chapter-02: 雨と足音 第一節 うすあかり
あの日――世界の法則がほんのわずかに書き換わった日――から、七年が過ぎた。
世界は、何も変わっていないように見えた。
月曜の朝の空は、ねむたい色をしていた。
雨はまだ降っていない。けれど、どんよりとした気配だけが、街全体に薄く膜を張っている。台所の窓のカーテンが、ほんの少しだけ青みを帯びていた。
天宮家の食卓には、いつもの匂いがあった。
味噌汁、焦げる寸前のトースト、卵焼きの油の匂い、コーヒー。父が新聞をきれいに畳んで珈琲のカップに口をつけた。母は卵焼きを最後の一切れまで焼いて、長方形の皿のうえに並べた。長姉の美咲は、トーストの角をいつものように先に齧った。次姉の結はヨーグルトのスプーンを掻き混ぜながら、リビングの時計をちらりと見た。
祖母は縁側に近い席で、味噌汁の湯気を見ていた。
ひかりは自分の席で、トーストを四角く切っていた。
リビングの隅でテレビが朝の番組を流していた。
誰もきちんと観てはいない。けれど家のなかには、その音がいつもあった。
ふと、祖母が顔をあげた。
テレビの画面のほうへ、ほんのわずかに視線を向けた。
「ああ……」
声は独り言のように低かった。
「……お父さん、こういうの好きだったわねえ」
湯気の上がる速さも、卵焼きの皿のうえの光も、いつものままだった。けれど何かが、空気のあいだに小さくふくらんで、それからしずかにしぼんだ。
「ねえお母さん」
明るい声が、それを上書きした。
結だった。スプーンを口に運ぶ手をそのままに、
「わたしの弁当、卵焼き入れた?」
母が笑った。
「入れたわよ。たくさんね」
「やったあ」
結が笑った。
祖母はもう何も言わなかった。湯気のほうへ、また視線を戻した。
ひかりは、トーストを齧る手をほんの一拍止めた。
それからまた齧った。何でもない顔で。
誰も気づかなかった。
***
「いってきます」
父が立った。
母が玄関へ向かう父の背中に「いってらっしゃい」と返した。ひかりも椅子からおりて、玄関までついていった。
父が革靴に足を通す音。
ベルトの金具が小さく鳴る音。
「いってらっしゃい、お父さん」
父が振り返って笑った。皺の寄ったやさしい笑い方だった。
「いってきます。ひかり、降りそうだからな、傘忘れるなよ」
「うん」
父の足音が玄関のたたきを離れ、門のほうへ遠ざかっていった。
雨はまだ降っていなかった。
***
通学路の空は、灰色のフェルトを上から被せたように平らに曇っていた。
岸本家のチャイムを鳴らすと、玄関のなかで足音が弾んだ。
扉が開いた瞬間、葉月がもう笑っていた。
「ひかりちゃん、おはよ!」
「おはよう、葉月ちゃん」
葉月はランドセルの肩ベルトを軽く引き直して、玄関を出た。
「いってきまーす」という葉月の声に、家のなかから葉月の母の声が「いってらっしゃい」と返ってきた。
ふたりは並んで歩き出した。
「今日さあ、なんか空、変じゃない?」
「……ええ。降りそうね」
「ねえ、降ると思う?」
しばらく歩いて、二つ目の角を曲がったあたりだった。
葉月が「あっ」と小さく声をあげた。
「あたし、傘、忘れてきたかも」
葉月は足を止めかけて、それから空を見上げた。
雨はまだ降っていなかった。
「……まあ、いっか。今降ってないし」
「ええ。お昼までは、たぶん降らないと思う」
ひかりは、葉月の足元にも目をやっていた。
左の靴のひもの結び目が、ほんのわずかにほどけかけている。歩いているうちに、たぶんあと三十歩か四十歩で、ひもがほどけて葉月のほうがそれに気づく。葉月は足を止めてしゃがみ、結びなおして、その流れでまた何かを話しはじめる。
ひかりは何も考えていない顔のまま、ふと足を止めた。
「葉月ちゃん、靴ひも」
葉月が立ち止まって、自分の足元を見おろした。
「あ、ほんとだ」
葉月がしゃがんで、ひもを結びなおした。
ひかりは黙って、その横に立っていた。
「ありがと! あたし全然気づいてなかった」
「ええ」
短く頷いて、ひかりは前を向いた。
葉月のおしゃべりはもう次の話題に移っている。テレビの何かのアニメ、給食の献立、昨日弟に言われた変なこと。
ひかりは相づちを打った。「そう」「へえ、そうなんだ」「ふふ」と、葉月のリズムに合わせて過不足なく。
灰色の空の下で、ふたり分の足音が並んで進んでいた。
***
教室は、いつもの月曜の匂いがした。
雨の予感を吸ったコンクリートの匂い。床のワックスの匂い。誰かが食べてきた朝のパンの匂い。
朝の会、一限の算数、二限の国語。授業はいつもどおりに進んだ。
ひかりはノートをきれいに取った。手を挙げる回数はいつも通り、多すぎず少なすぎず。先生に当てられたときは、考えてからちゃんと答えた。
休み時間に、後ろの席の女の子が消しゴムを落とした。
小さな緑色の消しゴムが机のあいだを転がっていって、ひかりの足元のあたりで止まった。
ひかりはしゃがんでそれを拾った。
「はい。落としたよ」
「あ、ありがとう、ひかりちゃん」
女の子ははにかんだ。最近、その子は葉月とすこしぎくしゃくしている。葉月のほうが少しきつい言い方をしてしまって、その引きずりが残っている。
ひかりは消しゴムを渡しながら、ちいさく付け足した。
「あのね、葉月ちゃん、本当は悪く思ってないと思うよ」
「……そう?」
「ええ。今度わたしからなんとなく、また話せるようにしてみるから」
「……ありがとう」
女の子の頬がふわりと緩んだ。
ひかりはそれを見届けてから、自分の席に戻った。
葉月のところに戻ってから、すぐに話を持ち出した。
「葉月ちゃん、さっきのね、たぶん向こうも気にしてる」
「えっ、そう? あたしも、ちょっとなんかさあ……」
「ええ。だから給食のときにでも、いっしょに食べようって誘ったら、たぶんすぐ普通になる」
「うん。そうする」
葉月がぱっと顔を明るくした。
ひかりは笑った。
やさしい笑い方だった。
給食の時間、ふたつの席が自然に近づいて、葉月と後ろの席の女の子が肩を寄せて笑いはじめた。
それを横目に見ながら、ひかりは自分の盛りつけられたコッペパンを、いつもの大きさに千切った。
――よかった、と思った。
ぜんぶ、もとどおりだった。
***
終わりの会のころには、窓のそとの空がいっそう重くなっていた。
雲が低い。けれどまだ雨粒は降ってきていない。
葉月が机を寄せながら、ひかりに身体を傾けた。
「ねえ、ひかりちゃん」
「ええ」
「うちに、寄って行かない?」
「えっ」
「お母さんがね、今朝、クッキー焼くって言ってた。ひかりちゃんが来るときは多めに焼くんだって」
「……ふふ」
ひかりは口元をゆるめた。
「ええ。じゃあ、ちょっとだけね」
「やった!」
葉月は両手を小さく握ってみせた。
かばんに教科書を詰める動作が、ふだんよりもひとつ速い。
教室を出るとき、廊下の窓から見える空は、もう夕方の手前のような暗さだった。
***
岸本家の玄関は、家のなかにすこしだけ醤油の匂いが広がっていた。
「あら、ひかりちゃん、いらっしゃい」
葉月の母がエプロンのまま顔を出した。明るい人だった。
「お邪魔します」
「クッキー、もうちょっとかかるから、葉月の部屋で待っててね」
葉月の部屋は二階のいちばん奥にあった。
ピンクとオレンジが節度をもって混ざった部屋だった。机のうえに教科書とノートと、最近買ったらしいアイドルの雑誌。床に葉月のお気に入りのぬいぐるみ。
ふたりはベッドの縁に並んで座った。
「あのさ、月曜の朝の会で、佐藤くん、なんで遅刻したか聞いた?」
「ううん」
「お母さんが寝坊したんだって。佐藤くん、ちょっとだけ怒ってた。お母さんに、じゃなくて、自分にね」
「ふふ。佐藤くんっぽい」
葉月の口から学校での話がいくつもこぼれた。
誰が誰のことを好きらしいとか、誰が体育で転んで膝を擦りむいたとか、誰が黒板の前で噛んだとか。
途中で葉月が机のひきだしから携帯ゲーム機を取り出した。
「ねえ、ちょっとだけやろ」
「ええ、いいよ」
ふたりは画面を覗きこんで笑った。
葉月の声のほうがひかりよりずっと大きく弾んだ。
ひかりが葉月の動きを見ていると、何かにつまずく前に、ちょうどぎりぎりの場所で教えてあげられた。
「葉月ちゃん、そこ、右に行くと敵いるよ」
「えっ、ほんと? うわ、たすかった……ひかりちゃん、なんで分かるの」
「うーん、なんとなく」
葉月が口を尖らせた。
「ひかりちゃんはさあ、いっつもなんとなくで、ぜんぶ当てるよね」
「そんなことないよ」
ひかりは笑った。
しばらく遊んでから、葉月が「あ、宿題まだだった」と声をあげた。
ふたりで机のうえに教科書を広げた。漢字ドリル、計算ドリル。
ひかりは葉月の隣で自分のぶんをすすめながら、ときどき葉月のノートを覗いた。
葉月が止まりそうな箇所に来ると、ひかりはその少し前で、自分のドリルから顔を上げた。
「ね、これってさ、ここを先にやると、こっちが分かりやすくならない?」
「……あ、ほんとだ。ひかりちゃん、頭いいなあ」
「ううん、葉月ちゃんも、ちゃんとできてるよ」
葉月が満足げに鼻をふくらませた。
窓のそとの音が変わったのは、その途中だった。
ぽつ、ぽつと、軒先のなにかが鳴った。
それからすぐに、音は密になった。
「あー、降ってきちゃった」
葉月が顔をあげた。
「雨だ」
「ええ」
「やっぱり今朝の空、変だったでしょ?」
「ふふ。そう、変だったね」
ふたりはしばらく窓に近づいて外を見た。
雨は最初やわらかかった。けれど見ているうちに雨粒が長くなり、ガラスを伝う線の数が増えていった。
空はもうすっかり暗かった。
「ねえ、ひかりちゃん、まだいてもいいよ」
「ううん」
ひかりは首を横に振った。
「もう暗くなってきたし、雨も降ってきたから、帰るよ」
「えー、もうちょっとさあ」
「お母さんが心配するから」
葉月は口を尖らせかけて、それからあきらめたように笑った。
「うん、そうだね」
階下におりると、葉月の母がちょうどクッキーを冷ましているところだった。
「あら、もう帰っちゃうの? まだ食べてないでしょ」
「えっと、いただきますだけ……」
「持っていきなさい。葉月、紙袋」
葉月の母は手早く紙袋にクッキーを詰めて、ひかりに渡した。
「あ、ひかりちゃん、これも」
葉月が自分のスカートのポケットから、四つ折りの白いハンカチを取り出して、ひかりに差し出した。
「お家まで、髪、濡れるかも。これ、使って。返すのはいつでもいいから」
「ええ、ありがとう。明日、返すね」
ひかりはハンカチを紙袋の隣に、そっとてのひらで受け取った。
ほのかに、青い花のような葉月の家の柔軟剤の匂いがした。
「気をつけてね。傘、あるわよね?」
「はい、折りたたみ、あります」
「ちゃんとお家まで気をつけて帰るのよ」
「はい。ありがとうございました」
玄関を出ると、空はもう薄暗かった。
ひかりは紙袋を片手にぶら下げて、もう片方の手で手提げから折りたたみ傘を取り出した。
カチン、と小さく音をたてて、傘が開いた。
雨粒が傘の布を叩いた。
ぱらぱら、ぱらぱらと、まだ細い音だった。
アスファルトのうえにも、点々と濡れた跡が広がりはじめていた。
ひかりは傘の柄をしっかりと握って、住宅街の路地のほうへ歩き出した。




