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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 雨宮ひかり編

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chapter-02: 雨と足音 第二節 夜道に、ひとり

街灯がぽつぽつと点きはじめていた。


夕暮れというには、もう随分と暗い。

けれど夜というには、まだ空のどこかに藍色の名残があった。

ちょうど境目のような時間だった。


住宅街の細い通りは、両側に低い塀が続いていて、そのうえから誰かの家の生垣が雨に重そうに垂れている。アスファルトには街灯のあかりがゆらりと映っていた。雨粒が落ちるたびに、その光が小さく揺れた。


ひかりは傘を差してゆっくり歩いた。

傘のなかは世界が小さくなる。

雨粒が布を叩く音、軒先からたれた水が落ちる音、葉のうえで弾けたしずくが地面に届く音。

それから、彼女自身の足音。


雨足は家を出たときよりも少し強くなっていた。

傘のなかの音が、だんだんと密になっていく。

彼女の靴のつま先に、小さくはねた水滴が、ひとつふたつついた。


***


足音が聞こえたのは、二つ目の角を曲がってすぐだった。


うしろから。

雨音にまぎれそうな小さな足音だった。

けれど確かに、誰かが歩いている音だった。


ひかりは振り向いた。


路地には誰もいなかった。

雨に濡れた塀と街灯のあかりだけがまっすぐ伸びていた。


ひかりは眉をひそめた。

そして、また前を向いて歩き出した。


しばらく雨音だけがあった。

傘の布のうえで雨粒が転がっては落ちた。


――ぱた、ぱた。


また足音が聞こえた。

さっきよりも、ほんの少しだけ近かった。


ひかりは振り向きかけて、やめた。

首だけをほんのわずかに捻る。

横目で背後の路地を確かめる。

誰もいなかった。


頬の温度が、すこし下がっていた。

胸の内側で、心臓が一拍だけ低く打った。


ひかりは前を向きなおして、歩く速度をほんの少しだけ上げた。


雨音のなかで、足音はまた聞こえた。

近づいてくる。

ひかりの歩幅と、合っていない。

彼女より、もうすこし軽い足だった。


ひかりは立ち止まり、息を整えて、振り向いた。


――そこには、猫が座っていた。


***


ひかりは、すっと肩から力が抜けるのを感じた。


雨に濡れた毛。

濃い色だった。

最初、ひかりはそれを黒だと思った。

けれど街灯のあかりが当たる角度によって、その毛の表面がわずかに紫の色を含んでいた。深い、影に溶けるような紫紺の色。


ロシアンブルーよりも、ずっと深い。

夜に近い色だった。


猫はちょこんと雨の中に座っていた。

細い体だった。尻尾の先がほんの少し濡れて垂れていた。

そして、瞳。


その瞳の色だけが闇のなかではっきりと見えた。

ひかりの瞳と同じ、濃くしっとりとした褐色。


猫は鳴かなかった。

ただひかりを見ていた。


ひかりはしばらく、その視線を受けた。


「……」


雨が傘を叩いた。

猫の毛のうえにも雨粒が落ちた。

猫はまばたきもせず、じっとしていた。


ひかりはためらった。

それからつい、しゃがんだ。


膝が地面につきそうなくらいまで低くなって、傘の柄を傾けた。

雨が傘の縁を伝って、ひかりの肩のあたりに跳ね返って当たりはじめた。

冷たかった。


「濡れちゃうよ」


声は、自分でも驚くくらい、ちいさかった。

猫のうえに傘の布が広がるように、もう一度、柄を傾けた。

雨粒がひかりの髪の先に、ぽつ、と落ちた。


そのとき、


「ありがとう」


――と、猫は言った。


***


鳴き声ではなかった。

若い女のひとの声だった。

傘のなかに溶けるくらいやさしく、けれどはっきりとしたその一言だけが、明確に人の言葉だった。


ひかりは息をのんだ。

傘の柄を握る指が固まった。

膝の力が抜けた。


身体は勝手に後ろに倒れた。

反射的に、後ろに手を突いた。


てのひらがアスファルトについた。


冷たかった。

冷たくて、ざらざらしていて、雨で湿っていた。

小さな砂粒がてのひらの皮膚に、ひとつひとつ押し当てられた感触があった。

水滴のひとつが、人差し指の付け根のしわにたまった。


ひかりはその感触を、確かに感じた。

ここは現実だった。

雨も、アスファルトも、傘の柄の重さも、ぜんぶ現実だった。


雨足がふっと一段強まった。

傘の縁を打つ音と、アスファルトを叩く音とが急に厚くなって、ひかりの息のうえに重なってきた。冷たい水が、左の頬のうえをつうと一筋伝った。

猫の声の余韻が、その雨音の奥にだけ、まだしずかに残っていた。


***


車の音が、向こうから近づいてきた。

雨に濡れたアスファルトのうえを、タイヤがすべる音。それから低く唸るエンジンの音。


ヘッドライトの光が、路地の奥から伸びてきた。


ひかりはようやくひとつ息を吐いた。

脚に力を入れて立ち上がった。

紙袋と傘を抱きとめなおして、塀の側へふらりと一歩避けた。


車は水しぶきをあげて、すぐ近くを過ぎていった。

ぱしゃ、と傘の縁が水を受けた。タイヤの跡がアスファルトに、しばらく濡れた線を残した。


車が行ってしまった。

雨の音だけが戻ってきた。


ひかりはゆっくり、首をもとのほうへ向けた。


猫がいたはずの場所には、誰もいなかった。


ただ雨に濡れたアスファルトが、街灯のあかりを静かに映していた。


***


ひかりはしばらく、そこに立っていた。


てのひらに、まだアスファルトの感触が残っていた。

冷たさと、ざらつき、水滴の重み。

それから、耳の奥の「ありがとう」という、やさしい女のひとの声。


口を開きかけて、やめた。

何かを言おうとした自分の喉が、すこしたじろいでいた。


何も言わずに、ひかりは傘の柄を握り直して歩き出した。


家までの道のりは、いつもよりもずっと長く感じた。


***


「ただいま」


玄関で傘を畳む音は、家のなかにすっと吸い込まれていった。

廊下の奥から、母の声が返ってきた。


「おかえり」


短く、穏やかに。

それだけだった。


ひかりは靴を脱ぎ、つま先を揃えて、上がった。


「あのね、お母さん」


リビングに顔を出して、ひかりは紙袋をテーブルのうえにそっと置いた。


「葉月ちゃんちで、遊んでたの。クッキー、いただいてきた」

「うん、知ってるよ」


母は台所のほうから笑顔を向けた。


「さっきね、葉月ちゃんのお母さんから LINE があってね。雨だしお茶でも、って」

「あ……うん、そうだったの」


ひかりは紙袋のとってを、指先でもう一度整えた。

自分が話す前に、すでに知られていたこと。

何かを言い繕う必要はなかったということだった。

胸の奥で、強張っていたものが、すこしだけほどけるのが分かった。雨道の出来事を口にしないでよい理由が、ひとつ増えたから。


「お父さん、今日また遅いんだって」

母は台所の換気扇のスイッチを入れた。

「先に食べちゃおうって。ご飯もうちょっとだから、手洗ってきな」

「うん」


ひかりは洗面所へ行って、手を洗った。

冷たい水がてのひらの皮膚を撫でていった。

さっきまでそこにあったアスファルトのざらつきが、すこしずつ流れていった。

けれど、完全には消えなかった。


***


夕食は、いつもの食卓だった。


煮物の鉢、焼き魚、ほうれん草のおひたし。

姉ふたりがそれぞれの今日を母に喋った。美咲は試験の予定の話を冷静に。結は学校のだれそれが告白されたかもしれないという話を熱心に。母が「ふうん」と笑った。祖母はゆっくりと味噌汁をすすった。


ひかりは自分の箸をふだんどおりに動かした。

何でもない顔だった。

猫のことは話さなかった。


なぜ話さなかったのか、自分でもはっきりとは分からなかった。

ただ、口に出すと何かがこぼれてしまうような気がした。

今はまだ、しまっておきたい何か。

彼女のなかのずっと深いところに、それはしずかにしまわれた。


***


お風呂のお湯はいつもよりも熱く感じた。

ひかりは湯船の縁に頭を預けて、ゆっくりとてのひらを湯のなかに広げた。


指のあいだにお湯が通った。

あたたかかった。


――ここに、アスファルトの感触がまだある。


そう思った。

お湯にひたっているはずなのに、てのひらの皮膚の奥のほうにまだ、あのざらつきがしずかに残っていた。水滴の重さも、ひとつ。


ひかりはもう一度、てのひらをゆっくりと握って、開いた。


湯気のなかで、彼女のまつ毛がわずかに揺れた。

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