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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 天宮ひかり編
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chapter-10: 少女 第三節 解決

母は明け方に帰ってきた。


たたきの砂は、寝る前に掃いた。壁のモルタルは戸棚をずらして隠した。反り返った廊下の板は、踏んで、上から金槌で叩いて戻した。抜けた釘は拾って、畳のほつれた縁はカーペットの端を寄せて覆った。流しの下の洗面器は、水を捨てて元に戻した。柵の抜けたところだけが、どうにもならなかった。


蓮は言わなかった。


ふすまのむこうで、母が寝返りを打つ音がした。


***


「兄ちゃん、いってきます」


湊が玄関で手を上げた。ぱんとやるやつだ。


蓮は左手を上げた。


湊が止まった。


「そっちじゃないよ」


「今日はこっち」


「なんで」


「うるせえな。行けって、遅れんぞ」


湊は口を尖らせて、それでも左手にぱんとやった。


かかとを踏んだまま出ていって、ドアが閉まって、鉄の板が三回鳴った。


蓮は自分の右手を見た。


上げかけて、止めた。湊に、触れたくなかった。


***


学校へは行った。


家にいるほうがこわかった。


あの二人が今日また来るとして、来る時間はたぶん昨日と同じで、その時間には湊だけが家にいて、ドアを開けるのはやっぱり湊で、そのあとに何が起きるかを蓮は昨日ぜんぶ見ていて、見たものを止める方法はひとつも持っていなくて、それなら学校にいて、五時前に帰って、湊より先に部屋にいるほうがまだましだった。


授業のあいだ、蓮は両手を膝に置いていた。


机には触らなかった。鉛筆は握った。握ったものは、いまのところ何ともなっていない。


いまのところ、だ。


***


放課後、蓮は天宮ひかりを探した。


教室にいなかった。昇降口にもいなかった。図書室を覗いて、いなかった。


自分から誰かを探したのは、初めてだった。


給食室の裏の通路にいた。金網のほうを向いて立っていた。誰かを待っている立ち方ではなかった。


「天宮」


ひかりが振り向いた。


蓮は口を開けた。


用意していた言葉はひとつもなかった。ここまで来るあいだ、何をどう言うかは一度も考えていない。探すことだけを考えていた。


「……昨日、うち、人が来て」


「うん」


「借金の。親父の」


「うん」


「それで」


そこで詰まった。


ひかりは急かさなかった。金網に指をかけて、蓮の顔を見ていた。


「あいつら、急にナイフなんて出してきやがって。でも、なんか、急に耳鳴りして、ナイフが折れて、ざらざらして」


蓮は、自分でも気づいていないぐらい気が動転していた。紡いだ言葉は、要領を得ていなかった。


「それで、急に腕、掴まれて。振りほどこうとして、掴み返したら」


「うん」


「……そしたら、そいつの腕も割れて、ぱらぱら剥がれて」


言った。


言ってから、蓮は口を閉じた。閉じても、出たものは戻らなかった。


「血、出てた。骨は見えてねえ、表面の皮だけ。たぶん治る。たぶんだけど」


ひかりはうなずいた。


「そのあとも止まんなかった。もう触ってねえのに。管も、壁も、床も。あいつ、逃げるとき柵つかんで、そのまま落ちて」


「うん」


「そのあとすぐおさまって、今までなんともなかったけど、弟に触んのもこわくて」


***


ひかりは驚かなかった。


息も呑まなかった。うそでしょ、とも、こわい、とも言わなかった。


蓮の手を見せてくれとも言わなかった。


「痛いところは?」


「……ねえよ。俺は、なんもねえ」


「そっか」


ひかりは金網から指を離した。


「田所くん。それ、誰かに言った?」


蓮は首を振った。


「先生にも? お家の人にも?」


「言えるかよ、こんなん」


「うん」


ひかりは一歩、蓮のほうへ来た。


「だいじょうぶ。止めてあげる」


蓮は、ひかりの目を見た。そう言ってくれると、どこかで期待していた。


なんで助けてくれるんだ、とは訊かなかった。歩道橋のことも、病院のことも、ぜんぶこいつが先に知っていて、ぜんぶこいつが片づけた。


ひかりが手を伸ばして、蓮の左の手首をつかんだ。


行こう、とは言わなかった。ついてきて、とも言わなかった。


つかんで、歩き出した。


蓮は、ついていった。振りほどかなかった。


***


校門を出て、県道を渡って、川のほうへ下りた。


冬の河川敷は、草が枯れて倒れていた。土手の道を歩く人が遠くにひとりいて、こちらは見なかった。


橋の下は陰になっていた。橋桁が空を切って、その下だけ、色が沈んでいる。


コンクリートの斜面が、川に向かって下りていた。ひかりは斜面の上のほうまで来て、そこに座った。


蓮も、隣に並んで座った。


川の音がしていた。上を車が通ると、橋桁が低く鳴った。


ひかりは膝を揃えて、まっすぐ前を見ていた。


「これから話すこと、信じられないかもしれないけど」


蓮は、黙ってひかりの顔を見つめていた。


「田所くんにはね、ふしぎな力があって。それが今は、コントロールできずに暴走してしまっているの」


「なんだよ、それ……」


ひかりは川のほうを見たままだった。


「お前、なんでそんなこと知って……」


ひかりは答えなかった。答えないまま、続けた。


「それでね。このまま放っておくと、田所くんの大事な人にも、被害が出るかもしれないの」


川の音が、急に大きく聞こえた。


蓮は自分の手を見た。


朝、玄関で上げかけて止めた手だった。


明日の朝、湊を二回起こす。二回目で髪だけ出てくる。座ったまま前に傾いて、また戻ってくる。


飯を食う。かかとを踏んで出ていく前に、手を上げる。ぱん、と手を合わせる。


そのときにまた、昨日の音がしたら。


蓮の指が震えていた。


「田所くんはね」


ひかりが言った。


「今までいっぱい我慢して、いっぱい頑張ってきたこと、わたし知っているから」


蓮は顔を上げなかった。


「だから、ね。わたし、田所くんのこと、助けてあげたいの」


「で、でも、助けるって、どうやって……」


ひかりが動いた。


手が伸びてきて、蓮の頭のうしろに回った。そのまま引き寄せられた。


「な──」


ひかりの胸元に、蓮の額が当たった。冬のコートの、布の匂いがした。


「だいじょうぶ」


背中を、二度、軽くたたかれた。


歯を食いしばっていた。いつからかは分からない。


その力が抜けた。


ほっとした瞬間、涙が頬をつたっていた。


「なんで俺、こんな……」


声が震えた。止めようとすると、余計に出た。


なんもされてねえのに。優しくされただけなのに。


ひかりの手が、頭のうしろから離れた。


ひかりの両手がそっと肩に添えられた。肩に少しの抵抗感を感じ、ひかりはゆっくりと身体を離した。


「だから、ね。田所くん」


蓮は顔を上げた。


「これからは、わたしがずっと、そばにいるから」


──ああ、これで、止まる。


肩の力が抜けた。斜面のコンクリートの冷たさが、尻の下から伝わってきた。強張っていた体では感じていなかった感覚が分かるぐらいには、落ち着きを取り戻していた。


ひかりが、蓮の目を見た。


蓮も見返した。目のふちが濡れているのは、もう気にならなかった。


「──田所、蓮くん」


フルネームで呼ばれたのは、この学校に来てから一度もなかった。


ひかりが笑っていた。


目のあたりは動いていなかった。口だけが動いていた。片方の端が、すこし高くなっている。


目の奥には引き込まれるような暗闇が広がっていた。


夜の布団の上で何度も思い出した、あの笑い方ではなかった。


張り付けたような笑顔の下から、天宮の奥底にあるものが初めて垣間見えていた。


「天宮、お前、なんか、いつもとちが──」


***


冬の空は、すでに暗くなり始めていた。薄っすらと雲が広がり、どんよりとしている。


橋の上を、車が通り、橋桁が低く鳴った。


川は穏やかな流れだった。河川敷には、枯れた草が、風の来るほうから順に倒れた。


土手の道を、犬を連れた人がひとり歩いていた。川のほうは見なかった。


川の反対には、すでに葉を落とし色を失った木々が並んでいた。


道端に咲いた花々も姿を消していた。


冬の景色は古びた写真のように色あせていた。


そこに、黒い円柱が立ち上る。


誰かが写真にインクをこぼしたように、幕は冬の空をまっすぐに貫いていった。

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