、月のない空のなかで、ほとんどどこにも線を持たなかった。
ひかりの輪郭は、夜のいちばん深いところに、しずかに溶けこんでいた。
風が、頬を撫でた。
夜の空気の、土と、葉と、コンクリートと、誰かの家の夕飯のほんのすこし残った匂いが、すべてひかりの肌の上を流れていった。
ひかりは、ほんの数十秒、街の上にいた。
それはほんとうに、短かった。
けれど、その数十秒のあいだに、彼女のなかの世界の縮尺は、確かに書き換わった。
ここを、わたしは知っている。
ここに、わたしはいる。
そして、いずれ、もっとずっと遠くまで。
ひかりは、それを口にしなかった。
けれど、内側のいちばん奥のところで、その文章はすでに書き終わっていた。
***
ひかりは、自分の意志でベランダに、ふわりと戻った。
足のうらが、フローリングの冷たさにふっと触れた。
背中の黒い羽の影が、しずかに輪郭の二重から、ひとつに戻っていった。
すみちゃんは、ひかりの足元のあたりに、ぼんやりとした目で、ちょこんと立っていた。
「ありがとう、すみちゃん」
ひかりはしゃがんで、すみちゃんの背中の、つやのある黒い羽のあたりに、てのひらを軽くのせた。
すみちゃんは、その手をこわがらなかった。
「もういいよ。――おかえり」
ひかりは窓をもうすこし開けた。
すみちゃんは、ぼんやりとした目のままで、けれどふだんどおりの大きな羽ばたきで、夜のなかへ飛び立っていった。
黒い影は、ふっと夜にまぎれて見えなくなった。
紫紺の猫が、しずかに見送っていた。
***
「うまく解けたね」
猫が、満足そうにしっぽを揺らした。
「ええ。――思っていたより、ずっとすんなりだった」
ひかりは、自分のてのひらを見ながら、口の中だけで言った。
「これからも、長くは使わないでね。今日くらい、ちょっと触れるくらいで、ちょうどいいの」
「ええ、わかった。気をつける」
猫は、それ以上は言わなかった。
***
ひかりは、ベランダの窓を背にして、しばらく自分の部屋を見渡した。
机のうえの、シャーペン。閉じられた教科書。引き出しの取っ手。ベッドのうえの、しわの寄った毛布。
さっきまでと、ぜんぶ同じだった。
けれど、世界の見え方のいちばん奥のところが、もうひとつだけ書きかわっていた。
ひかりは、机のところに戻った。
椅子に座った。
それから、宙のすこしだけ手前のあたりに、視線を置いた。
「もう、すこしだけいろいろ試したいな」
口の中で、ちいさくつぶやいた。
***
机のうえの灯りを、ひかりはいちど見つめた。
それから、ちいさく息を吐いた。
笑ったつもりはなかった。
けれど、自分の口の端が、ほんの少しだけ上がっているのを、彼女は気づいた。
猫が、いつのまにかベッドのうえに戻っていた。
紫紺の毛の塊が、シーツの白のうえで、まるく蹲っていた。
ひかりは椅子から立ち上がり、ベッドのほうへ歩いた。
猫の隣に、しずかに横になった。
膝のあたりに、紫紺のしっぽが、ふっと寄り添ってきた。
「ねえ」
ひかりは目を閉じて、口の中で聞いた。
「うん?」
「ありがとう」
短かった。
「ええ」
猫の声も、短かった。
それで十分だった。
***
夜のなかで、ひかりはゆっくり、まどろみに沈んでいった。
世界はまだ、何も変わっていないように見える。
家族には相変わらず、何も見えない。
明日も、学校は休みで、葉月からたぶん、お昼すぎに電話がかかってくる。
けれど、内側のいちばん奥のところは、もうすこしだけ遠くにあった。
ひかりは、その手触りを抱いたまま、まぶたを閉じた。
土曜の夜が、しずかに更けていった。
風の流れていく道が、見えるようになった夜。
その夜を境に、世界の縮尺が、ひとつだけ、書きかわった。




