chapter-01: 光の日
とある高校の一室、その日最後の授業も終盤に差し掛かっていた。
時計の針は、そろそろ午後四時に届こうとしていた。
窓は少しだけ開けてあった。
カーテンが、午後の風にゆっくりと膨らんでは、しおれた。
教師の声が、黒板の前を行ったり来たりしている。チョークの白い音、紙をめくる音、級友の鉛筆の擦れ。いつもと変わらない日常。
少女は、頬杖をついて、空を見ていた。
いちばん後ろ、窓辺の席。
九月のはじめの空はまだ夏の青を残していて、そのくせ雲のかたちだけが、もう秋のものに変わっていた。校庭の向こうの林から、ヒグラシの声が届いている。耳の奥でほどける、薄い金属のような音。
誰もそれを、特別だとは思っていなかった。
その瞬間が、いつ訪れたのか、あとから聞かれてもうまく答えられない。
たぶん、教師がふいに手を止めて黒板を見やったときだった。
あるいは、級友の誰かが、まばたきの数をひとつ余分にしたときだった。
光がひとまわりふくらんだ。
そう言うほかになかった。
晴れた日に、ふと太陽がもう一段だけ近づいたような。
室内のはずなのに、机の木目までが、いつもより一段だけ明るくなった。
誰かが、あれ、と小さく漏らした。
別の誰かが、まぶしい、と笑った。
教師は、ええと、と黒板の方を向き直り、すぐにまた話を続けた。
カーテンが揺れた。
暖かい風が、窓から教室の天井を撫でるようにして抜けていった。
夏の名残のような、けれど夏のものではない風だった。やがて来る季節のかすかな匂いを、まだ慣れない素肌で混ぜたような風。
校庭のヒグラシは、その一拍だけ、声をのんだ。
すべては、たぶん二秒もなかった。
教室はすぐに、もとの教室に戻った。
チョークの白い音、紙をめくる音、級友の鉛筆の擦れ。
誰も、それ以上のことを考えなかった。
少女だけが、空を見ていた。
頬杖の手は、もう動かなかった。
まばたきの数も、戻ってこなかった。
唇のあいだから漏れる息が、それまでよりも、ほんの少し浅かった。
何かが起きた。
そう、確かに何かが起きた。
それは、彼女の中のひどく深いところに直接触れる手つきだった。誰かが彼女の名前を、彼女自身が忘れていた声でそっと呼んだような。
視線は、窓の外の、空の、もっと向こうへと伸びていく。
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少女が見上げた空の先。
大気の青さの果てを、薄い銀色の境目を、抜けていく。
地球が、ゆっくりと、遠ざかっていく。
銀河が、回転をやめないままで、遠ざかっていく。
我々の住む地球、銀河、宇宙の、さらにその外側。
球体状の宇宙空間が、闇に無数に浮かんでいる。
それらは触れず、混じらず、ただ夢の中で並んでいる、ように見えた。
そのひとつに頬を寄せていた何かが、ある日ふと、夢の中でわずかに身を返した。
ただ、それだけのことだった。
闇の中で球体たちが、わずかに、揺れた。
あるものは別のものに少しだけ近づき、あるものはほんの少し、別のものを掠めた。
それは衝突でも、破壊でもなく、ただ、些細な変化だった。
――その日、世界の法則が変わった。
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世界の法則が変わった、同じ頃の昼下がり。
縁側に近い畳の一角に、日溜まりがあった。
小さな子が、頬をそこにあずけて眠っていた。
四つくらいの女の子だった。
唇の端に、うっすらと、よだれの跡があった。
開け放った窓のそとで、若葉が、初夏の光に透けて揺れていた。畳の縁にうっすらと落ちた緑色の影を、子どもの寝息が、ゆっくりと撫でていた。
台所のほうから、洗濯機の終わりを告げる電子音が、間延びして響いていた。廊下を、母らしき気配が、ひとつ通り過ぎていった。
日溜まりの中で、子どもの胸が、ゆっくりと上下した。
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教室の終業のチャイムが、ちょうど鳴り終わるところだった。
級友たちが、わっと机を鳴らして立ち上がった。誰かがあくびをして、誰かが鞄を肩にかけて、誰かが昨日のテレビの話をはじめた。
少女は、もう一度だけ、空を見上げた。
空はあいかわらず青かった。
雲のかたちも、変わってはいなかった。
それでも少女には、何かがたしかに違っていた。
***
翌朝。
台所には、いつもの匂いがあった。
焦げる寸前のトースト、味噌汁、コーヒー。
小さなテレビの中で、髪をきちんと束ねたキャスターが、原稿の角度をひとつ整えた。
「昨日午後、世界各地で、空がほんの一瞬明るくなったとの報告が相次ぎました。各国の気象機関は調査を進めるとしていますが、現在のところ大きな影響は確認されておらず――」
家族の誰かが、テレビを見もせずに「あら、そう? 気づかなかったわ」と笑った。
別の誰かが、コーヒーカップを置いて、新聞をめくった。
キャスターは、もう次のニュースに移っていた。
誰も、それ以上のことは話さなかった。
少女は、トーストを齧る手をほんの一拍止めた。
すぐに、また齧った。
何事もなかった顔で、何事もなかったように。
少女はその日から、空を見上げるくせを持つようになった。
誰にも気づかれない、ささやかなくせだった。
夏は終わり、秋はまだ来ない。
その境目のような風が、少女の頬を撫でて過ぎていった。




