↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 天宮ひかり編
PR
37/40

chapter-10: 少女 第二節 事件

四日して、夕方に人が来た。


蓮は台所で米を研いでいた。三合。水は三回替える。二回目の水がいちばん白い。


テレビの前で湊が笑っていた。夕方の再放送で、同じ回を今週三度見ている。


ドアが鳴った。


ノックではなかった。手のひらで、鉄の面を上から下へ叩く音だった。三回鳴って、間があいて、また三回鳴った。


「はーい」


湊が立った。


「おい、待て」


蓮は水を止めた。止めたときには、湊はもうチェーンを外していた。


***


男が二人立っていた。


前のほうが四十くらいで、うしろのほうがずっと若い。若いほうは外廊下の柵に寄りかかって、こっちを見ていなかった。


前の男が、隙間から中をのぞいた。


「お母さんは?」


「……いません」


「そう。じゃあ、お兄ちゃんでいいや」


男はドアの縁に手をかけて、開けた。開けるとき、力は入れていなかった。開くと分かっている手つきだった。


「田所さんのお宅だよね。田所──」


父の名前だった。


蓮は、その名前を声に出して呼ぶ人間を、去年の夏以来、見ていなかった。


「お父さん、いつ帰ってくる?」


「知らねえよ」


「知らねえかあ」


男は笑った。歯のあいだに何か挟まっていた。


「おじさんね、お父さんにお金貸してんだよ。ずいぶん前から。お母さんも知ってるはずなんだけどね、電話に出てくれなくてさ」


湊が蓮のうしろに回った。シャツの裾を掴んだ。


「かあさん、仕事だから」


「そう。夜のね。ファミレスの」


蓮は動かなかった。


男にはすべて知られていた。父のことも、母のことも。ぺらぺらと、男は退屈そうにしゃべっていた。


「うちにも用があるのよ。分かる?」


「分かんねえ」


「分かんなくていいから、上がらせて」


男が靴のまま、たたきに片足を入れた。


蓮は動かなかった。動かないまま、湊を背中の側へ押した。


「どけって」


「どかねえ」


***


男が舌打ちをして、上着の内側に手を入れた。


出てきたのは、折りたたみの小さなナイフだった。刃は指の長さもない。


男はそれを開いて、蓮の顔の高さで、二度、左右に振った。


「な。おじさん、こういうの、やりたくないの」


蓮の喉が鳴った。


肩から先の力が抜けそうになって、それを膝で止めた。


うしろで湊が息を吸うのが聞こえた。


蓮は、強張った体で、じっと刃を見つめていた。


ジジジ、と耳の奥で耳鳴りがした。眉をひそめるうちに、だんだんと大きくなっていった。


キーン、と甲高い音が鳴り響いた。


耳を押さえようと、右手を上げた瞬間、ピキッ、と小さな金属音が鳴った。


刃が、落ちた。


柄に近い部分から折れていた。断面には灰色の粉が付着しており、さらさらと宙に舞っていた。


男の顔から表情がなくなった。


「……は?」


***


男が持ち手を投げ捨てた。


「なにしやがった」


伸びてきた手が、蓮の胸倉を掴んだ。


シャツの襟が首の前で締まって、爪先が浮いた。男の腕は太くて、汗と煙草の匂いがした。


蓮は両手でその腕を掴んだ。


離させようとしただけだった。


また高い耳鳴りがして、掴んだところから乾いた紙を破るような低い音が響いた。


男の腕の皮膚に亀裂が走った。


亀裂は前腕を回って、肘の方へ走った。走った後から皮がめくれ、ぼろぼろと落ちていった。


剥がれた皮は、床につく前に粉になって消えた。


「うぐっ──」


男が蓮を放した。


蓮は尻から落ちた。


男は自分の腕を抱えて、たたきの上でうずくまった。腕の、皮膚のなくなったところから、赤い血が滲み始めていた。


指の間から垂れて、コンクリートに点をつくった。


「痛ってぇ! なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!」


男は同じ言葉を、息の続くかぎり繰り返した。


***


蓮は手を放していた。


放したのに、崩壊は続いていた。


流しの下で、金属が鳴った。


見ると、排水の下の管が、途中から下向きにたわんでいた。継ぎ目のところが白く粉を吹いて、そこから水が糸になって落ちていた。


壁で、乾いた音がした。


台所の壁の、腰くらいの高さのモルタルが、四角く浮いて、面ごと落ちた。下から古い土が出てきた。


たたきのコンクリートが、男の靴の下で崩れた。踏んでいたところが、そこだけ砂に戻って、靴が沈んだ。


蓮は自分の手を握りこんだ。


止まらなかった。


握りこんでも止まらなかった。床に押しつけても、脇に挟んでも、同じだった。壁の音は台所から廊下のほうへ移って、廊下の板が一枚、端から反り返って、釘が抜けて、その釘が落ちた先で畳の縁がほどけはじめて、蓮は目で追うのをやめた。


つぶっても、音はしていた。


***


若いほうが、外から怒鳴った。


「なにやってんだよ、はやく」


前の男が起き上がった。


腕を胸に抱えたまま、靴の片方をたたきに残して、外へ出ていった。


蓮は目を開けた。


男は外廊下を、壁のほうに肩をつけて走っていた。走りながら、右手で柵を掴んだ。


柵は、蓮が生まれる前からそこにある。塗装は下から錆が出ていて、上のパイプは触るたびに指に赤い粉がついた。


男の手がかかったところから、細い線が走った。


線はパイプを一周して、支柱の根元まで下りた。


抜けた。


男の上半身が外へ出た。腰が縁を越えて、片足が跳ね上がって、そのまま見えなくなった。


音は、二つした。


一つ目は自転車の倒れる音で、二つ目のほうが重かった。


***


「おい! おい、しっかりしろって!」


若いほうが階段を駆け下りていった。


蓮はドアのところまで出た。


出て、下を見た。


駐輪場に自転車が三台ある。そのうちの二台が倒れて、あいだに男が転がっていた。


若いほうが肩を入れて、男を起こした。


男は立った。立ったが、右の足を地面につけていなかった。


二人は、駐輪場を出て、道のほうへ歩いていった。前の男が若いほうの肩を掴んで、片足を引きずっていた。腕はまだ胸に抱えたままだった。


道に出る手前で、若いほうが一度だけ止まった。


上を見た。


蓮と、目が合った。


若いほうは何も言わなかった。言わずに、また歩き出した。


***


部屋に戻った。


たたきに、砂の山が二つあった。ナイフだったものと、コンクリートだったもので、色が違った。


壁のモルタルは落ちたままだった。廊下の板は端が反り返って、抜けた釘が畳の縁に転がっていた。流しの下からは、まだ水が糸になって落ちていた。


蓮は洗面器を持ってきて、管の下に置いた。


置いた洗面器の底に、水が三つぶんたまったところで、音が変わった。


糸が細くなって、点になって、止まった。


蓮は管を見た。たわんだところは、たわんだままだった。ただ、継ぎ目の白い粉は、それ以上こぼれてこなかった。


自分の息が、いつのまにかふつうに戻っているのに気がついた。


置いてから、廊下のほうを見た。


湊が、立っていた。


台所の入口の柱に片手をついて、そこから動いていなかった。いつからそこにいたのかは分からない。ずっといたのかもしれない。


湊は泣いていなかった。


口が半分開いていて、息だけが浅く出ていた。


「兄ちゃん」


「……おう」


「あのおじさん、腕、どうしたの」


「知らね」


「兄ちゃんが、さわったとこだった」


蓮は答えなかった。


湊は柱から手を離して、一歩だけ前に出た。


「痛かった?」


蓮は顔を上げた。


「……なにが」


「兄ちゃんの手」


湊は、蓮の手を見ていた。怖がってはいた。それでも、見ていたのは男の腕ではなくて、蓮の手のほうだった。


蓮は手を伸ばしかけた。


いつも湊の頭にやる、あの手だった。


途中で止めて、下ろした。


「痛くねえよ」


***


米は研ぎかけのままだった。


蓮は流しの前に戻って、三合の米に水を足した。二回目の水が白く濁って、指のあいだを流れていった。


手は段取りを覚えている。研いで、水を替えて、また研ぐ。


三回目の水を替えるところで、指が止まった。


止まったまま、水の中に沈んでいた。


俺だ。


蓮はそう思った。思ってしまってからは、もう戻せなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。