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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 天宮ひかり編
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chapter-10: 少女 第五節 記憶

朝の教室は、うるさかった。


葉月がランドセルを机に置いたとき、廊下側のいちばんうしろが空いているのが見えた。


田所くんの席だ。


横のフックに、体操着の袋がかかったままだった。机の中を覗くと、教科書とノートと、赤い下敷きが入っていた。下敷きの角が、ぜんぶ丸くなっていた。


葉月は七海の腕を引いた。


「ねえ、七海ちゃん。田所くん、風邪?」


「え?」


「田所くん。そこの席の」


七海は空いている席を見た。それから葉月を見て、もう一度席を見た。


「……えっと、待って。田所くんって」


「うそでしょ、田所くんだよ。廊下側の、そこの席の。四年のとき同じクラスだったじゃん」


「四年……」


七海は本気で考える顔をした。この子が本気で考えるとき、いつも眉のところに皺が寄る。


「葉月ちゃん、ごめん、たぶんわたし知ってると思うんだけど、出てこない。あれかな、転校した子じゃない?」


「転校?」


「ううん、分かんない。なんか、そういうの聞いた気がして」


「いつ? 誰から?」


「……えー、いつだろ」


七海は笑って、自分の席のほうへ戻っていった。途中で廊下側を見て、空いている席を見て、何も言わずに通り過ぎた。


***


翔太は、うしろのロッカーの前でジャージのファスナーを上げていた。


「翔太くん、ちょっといい?」


「なに」


「田所くんのことなんだけど」


「田所? 誰それ」


七海と同じ反応だった。ふざけているわけではないようだった。


「……翔太くんさ、金曜にマンガ持ってくるじゃん」


「持ってくるけど。葉月に貸さねえよ、女子には貸さねえの」


「借りないってば。あれ、誰に貸してんの」


「え?」


翔太の手が止まった。ファスナーの引き手をつまんだままだった。


「……誰だっけ」


「翔太くんが貸してるんでしょ」


「貸してる。貸してるんだけど。五時間目の前に返せって言うから、返してもらってんだけど。えーっと」


翔太は自分のランドセルを見て、それから教室を見渡した。見渡して、どこにも視線を止めなかった。


「あー、わかんね。まあいいや」


「よくないよ」


「よくねえかな」


翔太は笑って、ロッカーを閉めた。


「葉月、そういうのすぐ気にすんじゃん。忘れたやつの話しても出てこねえって」


***


桑島結愛は、廊下側の席で髪を結んでいた。


「結愛ちゃん」


「なあに」


「田所くん、覚えてる?」


結愛はゴムを口にくわえたまま、髪をひとまとめにして、それから結んだ。


結び終わってから、葉月のほうを向いて笑った。


「だれ?」


「……六年一組の、田所蓮くん」


「うちのクラス?」


「うん」


「えー、いないよぉ、そんな子」


結愛は笑ったままだった。冗談を言われていると思っている顔だった。


「葉月ちゃん、それ、どこの子と間違えてるの?」


葉月は、その顔を見ていた。


いつだったか、この子はひかりちゃんと田所くんのほうを見て、笑いかけて、途中でやめた。口を開けて、閉じて、そのまま自分の席へ行った。あのとき何を言おうとしたのか、結愛はとうとう言わなかった。


そのときの結愛の顔を、葉月は覚えている。


その結愛が、いちばんきれいに忘れていた。


***


帰りの会のあと、葉月は教卓のところへ行った。


「先生、田所くんって、今日お休みですか」


「田所……」


関口先生は名簿を開いた。開いて、名前のところをしばらく見ていた。


「うん。……いま、確認してるところだから」


「何を確認してるんですか」


「岸本さんは、心配しなくていいよ」


「でも先生、体操着まだかかってるんです。机の中も、そのままで」


「そうか。じゃあ、先生のほうで預かっとくよ」


先生は名簿を閉じた。閉じるとき、指がページの端で一度止まった。


止まって、それから閉じた。


「……はい」


葉月は下がった。


名簿には、名前が残っていた。机の中の下敷きも残っている。フックの体操着も残っている。


残っているのに、誰の目にも映っていないようだった。


***


がやがやと騒がしい教室で、葉月は一人自分の席に戻ろうとしていた。


その時、ふと、頭の中に見たことのない景色が広がった。


見えているのは、笑った口元だった。


片方の端が、すこし高くなっている。


目のところも、輪郭も、ぼやけている。誰の顔なのかは分からない。


ぼんやりと、まるで夢を見ているような目線だった。


ほんの一瞬の出来事だった。また教室の騒がしさが戻ってきた。


「……なんで、みんな、田所くんのこと、忘れてるの」


声に出た。思ったより大きく出た。


近くの子がふたり顔を上げて、話に戻った。


誰も答えなかった。


田所くん。


田所くんは──


続きが、途中で薄くなっていった。記憶を掴もうとすると、指のあいだから抜けていった。


田所くんは何が好きで、何を言う子で、給食のとき何をしていたか、四年のときあの廊下で何をしていたか。


そこまでは出てくるのに、そこから先へ行こうとすると、届かずに遠ざかっていった。


「……気のせいかな」


そう言った。


言っても、机を握った指の力は、戻らなかった。


***


ドアが開いた。


「おはよう、葉月ちゃん」


ひかりちゃんだった。


葉月は顔を上げた。


上げた瞬間に、また、あの口元が浮かんだ。口の端が、少し上がった──


心臓が耳のところで鳴りはじめた。背中に薄く汗が出た。


返事、返さないと。普通に、いつも通りに。


「ひかりちゃん、……お、おはよー」


声が半音上がった。自分でも分かった。うまく笑えているか、自信がなかった。


「葉月ちゃん、それ手袋? かわいいね。新しいの、買ったの?」


「あ……ううん。おばあちゃんがくれて」


「へえ。いいなあ」


ひかりは笑った。目のあたりから先にやわらいで、口はあとから動いた。


「今日、朝から寒いね。教室、早く温まらないかなあ」


「うん。……そうだね」


ひかりは自分の席へ行った。


葉月はその後姿を、目で追っていた。


***


三日して、田所くんの席に別の子の荷物が置かれるようになった。


席替えではなかった。誰かが置いて、そのままになった。


誰も何も言わなかった。


体操着の袋は、そのうちフックから消えていた。


葉月は学校へ行って、給食を食べて、笑って、帰った。


笑った口だけが、消えなかった。


***


ひかりは、気づいていた。


葉月がまだ田所の名前を口にすること。誰も答えないのに、二度、三度と訊いていること。


ひかりは、止めなかった。


ルナの力は、問題なく働いていた。


葉月がなぜ田所のことを覚えているのかは分からない。


でも今は、何も問題になっていない。放っておいても大丈夫だろう。


でももし、葉月が何かするなら──


そこから先の言葉を、ひかりはまだ紡ぐことができなかった。

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