chapter-03: 呼応する身体 第二節 ふたつだけ
ひかりは椅子に座ったまま、ノートのうえに置いていたシャーペンを、ゆっくりと横におろした。
「試してみてほしいこと?」
「ええ。そのままでいいから、机のうえだけ、ちょっと空けてみてくれる?」
ひかりは少し首を傾けて、それから机のうえの教科書とノートを、片側へしずかに寄せた。木目のきれいなところが、机のうえにひとつ現れた。
猫が、ベッドからゆっくり降りた。
ぺた、とフローリングに足音がして、机の脚もとにしずかに座り直した。
「ねえ、葉月ちゃんの白いハンカチ、覚えてるでしょう? ゆうべ、あなたが借りて、今朝葉月ちゃんに返したあの」
「……ええ」
ひかりは首をゆっくり傾けた。
覚えていた。ゆうべの、夕方。葉月の家を出るとき借りて、今朝の通学路で葉月に返した、四つ折りの、葉月の家の柔軟剤の匂いがする、白いハンカチ。
「あの子は、今、どこにあるかな?葉月ちゃんの机の引き出しのなかに、四つ折りでしまわれているかしら。――ひかりちゃん、そのハンカチを、ちょっと思い浮かべてみて」
ひかりは少し戸惑った。
けれど、疑問に感じながらも、ゆっくりと目を閉じた。
葉月の家の二階の、葉月の部屋。机は窓際にあった。引き出しは、右側の上から二段目。葉月のヘアゴムが、いくつかばらばらに転がっている、その隣に、白い、四つ折りの布がいつもおとなしくしまわれていた。葉月の家の柔軟剤は、ほのかに青い花のような匂いがする。引き出しを開けるとき、滑りのいい木が、かたん、と小さな音をたてる。
「思い浮かんだ?」
「……ええ、たぶん」
「じゃあね、心のなかで、その子に声をかけてみて。――『来て』って、一回だけしずかにね」
ひかりは目を閉じたまま、椅子のうえでほんの少しだけ息をためた。
口の中で、一拍だけ唱えた。
「来て」
***
部屋のなかの空気が、ほんのわずか揺らいだ。
風ではなかった。
温度でもなかった。
気配が、すっと机のうえに置かれた、という感じだった。
ひかりは、目を開けた。
机のうえに、白いハンカチが置かれていた。
***
ひかりは、椅子の肘掛けをつかんだ手をふっと止めた。
喉の奥が、いちどつかえた。
声が、出なかった。
椅子のうえで、ゆっくりと身体を机に向きなおした。
おそるおそる、指先をハンカチのほうへ伸ばした。
ふれた瞬間、葉月の家の柔軟剤の、青い花のような匂いが、たしかにした。
「これ……」
ひかりは、ようやく声を絞り出した。
「これ、葉月ちゃんちの……」
「ええ。――ちゃんと、あとで戻るから、心配しないでね。少しの時間だけ、こっちに来てくれてるの」
猫の声は、急かさなかった。
ひかりはハンカチから指をはなした。
それから机のうえに、両手をきちんと組んだ。
組んでいないと、震えてしまいそうだったから。
ふつうなら、もっと早く、もっと大きく声をあげていい場面だった。
驚いた、こわい、嬉しい、すごい、なんでもいいから、何かを出していい場面だった。
けれど、そのどれも、彼女のなかでは最初から選択肢に入っていなかった。
驚きは、彼女の内側の、誰にも見えない場所に、そっとしまわれた。
***
「ねえ、ひかりちゃん」
猫が、机の脚もとからゆっくり見上げた。
「これはね、いま、あなたがやったのよ」
「わたしが……」
「うん」
猫は、ひとつ目を細めた。
「あなたには、ちょっとふしぎな力があるの。ずっと前からあなたのなかにあったのよ。気づいてなかっただけで」
ひかりは、しばらく猫の顔を見ていた。
猫の濃褐色の瞳のなかで、机のうえの卓上灯のあかりが、ゆっくり揺れていた。
ふしぎ。
不思議。
その言葉が、ひかりの内側でふいに輪郭を取った。
昨日までの自分なら、たぶんもうすこしこわがった。
けれどいまの自分は、こわがる前にもう、納得していた。
「……それ、人に話していい話、なの?」
ひかりは、自分の声がふしぎなくらい落ち着いて聞こえることに、もう一拍驚いた。
「ううん、人にはまだ。――いいえ、たぶん、ずっと。あなたとわたしの、ふたりだけの話よ」
「……そう、わかった」
ひかりの「わかった」は、短かった。
受け入れる早さに、自分でもおかしいくらいだ、と思った。
けれど、嫌だ、とは思わなかった。
この子は、わたしのことを知っている。
なぜか、そう確信した。
猫が口をきいたあの夜から、もうふしぎはふしぎの形をしていなかった。
さっきまでひかりのなかに並んでいた、いくつもの驚きが、いまはしずかに整列していた。
***
「あなたの力はね、ふたつあるの」
猫は、ゆっくりとしっぽを揺らした。
「ひとつめは、いまみたいに、何かを呼び出すことができる力」
ひかりは、机のうえの白いハンカチに視線を落としていた。
「顔と名前をちゃんと知っている子なら、ちょっとのあいだだけ、ここに呼べるのよ。話したり、見たり、いっしょに居たり。――終わったら、ちゃんと元の場所に戻る。物もおんなじ。あなたがしっかり覚えている物なら、たぶんちゃんと来てくれる」
「戻るんだね」
「うん、ちゃんと戻る。心配しないで」
ひかりはしずかに頷いた。
机のうえの白い布のうえに、自分の指先をふたたびそっと置いてみた。
布は、ちゃんと布だった。
「ふたつめは?」
「ふたつめは、融合。――ちょっと難しい言葉、ごめんね」
猫は、すこし首を傾けた。
「呼んだ子とひかりちゃんが、いっしょになれるの。その子の身体で、その子の力で、動ける。――鳥なら空を飛べるし、魚なら水のなかを泳げる」
「いっしょに、なる……」
「うん。あなたが、もういい、って思ったときに、ちゃんと解いてもとに戻れるのよ」
ひかりは、その言葉を自分のなかでゆっくり転がした。
いっしょになる。鳥なら、空を飛べる。
それは、子どものころに見た絵本の、誰かのセリフのようだった。けれど猫の声には、絵本のページを捲るときのような軽さも、嘘の匂いもなかった。
「それで、ぜんぶ?」
ひかりは、ようやく顔を上げた。
猫は、ひかりの目をまっすぐに見て、頷いた。
「ええ、これだけ。――あなたの力は、これでぜんぶよ。覚えておいてね」
短い、一拍だった。
猫の瞳のなかで、卓上灯のあかりがまたゆっくり揺れた。
ひかりは、その目をしずかに受け止めた。
***
「ひとつ、聞いてもいい?」
「うん、なに?」
「融合してるあいだ、その子はどうなってるの? わたしと、混ざってるの?」
「いいえ」
猫は、首を横に振った。
「眠ってる、みたいなものよ。融合中の記憶は、戻ったあとには残らないの」
「残らない」
「うん。目を覚ましたら、ちょっと時間が飛んでた、くらいの感覚かな。――だから、その子をこわがらせない」
「……そう」
ひかりは、ちいさく頷いた。
それは、確認の「そう」ではなかった。
ひとつだけ、確かめておきたかったことに辿りついた、という音だった。
机の下で、猫がゆっくり目を細めた。
ひかりの内側の、誰にも見えないところで、ちいさな目盛りがすこしだけ動いた。
***
「ひとつだけ、気をつけてほしいことがあるの」
猫がふたたび口を開いた。
「なに?」
「融合はね、長く続けたり、心が揺らいでいるときに使ったりすると、解除に失敗することがあるの」
「失敗?」
「うん。そうなったら、ちょっとめんどうなことになるから。――だから、長くは続けないでね。気持ちが乱れているときは、無理しないで。約束、できる?」
「ええ、わかったわ。気をつける」
猫は、それ以上の説明はしなかった。
机のうえのハンカチが、ふっと消えた。
借りていた時間が、終わったらしかった。
ひかりは、消えた木目のあたりをしばらく見ていた。
青い花の匂いだけが、まだ空気のなかにすこしだけ残っていた。
***
土曜の昼下がりだった。
窓のむこうで、日の光が家の屋根のあいだに、まっすぐに伸びていた。
午後の影が、ひかりの机の縁にはっきりと降りていた。
ひかりは自室の窓辺で、自分の指先をゆっくり見ていた。
昨夜のことが、夢ではなかったことを確かめるためだった。
ふと、最初に思い浮かんだのは、教室で消しゴムを拾った朝比奈くんだった。
ひかりはその思いつきを、すぐに自分のなかでしまいなおした。
ちょっと申し訳ない気がする。
口の中で、そうつぶやいた。
人を呼び出すのは、まだ少し面倒だ。
***
代わりに、ひかりは昨日のハンカチを思い浮かべた。
葉月の家の机の引き出し。四つ折りの白い布。青い花の匂い。
昨夜、自分の手で自分の机のうえに、呼びだしたあれ。
「来て」
ちいさく、口の中で呼んだ。
空気がささやかに揺らいで、机のうえにふっと白いハンカチが置かれた。
葉月の家の柔軟剤の匂いがする。
ひかりはそれを、そっと撫でた。
二度目の呼び出し。
一度目よりも、心臓のあたりはずっとしずかだった。
数分後、ハンカチはまたふっと消えた。
机のうえに、微かな温度のあとだけが、しばらく残っていた。
***
「うまくできたね」
窓辺の手すりに、いつのまにか猫が、ふわりと飛び乗っていた。
「ええ」
ひかりは、自分のてのひらを見ながら、ちいさく答えた。
「ふしぎなくらい、自然だった。――こわくなかったの、わたし」
「あなたの力だもの」
猫は、しずかに笑うようにしっぽを揺らした。
「こわいなんて、思わなくていいのよ」
ひかりは、窓のむこうを見た。
電線のうえに、雀が一羽、止まっていた。
「あの子のこと、わたし、顔も名前も知らないね」
「うん。そういう子は、呼べないの」
「名前、つけていい?」
猫は、すこし考えるような間を置いて、それから、ふっと笑うように目を細めた。
「いいんじゃない、あなたのつけたい名前で。――覚えるのは、これからゆっくりね」
ひかりは、雀を見つめた。
「すずちゃん」
口の中で、ちいさく呼びかけた。
雀は気づかぬまま、ふいに翼を広げて、軒先のほうへ飛び立っていった。
***
ひかりは、しばらく電線の雀のいなくなったあたりを見つめていた。
「ひかりちゃん」
猫が、しずかに声を置いた。
「うん?」
「あなたがちゃんと顔と名前を覚えている子なら、いつでもね、呼べるの。――だから、ふだんから、色々な人や、モノ、身の回りのものを、ちゃんと見てあげてね」
「ふだんから……」
「うん。話しているときの、目の動きとか。笑ったときの、頬のあたりとか。歩いているときの、足の運び方とか。――そういうの、ちゃんと覚えていてあげてね」
ひかりは、ちいさく頷いた。
そして、ふと、教室の朝比奈くんを思い浮かべた。
線の細い手足。ちぐはぐな、まるい体格。鉛筆を持つときの、力みすぎた指の節。ノートのうえに字を確かめるときの、すこし離れて、すこし近づける、あの距離の取り方。
朝比奈、蒼くん。
口の中で、彼の名前をふたつ並べた。
覚えた、と思った。
今度は、いままでとはすこしちがう手触りだった。
ふだんの「知っている」ではなくて、もうひとつ深いところにその顔と名前をしずかにしまった、という感覚だった。
それから、葉月の口からひらりと出た、佐藤くんの寝坊話を思い出した。
佐藤くん。――佐藤 翔太くん。名前は、もちろん知っていた。
けれど顔と並べて、ちゃんと自分の中の引き出しにしまったことは、まだなかった。
朝の会で、すこしだけ眠そうな目をしている、あの子の横顔。寝坊したら、そんな自分に怒っている子。――月曜の登校時、ちゃんともう一度ゆっくり見てみよう。
猫が、窓辺の手すりのうえで、ゆっくりと目を細めた。
ひかりはその視線に気づかなかった。




