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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 雨宮ひかり編

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chapter-02: 雨と足音 第三節 ほしのうら

お風呂をあがって自分の部屋に戻ったのは、もう夜の九時を回ったころだった。


雨はまだ降っていた。

窓のガラスにたくさんの線がついて、すべっては落ちていた。

家のなかの灯りが、その水のうえにゆらゆらとにじんでいた。


ひかりは部屋の灯りを消し、布団に入った。


雨音はやさしくなりはじめていた。

家のなかの音――父の帰ってきた気配、姉たちのお風呂の順番、祖母の咳ばらい、母のためいき――それらがだんだんと遠くなっていった。


てのひらの皮膚の奥で、まだほんのわずか、何かが残っていた。

それを確かめるように、ひかりは布団のなかで一度、ゆっくり握って、開いた。


それから、目を閉じた。


***


――宇宙に浮いていた。


足の下には何もなかった。


ただ深い、深い闇があった。

その闇のなかに光の粒がたくさん散らばっていた。

星だった。


ひかりは息ができた。

寒くはなかった。

ふしぎだった。


下のほうで――下というのがどこなのかよく分からなかったけれど――地球が青く白く回っていた。

雲が地球のうえをゆっくりと移ろっていた。

日本のあるあたりが見えた。雨の雲のしたで、ふんわりと白く街の灯りがにじんでいた。


地球がだんだん遠くなっていった。


ひかりは何もしていなかった。

ただ漂っていた。

それなのに地球のほうが彼女からゆっくりと離れていった。


***


うしろから、声がした。


それは声というより、何かの「気配」だった。

彼女の背中のうしろの空間そのものが、すこしだけふくらんだような気がした。


ひかりは振り向いた。


そこには何かがいた。


具体的な形は見えなかった。

人の形でも獣の形でもなかった。

光のかたまりのようでもあり、影のかたまりのようでもあった。

うつくしいとも、こわいとも言えなかった。

ただそこに、何かがいた。


それを見ているうちに、ひかりのなかのいちばん深いところに、何かがしずかに触れた。

聞き覚えのないはずの、けれどどこかでずっと前に聞いた気がする手つきだった。


ひかりは口を開いた。


「……誰?」


問いは小さく、夢のなかに響いた。


その「何か」は答えた。


――名前だった。


声でもあり、声ではないものでもあった。

言葉の輪郭ははっきりとあった。

けれどひかりがそれを言葉にしようとすると、夢のなかでも、ふともう輪郭がほどけていた。


ただ、ひかりは確かに聞いた。

そう思った。


忘れてはいけない、と思った。


***


ふと目が覚めた。


部屋のなかは暗かった。

雨はもう止んでいるらしい、窓の外から聞こえる音が、ずっと少なくなっていた。


ひかりはしばらく、天井を見ていた。

胸の奥が、ぼう、と熱かった。

たったいま、何か大事なものを見ていたような気がしていた。


何だったか、思い出そうとした。


――宇宙にいた気がする。

――誰かに呼ばれた気がする。

――……


それきりだった。

名前を聞いたはずだった。忘れてはいけないと思ったはずだった。

けれど、その「名前」は、もうどこにもなかった。

聞いた、という感触の影だけが、ぼんやりと、胸の奥に残っていた。


ひかりは枕元の時計を、首だけ動かして、見た。

液晶の数字は、四時三分を表示していた。


朝には、まだ早い。


ひかりはもう一度、目を閉じようとした。

けれど、目を閉じる前に、視線の端に何かが入った。


窓のほうだった。


カーテンを引いていなかった。

雨は止み、夜の終わりかけの空気が、ベランダのうえに静かに広がっていた。街灯のあかりが、雨に洗われた手すりに、うっすらと差している。


その手すりに、


――あの猫が座っていた。


***


ひかりの心臓が、ひとつしずかに鳴った。


濃い紫紺の毛。

影に溶けるその色のなかで、ひと組の褐色だけが、はっきりとひかりを見ていた。


怖い、と思った。

真夜中の、誰も起きていない時間に、自分の部屋のすぐ外に、人の言葉を話した猫がいる。


ひかりは布団のなかで、しばらく動けなかった。

心臓の音が耳の奥にあった。

浅い呼吸が、自分の喉のあたりで、何度か往復した。


――けれど。


その怖さの下のほうで、もうひとつ別の小さな声が、しずかに形をとった。


「……もったいない」


口の中で、その言葉が勝手に転がった。

何が、と問わなかった。問おうとも思わなかった。

ただ、確かにそう思った。


ここで窓を開けなければ、あの猫はまたいなくなる。

ここで手を伸ばさなければ、何かが二度と戻ってこない。

それが何なのかは、自分でもまだよく分からなかった。

けれど、分からないままにしておくこと自体が、彼女には耐えがたかった。


ひかりは布団のなかで、ゆっくりと上半身を起こした。

怖さは、まだ胸のなかにあった。

けれど、それよりも先に、足がもう動きはじめていた。


***


フローリングは冷たかった。

裸足のままで、窓辺に立った。


ガラスのむこうで、猫は動かなかった。

ただ、こちらを見ていた。


ひかりは、クレセントに手をかけた。

カチン、と小さな金属の音がした。


窓を横に滑らせた。


雨上がりの冷たい空気が、ふわりと部屋に入ってきた。

土と、コンクリートと、洗われた葉の匂いがした。

夜の終わりかけの匂いだった。


猫は手すりからゆっくり腰をあげ、ベランダの床に降りた。

それから、ぺた、ぺたと、濡れた肉球の音をたてて、窓の縁を越え、フローリングのうえに足を下ろした。


ひかりは息をひとつ吐いた。


***


ベッドの脇に畳んであったタオルを手探りで取って、しゃがんだ。


「拭いてあげるね」


猫はじっとしていた。

ひかりはタオルでゆっくりと毛を撫でた。紫紺の毛は思ったよりも細くて、しっとりしていた。タオルはすぐに雨を吸って重くなっていった。


ひかりはもう一度、新しい面を出して撫でた。

猫の体は、思っていたよりもずっと小さかった。


「ねえ……」


声はちいさかった。


「あなた、誰?」


猫は、すぐには答えなかった。

タオルの動きに合わせて、わずかに目を細めた。

それから、


「……まだ、教えられない」


と、言った。


やはり、若い女のひとの声だった。

明るいというより、しずかで、すこし疲れて、けれどあたたかい声だった。


「どうして」


ひかりは聞いた。

責めるような響きはなかった。

ただ、知りたかった。


「いずれ、その時が来たら」


猫はそれだけ言った。


***


ひかりはしばらく、その答えの余白を測った。


普通なら、もっと食い下がるべきところだった。

名前くらい、聞き出すのが当然の順序だった。

けれど――彼女は頷いた。


「ええ、わかった」


短かった。

受け入れる早さに、自分でもおかしいくらいだと思った。

けれど、嫌だとは思わなかった。

むしろ、答えの「その時」のなかに、これから先の時間が確かに含まれていた。


この子をもっと近くに置いておきたい。

そう、はっきりと思った。

それはたぶん、彼女のなかではひとつの決定だった。


ひかりはタオルを横に置いた。

両手で、猫をそっと持ち上げた。

ベッドのうえに、自分も座った。

膝のうえに、猫をおろした。


「これから、わたしのそばにいてくれる?」


猫はゆっくりとまばたきをした。

それから、


「ええ、あなたが良ければ」


と、言った。


短い、決定だった。

互いに、それ以上は言わなかった。


***


空がすこしずつ白んできていた。


窓の外で、どこかの鳥がはやい時間の声でひとつ鳴いた。

雨上がりの空気のなかに、土の匂いがまだ残っていた。


猫は、ひかりの膝のうえで、ゆっくりと目を細めていた。

あたたかかった。


ひかりも目を閉じた。

何かがはじまった。

けれど、何がはじまったのかは、まだ言葉にならない。

その手触りを抱いたまま、彼女はもう一度、まどろみの底へゆっくり沈んでいった。


火曜の朝が、しずかに明けはじめていた。

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