表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 雨宮ひかり編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/21

chapter-03: 呼応する身体 第三節 飛ぶ、ひととき

しずかな夜だった。

土曜の夜の空気は、雨上がりの土と葉の匂いを、すこしだけ残していた。

月は見えなかった。空には、薄い雲が流れていた。


ひかりは、ベランダの窓をしずかに開けた。

裸足のままで、フローリングの縁に腰を下ろした。てのひらに、サッシのレールのわずかな冷たさが伝わってきた。

猫は、手すりのうえにぴたりと座っていた。紫紺の毛が、街灯のあかりにほんのすこし紫を帯びていた。


「次は、もうひとつのほう、やってみる?」


猫が、夜風に紛れさせるように聞いた。


ひかりは、ベランダのむこうの夜の街の輪郭を、いちど見渡した。

屋根の連なり。電線。遠くの、誰かの家の、まだ点いているあかり。


「ええ、やってみたい」


ひかりの声は、ふだんよりも、ほんの少しだけ低かった。


***


「顔と名前」


猫が、しずかに繰り返した。


「ええ」


ひかりは頷いた。


雀の「すずちゃん」には、もう名前をつけてあった。

けれど、顔のほうがまだすこし曖昧だった。電線のうえの、あの瞬間の輪郭は覚えていた。けれどその雀の、まばたきの癖や、首をかしげるときの角度までは、まだ自分のなかにしまわれていなかった。


それに、月のない薄い雲だけが流れている空に、白いつばさはたぶんすこし目立ってしまう。

――黒い子のほうが、いい。


ひかりが、この数日のあいだに、ひっそりと顔まで覚えていた鳥は、もう一羽いた。

登下校の道のいちばん大きな(けやき)の、いつも同じ枝に止まっている、すこし大柄なカラスだった。


つやのある、まっくろな羽。

首をすこしかしげる癖。

誰かが下を通っても、すぐには飛び立たない、あのちょっとした図々しさ。

じっとこちらを見下ろしているときの、賢そうな目。


口の中で、ひかりはこっそりその子に名前をつけていた。


すみ(・・)


「すみちゃん。――来て」


ひかりは、ベランダの手すりのほうへ、声を置いた。


空気がささやかに揺らいだ。

ベランダの手すりの、すこし離れたところに、ふっと黒い影が現れた。

紫紺の猫の斜め横、すこしだけ離れた位置だった。


すみちゃんは、現れた瞬間、ほんの一拍だけ首を傾けた。

それから、低く一度だけ、カァ、と鳴いた。

夜の空気のなかに、その声は、ふしぎなくらい、すんなり馴染んだ。


***


ひかりは、すみちゃんにゆっくり手を近づけた。

すみちゃんは、賢そうな目で、ひかりをじっと見上げた。


「いっしょになるね。少しのあいだだけ」


すみちゃんの黒い目が、ひかりの目と合った。

それから、すみちゃんの輪郭がふっとひかりの輪郭に重なった。


***


ひかりの背中のあたりが、ふいに軽くなった。


服のうえから、肩甲骨のさらに外側に、黒い、けれど確かな羽の影が、ゆっくりと伸びていた。輪郭が二重にゆっくり揺らいでいた。


ふしぎなことに、服のどこも、破けはしなかった。

黒い羽は、肉や骨を押しのけて生えてくるわけではなく、ひかりの身体の輪郭のすぐ外側に、影のようにそっと重なっていた。背骨も、肩も、すこしも形を変えていない。けれど、たしかに、そこに翼があった。翼の機能だけが、ひかりの背中の輪郭に、貸し与えられている、という感じだった。


完全な変身ではなかった。

ひかりは、まだひかりだった。

けれど、すみちゃんの輪郭の影が、ひかりの上にいま、しずかに重なっていた。


視線の高さが、ふだんより、ほんの一段だけ上がった気がした。

暗がりのなかに沈んでいた屋根の縁が、わずかな光のなごりだけで、しずかに浮かびあがってきた。

それから、夜の空気の中のちいさな流れの方向が、肌のうえに、そのまま読める、というふしぎな感覚があった。

風の流れていく道が、見えた。


「五分くらいよ」


猫がベランダの手すりから、しずかに言った。


「それ以上は、長くしないでね」


「ええ」


ひかりは頷いた。

それから、ベランダの手すりに、ちょこんと足をかけた。


***


夜の街は、しずかだった。


ひかりは、手すりの縁から、ふっと足を踏み出した。


落ちる、と思った瞬間、背中の黒い羽の影が、ふわりと大きく空気を押し下げた。

ひかりの身体は、落ちなかった。


ふっと、屋根のうえを越えた。

街灯の高さを越えた。

家の屋根の連なりが、ひかりの足の下にゆっくりと広がっていった。


黒い羽は、月のない空のなかで、ほとんどどこにも線を持たなかった。

ひかりの輪郭は、夜のいちばん深いところに、しずかに溶けこんでいた。


風が、頬を撫でた。

夜の空気の、土と、葉と、コンクリートと、誰かの家の夕飯のほんのすこし残った匂いが、すべてひかりの肌の上を流れていった。


ひかりは、ほんの数十秒、街の上にいた。

それはほんとうに、短かった。

けれど、その数十秒のあいだに、彼女のなかの世界の縮尺は、確かに書き換わった。


ここを、わたしは知っている。

ここに、わたしはいる。

そして、いずれ、もっとずっと遠くまで。


ひかりは、それを口にしなかった。

けれど、内側のいちばん奥のところで、その文章はすでに書き終わっていた。


***


ひかりは、自分の意志でベランダに、ふわりと戻った。


足のうらが、フローリングの冷たさにふっと触れた。

背中の黒い羽の影が、しずかに輪郭の二重から、ひとつに戻っていった。


すみちゃんは、ひかりの足元のあたりに、ぼんやりとした目で、ちょこんと立っていた。


「ありがとう、すみちゃん」


ひかりはしゃがんで、すみちゃんの()(なか)の、つやのある黒い羽のあたりに、てのひらを軽くのせた。

すみちゃんは、その手をこわがらなかった。


「もういいよ。――おかえり」


ひかりは窓をもうすこし開けた。

すみちゃんは、ぼんやりとした目のままで、けれどふだんどおりの大きな羽ばたきで、夜のなかへ飛び立っていった。

黒い影は、ふっと夜にまぎれて見えなくなった。


紫紺の猫が、しずかに見送っていた。


***


「うまく解けたね」


猫が、満足そうにしっぽを揺らした。


「ええ。――思っていたより、ずっとすんなりだった」


ひかりは、自分のてのひらを見ながら、口の中だけで言った。


「これからも、長くは使わないでね。今日くらい、ちょっと触れるくらいで、ちょうどいいの」


「ええ、わかった。気をつける」


猫は、それ以上は言わなかった。


***


ひかりは、ベランダの窓を背にして、しばらく自分の部屋を見渡した。


机のうえの、シャーペン。閉じられた教科書。引き出しの取っ手。ベッドのうえの、しわの寄った毛布。

さっきまでと、ぜんぶ同じだった。

けれど、世界の見え方のいちばん奥のところが、もうひとつだけ書きかわっていた。


ひかりは、机のところに戻った。

椅子に座った。

それから、宙のすこしだけ手前のあたりに、視線を置いた。


「もう、すこしだけいろいろ試したいな」


口の中で、ちいさくつぶやいた。


***


机のうえの灯りを、ひかりはいちど見つめた。

それから、ちいさく息を吐いた。


笑ったつもりはなかった。

けれど、自分の口の端が、ほんの少しだけ上がっているのを、彼女は気づいた。


猫が、いつのまにかベッドのうえに戻っていた。

紫紺の毛の塊が、シーツの白のうえで、まるく蹲っていた。


ひかりは椅子から立ち上がり、ベッドのほうへ歩いた。

猫の隣に、しずかに横になった。

膝のあたりに、紫紺のしっぽが、ふっと寄り添ってきた。


「ねえ」


ひかりは目を閉じて、口の中で聞いた。


「うん?」


「ありがとう」


短かった。


「ええ」


猫の声も、短かった。

それで十分だった。


***


夜のなかで、ひかりはゆっくり、まどろみに沈んでいった。


世界はまだ、何も変わっていないように見える。

家族には相変わらず、何も見えない。

明日も、学校は休みで、葉月からたぶん、お昼すぎに電話がかかってくる。


けれど、内側のいちばん奥のところは、もうすこしだけ遠くにあった。


ひかりは、その手触りを抱いたまま、まぶたを閉じた。


土曜の夜が、しずかに更けていった。

風の流れていく道が、見えるようになった夜。

その夜を境に、世界の縮尺が、ひとつだけ、書きかわった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ