chapter-03: 呼応する身体 第一節 家のなか、あなたしか見えない
ベッドのうえで、ひかりは目をゆっくり開けた。
火曜の朝の光が、カーテンの端からまっすぐにのびていた。昨日の雨はもうどこにも残っていなかった。けれど、空気のなかに土の匂いだけが、まだしんと漂っていた。
枕のすぐ横に、猫がいた。
紫紺の毛のうえを、朝の光が淡くなぞっていた。瞳は閉じている。胸のところが、ゆっくり上下していた。あの後、ふたりして眠ってしまったらしい。からだを起こすとき、毛布の縁が、ふっと猫の背中にあたった。
猫は、ぴくりと片耳だけ動かした。
「……おはよう」
ひかりは、声をできるだけ小さく出した。
猫は、片目だけすこし開けた。
「ええ、おはよう」
しずかな声だった。
夜のあの声と、同じだった。
ひかりは、しばらくその答えの余白に、自分の呼吸を合わせていた。
朝になっても、まだいる。
それはたぶん、夢ではないという、いちばんちいさな証明だった。
***
階下で、皿の音がした。
父の咳ばらいが、台所のほうからひとつ聞こえた。
ひかりはベッドからゆっくり降りた。
猫もするりと床に降りて、ひかりの足首のあたりで、ふっとしっぽを揺らした。
部屋を出る前、ひかりは廊下に立って、足元の猫を見下ろした。
家族の前にいきなり紫紺の見知らぬ猫を連れて降りていくのは、たぶんちょっとした騒ぎになる。
うーん、なんて説明しようか。
すこし、考えた。
そして、できるだけ自然な声で、口の中で言った。
「ちょっと、ここで待ってて」
ひかりは、部屋の扉を、しずかに引いた。
扉のこちら側に、猫を残したつもりだった。
階段は、家のなかでいちばん古い音がする場所だった。
木の段板が、二段目と五段目でほんのわずかにきしむ。ひかりはそのきしみを、足のうらでひとつずつ数えながら降りた。
***
リビングは、いつもの匂いがした。
味噌汁。焦げる寸前のトースト。卵焼きの油の匂い。コーヒー。
父は新聞を膝のうえで畳んでいた。母は、卵焼きを長方形の皿にいつもより少しだけ斜めに並べていた。美咲は、トーストの角をもうすでに一口齧っていた。結は、ヨーグルトのスプーンを軽くまわしながら、テレビをちらりと見た。
静江――祖母は、縁側に近い席で、味噌汁の湯気のむこうをしずかに見ていた。
「おはよう」
ひかりは、自分の席につく。
「ひかり、おはよう」
母が、皿をテーブルに置きながら振り向いた。
そのとき、視界の隅で、ふっと、紫紺の影が動いた。
リビングの入口から、ぺた、ぺた、としずかに猫が歩いてきた。
扉を、開けてあげた覚えは、なかった。
――あ。
ひかりは、声を出さずに口の中だけで思った。
猫は、まっすぐにひかりの椅子の脇まで歩いてきてぺたんと座った。
尾だけが、ひかりのふくらはぎの横で、ゆっくり揺れていた。
ひかりは思わず足元に視線を釘づけにした。
「どうしたの、ひかり?」
母が、こちらを見て、笑い含みに聞いた。
「え……」
ひかりは、口の中で声をいちど詰まらせた。
頭のなかで、なんと答えようかと、ぐるりと考えた。
けれど、それより先に、テーブルのほうの様子のほうが、おかしかった。
母は、ひかりの足元のほうに、いちども視線を落とさなかった。
父も、新聞のページをめくる手を、止めなかった。
姉ふたりも祖母も、誰ひとり猫の通った道を目で追った気配がなかった。
ひかりの椅子のすぐ横に、紫紺の毛の塊が、はっきりとそこに座っているのに、誰ひとり、振り向かなかった。
***
「ううん、なんでもない」
ひかりは、なんとか、声をひとつ作った。
「そう?」
母は、ふふ、と笑って、卵焼きの皿を、テーブルの真ん中のほうへ滑らせた。
食卓の音は、いつもどおりに戻っていった。
ひかりは、椀をゆっくり持ち上げて、味噌汁をひとくち口に運んだ。
湯気がまつげのあたりまで、ふわっとのぼってきた。
味は、いつもの味だった。
そして、足元のあたりで、ちいさな声がした。
「大丈夫よ、ひかりちゃん」
しずかな、夜と同じ声だった。
「わたしは、あなた以外には見えないの。――だから、安心して」
ひかりは、椀の縁に口をつけたまま、ほんの一拍、息を止めた。
それから、湯気のむこうでもう一度、家族をぐるりと見渡した。
誰も、何も、聞こえていなかった。
父も、母も、姉ふたりも、祖母も、いつもどおりいつもの朝の音のなかにいた。
ひかりは、椀をしずかにテーブルに戻した。
口の中で、その答えをひとつ、ゆっくり飲み込んだ。
見えていない、というよりも、はじめからそこに存在しないものとして扱われている。
それはたぶん、いちばん安心だった。
ひかりは、味噌汁の椀をもう一度持ち上げかけて、ふと母のほうへ顔を向けた。
「ねえ、お母さん」
「ん?」
母は、卵焼きの最後の一切れを菜箸でつまみあげる手を、ほんの一拍止めた。
「もし、猫がいたらね、うちで飼っていい?」
「ええっ、急にどうしたの」
母は、つまんだ卵焼きを自分の皿のうえにゆっくり置いた。
「うちはね、おじいちゃんがアレルギー持ちだったから、あんまり考えたことなかったわねえ」
祖母が、味噌汁の湯気のむこうで、ほんのわずかに、顔を上げた気配があった。
父も、新聞をめくる手を、止めた。
姉ふたりは、何も気づかなかった。
「……ううん、なんとなく」
ひかりは、口の中で、それだけ言った。
口に出してしまった「もし」の一語が、なぜかいつもよりすこし長く、舌の上に残った。
足元の紫紺はふっと目を細めて、ふくらはぎの横でもう一度、しっぽをゆっくり揺らした。
***
「いってきます」
父が、玄関で靴を履きながら振り向いた。
ひかりは廊下から、ぱたぱたと駆け寄った。
「いってらっしゃい、お父さん」
「うん。今日も気をつけてな」
父は、ひかりの頭にいつもの手を一度だけのせて、それからドアを開けた。
朝の光が、玄関いっぱいに流れこんだ。
父の背中が、その光のなかにいったん吸われて、外へ出ていった。
ドアが閉まったあと、ひかりの足元に、猫がするりとすべりこんできた。
紫紺の影が、ひかりの靴の横に、ひっそりと座った。
ひかりはしゃがんで、その背中にてのひらを軽くのせた。
***
通学路は、雨上がりの匂いのまま、まだすこし湿っていた。
アスファルトのところどころに、斑に黒い染みが残っていた。
葉月の家のチャイムを、ひかりはいつものリズムで鳴らした。
ピン、ポン。
玄関のドアが、ぱっと勢いよく開く。
「おはよー!」
葉月だった。
ショートボブの毛先が、ぴょこぴょこ跳ねていた。靴下の片方の縁に、薄いオレンジのリボンが編みこまれていた。今日はそこに色が入っているらしかった。
「おはよう、葉月ちゃん」
ひかりは、ランドセルの肩ベルトの下から、四つ折りの白いハンカチを取り出して、葉月のほうへ差し出した。
「ゆうべは、ありがとう」
「あ、それ。あたし、もう忘れてた。返してくれるんだ、ひかりちゃん、まめだねえ」
葉月は、口を半分ふくらませるように笑って、ハンカチを受け取った。
ぽん、と自分のスカートのポケットに収めた。
ふたりは、いつもの並びで歩きはじめる。
猫は、二人の後ろを、ぺた、ぺた、とついてきた。
葉月は気づかなかった。
「ねえねえ、ひかりちゃん、聞いてよ。あたしね、昨日の夜、お母さんとテレビ観てたんだけど。ほら、たまにやってる、街角でだれかの願い事を叶えるみたいなやつ」
「ああ、それね」
「あれね、なんかね、すっごい泣けるのがあって。あたし、ほんとうに半分くらい泣きそうだったんだから。──で、お母さんがね、横でぼろぼろ泣いてるの。あたしより、お母さんが」
葉月は、ふふっと笑った。
ひかりもつられて、すこしだけ笑った。
「葉月ちゃんのお母さん、よく泣くね」
「そうなの。うちのお母さん、ちょっと感動するとすぐ泣くんだもん」
いつもと同じ調子で、たわいもない会話をしているとき、ふと、葉月がたずねた。
「ねえ、ひかりちゃん」
葉月が、ふと顔を覗き込んできた。
「なに?」
「なんかね、今日、ちょっとちがう」
「そう?」
「うん。なんかね、機嫌よさそう」
「へえ、そうかな」
「うん。なんか、いいことあった?」
ひかりは、すこしだけ首を傾けた。
猫が、二人の後ろで、ぺた、ぺた、とついてきている。
――機嫌、いいのか。
誰のために、いいのだろう。
そう、内側で思った。
答えは出さなかった。
葉月の隣で歩いているときの自分の顔と、家のなかで母に向ける顔のあいだに、いま、たしかにすこしだけずれがあった。
そのずれを、彼女はまだ名前にしなかった。
「うーん、どうだろう」
「えー、教えてくれないんだー」
「ふふ。葉月ちゃん、そういうのすぐ気づくね」
「だって、ひかりちゃんのこと、いちばん見てるんだもん、あたし」
ひかりはふっと笑った。
葉月の言葉はいつだってまっすぐ、ひかりの真ん中のあたりにぽとんと落ちた。
***
「あ、そうだ。聞いてよ、ひかりちゃん」
葉月が、突然思い出したように声をあげた。
「なに?」
「佐藤くんね、また今日も遅刻するかもしれないんだって」
「えっ、どうして知ってるの」
「お母さんがね、朝、回覧板を佐藤くんちに持っていったの。そしたら佐藤くんがね、パジャマのまま、玄関に出てきて受け取ってくれたって」
「ふふ。それ、佐藤くんっぽい」
「ほんとに、佐藤くんっぽい」
葉月は、けらけらと笑った。
ひかりも笑った。
ふたりの笑い声のうしろを、紫紺の影が、ふっとついてきていた。
***
学校に着く頃には、空はすっかり晴れていた。
校門の桜は、もう葉のほうが多くなっていた。一枚だけ、ひかりの肩のあたりに、はらりと落ちた。
猫は、校門のすこし手前で足を止めた。
「学校までは、来ないの?」
ひかりは、口の中だけで聞いた。
猫はこちらを見上げて、ゆっくりと目を細めた。それから、
「行くわよ。――でも、教室の隅にいるわ」
しずかにそう答えた。
「ええ。葉月ちゃんに踏まれないようにね」
「ふふ。気をつけるわ」
葉月はもう、校門の中まで走っていた。
ひかりはその背中を追いかけながら、肩のあたりで、桜の葉のかすかな重さを感じていた。
***
教室の、ひかりの机。窓側から二列目の、前から三番目。
猫はすぐに、ひかりの机の下にするりと入りこんだ。
ひかりがランドセルを背中から降ろすあいだ、紫紺の毛の塊は、机の脚と脚のあいだの暗がりに、ぴったり収まっていた。
朝の会のあいだ、ひかりはふだんよりずっと姿勢よく座っていた。
先生の声が、教壇のうえからまっすぐ降ってきた。
連絡事項、配布物、明日の予定。それらがひかりの耳のなかを、いつもどおりするりと抜けていった。
机の下で、紫紺の影がゆっくり目を細めた。
***
一時間目は、国語だった。
教科書の挿絵は、見覚えのある、お婆さんと孫の絵だった。
ひかりは教科書を立てたまま、ふいに、隣の席のクラスメイトの横顔を見た。
朝比奈くんだった。
線の細い手足とは、すこしちぐはぐな、まるい体格。背筋をふだんよりわずかに伸ばして、ノートにていねいに字を書いていた。鉛筆を持つ指の節が、力みすぎて白くなっていた。
朝比奈くんは、ひかりの視線にはまったく気づいていなかった。
ノートのうえの自分の文字を、すこし離して、すこし近づけて、確かめていた。
ひかりは視線を、教科書に戻した。
猫が机の下で、ふっとしっぽを揺らした気がした。
***
二時間目のあとの、休み時間だった。
朝比奈くんはノートを閉じようとして、その動きで机の縁のあたりに置いてあった消しゴムを、わずかに肘で押した。
消しゴムは机の縁から、ころんと一度だけまわって床に落ちた。
「あ……」
朝比奈くんが、小さく声を漏らした。
丸い体を屈めるのは、彼にとってはいつもすこしめんどうな動作のはずだった。
ひかりは自分の椅子からすこしだけ身を屈めて、その消しゴムを拾った。
「はい。落としたよ」
ひかりはふっと笑って、それを差し出した。
「あ、ありがとうございます、ひかりちゃん」
朝比奈くんは、ほっとしたような顔で、消しゴムを受け取った。ふだんから少し敬体寄りの、ゆっくりした話し方をする子だった。
ひかりは何も言わなかった。
ただ、にっこりと笑い返した。
それで十分だった。
朝比奈くんは消しゴムを、机のうえのいちばん真ん中の、いちばん安全な位置に丁寧に置きなおした。それから、自分のノートのほうへ視線を戻していった。
ひかりは椅子のうえで、姿勢をもとに戻した。
机の下をちらりと見た。
猫が、目をゆっくり細めて、また閉じた。
ひかりは、教科書のページをもう一段めくった。
ふだんどおりの休み時間だった。
***
そんなふうにして、火曜が過ぎていった。
水曜、木曜と、ひかりのまわりの時間は、いつもと同じ速さで淡々と流れた。
猫はずっと、ひかりのそばにいた。
教室の机の下。家の食卓の脚もと。お風呂のドアの外。布団の枕元。
家のなかでは相変わらず、誰の目にも映らなかった。
ひかりにとって、それはもう、すこしもふしぎなことではなくなっていた。
***
金曜の夜、十時をすこしまわっていた。
雨はもう上がっていた。
窓のむこうで、街灯のあかりがゆっくりと湿った地面ににじんでいた。
ときおり、屋根を打って葉が一枚、ぱさり、と落ちる音だけがする。
ひかりは自室の机のうえに、宿題のノートをひろげていた。
シャーペンの音が、紙のうえで規則的に鳴っていた。
ベッドのうえで、猫はふだんどおり丸くなっていた。
ふだんどおりの夜だった。
「……ねえ、ひかりちゃん」
猫が、口を開いた。
ひかりはシャーペンの先を、ノートのうえでふっと止めた。
椅子のうえでゆっくりと、上半身を振り向けた。
猫の声は、いつもより、ほんの少しだけ低かった。
低いというよりも、何かをこちらに置きにくる音だった。
「なに? どうしたの?」
ベッドの白いシーツのうえで、紫紺の毛の塊が、しずかにしっぽを揺らしていた。
「あなたに、ちょっと試してみてほしいことがあるの」




