chapter-10: 少女 第四節 計画
幕が、下から崩れるようにして消えた。
あとに残った空気は、来たときのままだった。川の音。橋桁の低い響き。枯れ草。斜面のコンクリートの冷たさ。
ひかりは、ひとりで座っていた。
右のてのひらを開いた。
新しいものが、そこにあった。
金属のどこが疲れているかが分かる。木のどこが乾いているかが分かる。触らなくても、見ただけで、そのものがどこから壊れたがっているのかが分かった。
橋桁の継ぎ目のあたりに、うっすらと弱いところがある。土手のフェンスは、下から三本目の支柱が、根元でもう終わっている。
ひかりは、てのひらを閉じた。
***
はじまりは、教室だった。
朝の会の前に、ひかりはプリントを配って歩いていた。一枚ずつ、机の右上に置いていく。
田所蓮の机にも置いた。
置いて、体を起こしたところで、上着の内ポケットの結晶が、熱を持った。
自分の席に戻ってから、机の下で取り出してみた。てのひらの上で、薄く光っていた。強い光ではない。夜の常夜灯くらいのものだった。
田所は、腕の上に顔を伏せていた。前の日も、その前の日も、同じ姿勢だった。
結晶がこうなるものを、ひかりはひとつしか知らない。
──この子だ。
決めるのに、時間はかからなかった。
そのあとに考えたのは、方法だけだった。
***
子供がひとりいなくなったら、周りに何が起きるか。
騒ぎにしないにはどうすればいいか。
自分に疑いが向かず、こちらに不利益が生じない方法は何か。
まずは、相手を知ることからだ。
***
何度か観察するうちに、人の来ない水道を使う癖を知った。
足音を測った。田所の歩幅と、上履きの底の鳴らし方は、すでにひかりの中に入っていた。
通路に入る手前で足を止めて、水の出る音がしてから静かに歩き始めた。
「いいよ、先、どうぞ」
偶然ではない。
田所が譲られ慣れていないことも、譲られたら断れないことも、なんとなくわかっていた。
***
そのあとも、淡々と情報を集めていった。
家族のこと。弟のこと。図書室のこと。
話すうちに、田所の顔からひとつずつ何かが外れていった。
しばらくすると、田所は廊下でひかりと会うと目を背けるようになった。目を合わせなくなった子は、こちらが見ていないときにこちらを見ている。
田所の能力がうっすらと漏れ出ているのは、手元にある結晶のおかげで気づいていた。
田所のあとをつけた帰り道、田所は歩道橋を上りきったところで手すりに肘を乗せて、剥げた縁を爪で押した。緑がひとかけ、下の歩道へ落ちていた。
それでも、まだ足りなかった。
子供がひとり消えて、周りが静かなままでいる筋道が、ひかりの中にはなかった。
***
ヴァナを吸収したあの日から、ひかりは何度も、ヴァナの記憶の回廊を手繰っていた。
ヴァナの中にあった、びっしりと本が並んだ棚だ。読めない背表紙が、読めないまま並んでいる。そのうちの何冊かは、指をかけると、かたちだけがこちらへ落ちてくる。
授業中に手繰っていることもあった。給食のあとの廊下でも。名前を呼ばれて、返事が遅れる。
膨大で、途方もないヴァナの記憶。
ひかりの中にあって、ひかりのものではないそれを、まだほとんど掌握できていなかった。
それでも、ひかりが今抱えている課題について考えていたとき、ふと何かを思いついたときのような感覚とともに、棚から一冊の本が落ちてきた。
***
その夜、布団のうえでルナに訊いた。
「ねえ、ルナ」
紫紺の背が、枕の横で動いた。
「あなたのあの、世界に干渉する力って、どこまで干渉できるの?」
ルナのしっぽの先が、止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
***
ルナが近くにいると、周りの目が緩む。
ヴァナは、自分の世界からこちらの世界へ渡ってきた。ルナが消える原因となったあの日、ルナはそれを押し返していた。
おそらくあれは、この世界そのものに干渉している。
結晶になった生き物を処理することで、ルナの足場が安定すると言っていた。
ルナがどこからきて、何を考えているのかは、まだ分からない。
それでも、可能性がそこにある以上、ひかりは欲せずにはいられなかった。
***
それから、ひかりは機会をうかがった。
田所の登下校の経路と時刻は、把握していた。
だからあの日、囲いの前に田所がいることも分かっていた。
階段を上りきる前に、そっと声をかけた。
「だいじょうぶ。田所くんのせいじゃないよ」
病院へ連れていったのも、男の足を治したのも、自身の考える手順のうちだった。
治すところを田所に見せて、不安の底から助け出す。
足の中は田所から見えないから、男の手の甲のかさぶたを先に閉じた。
***
取り立ての来た日、ひかりはその場にはいなかった。
知ったのは、田所が話しかけてきた時だった。
順番を確かめた。田所の手を引き、人目の付かない河川敷へ連れて行った。
肩に手を添える。田所の身体がぶるぶると震えていた。
──「止めてあげる」は、嘘ではなかった。
ひかりは、順調に事が進んだことにそっと笑みをこぼし、田所の名前を呼んだ。
***
「ひかりちゃん」
うしろで、ルナが呼んだ。
ひかりは斜面のコンクリートから立って、スカートの裏の砂を払った。
払い終わってから、川のほうを見た。
返事をしなかった。
振り向かなかった。
ルナは、二度目を呼ばなかった。
***
来た道を戻って帰った。
途中の角で、犬を連れた人とすれ違った。犬は道の端の匂いを嗅いでいて、顔を上げなかった。
「ただいま」
「おかえり。手、洗ってきな。もうすぐ焼けるから」
台所から祖母の声がした。
夕飯は鰤の照り焼きだった。
「ねえお母さん、あたし来週から水曜も塾になるんだけど」
結が母に言った。
「聞いてないよ、そんなの」
「言ったってばあ。冬期の前に増えるって、プリント渡したもん」
「ええ? もらってないよ」
「絶対渡した。お母さんが冷蔵庫に貼ったの見たもん」
真奈が冷蔵庫のほうを見た。宗一郎が笑った。
「貼ったな。貼って、その上に電気屋のチラシ貼ったろ」
「もう、お父さんまで」
美咲が皿を回した。静江が焼き網の残りをもう一枚出して、ひかりの前に置いた。
「ひかりも食べな。今日は多めに焼いたから」
「うん。ありがとう、おばあちゃん」
「学校、寒くないかい。あそこの廊下、風が通るからねえ」
「うん。でも、ストーブついてるから」
「ならいいけどねえ」
結が二杯目に手を出して、真奈に軽く叱られた。美咲が横で笑った。
ひかりも笑った。




