chapter-10: 少女 第二節 事件
四日して、夕方に人が来た。
蓮は台所で米を研いでいた。三合。水は三回替える。二回目の水がいちばん白い。
テレビの前で湊が笑っていた。夕方の再放送で、同じ回を今週三度見ている。
ドアが鳴った。
ノックではなかった。手のひらで、鉄の面を上から下へ叩く音だった。三回鳴って、間があいて、また三回鳴った。
「はーい」
湊が立った。
「おい、待て」
蓮は水を止めた。止めたときには、湊はもうチェーンを外していた。
***
男が二人立っていた。
前のほうが四十くらいで、うしろのほうがずっと若い。若いほうは外廊下の柵に寄りかかって、こっちを見ていなかった。
前の男が、隙間から中をのぞいた。
「お母さんは?」
「……いません」
「そう。じゃあ、お兄ちゃんでいいや」
男はドアの縁に手をかけて、開けた。開けるとき、力は入れていなかった。開くと分かっている手つきだった。
「田所さんのお宅だよね。田所──」
父の名前だった。
蓮は、その名前を声に出して呼ぶ人間を、去年の夏以来、見ていなかった。
「お父さん、いつ帰ってくる?」
「知らねえよ」
「知らねえかあ」
男は笑った。歯のあいだに何か挟まっていた。
「おじさんね、お父さんにお金貸してんだよ。ずいぶん前から。お母さんも知ってるはずなんだけどね、電話に出てくれなくてさ」
湊が蓮のうしろに回った。シャツの裾を掴んだ。
「かあさん、仕事だから」
「そう。夜のね。ファミレスの」
蓮は動かなかった。
男にはすべて知られていた。父のことも、母のことも。ぺらぺらと、男は退屈そうにしゃべっていた。
「うちにも用があるのよ。分かる?」
「分かんねえ」
「分かんなくていいから、上がらせて」
男が靴のまま、たたきに片足を入れた。
蓮は動かなかった。動かないまま、湊を背中の側へ押した。
「どけって」
「どかねえ」
***
男が舌打ちをして、上着の内側に手を入れた。
出てきたのは、折りたたみの小さなナイフだった。刃は指の長さもない。
男はそれを開いて、蓮の顔の高さで、二度、左右に振った。
「な。おじさん、こういうの、やりたくないの」
蓮の喉が鳴った。
肩から先の力が抜けそうになって、それを膝で止めた。
うしろで湊が息を吸うのが聞こえた。
蓮は、強張った体で、じっと刃を見つめていた。
ジジジ、と耳の奥で耳鳴りがした。眉をひそめるうちに、だんだんと大きくなっていった。
キーン、と甲高い音が鳴り響いた。
耳を押さえようと、右手を上げた瞬間、ピキッ、と小さな金属音が鳴った。
刃が、落ちた。
柄に近い部分から折れていた。断面には灰色の粉が付着しており、さらさらと宙に舞っていた。
男の顔から表情がなくなった。
「……は?」
***
男が持ち手を投げ捨てた。
「なにしやがった」
伸びてきた手が、蓮の胸倉を掴んだ。
シャツの襟が首の前で締まって、爪先が浮いた。男の腕は太くて、汗と煙草の匂いがした。
蓮は両手でその腕を掴んだ。
離させようとしただけだった。
また高い耳鳴りがして、掴んだところから乾いた紙を破るような低い音が響いた。
男の腕の皮膚に亀裂が走った。
亀裂は前腕を回って、肘の方へ走った。走った後から皮がめくれ、ぼろぼろと落ちていった。
剥がれた皮は、床につく前に粉になって消えた。
「うぐっ──」
男が蓮を放した。
蓮は尻から落ちた。
男は自分の腕を抱えて、たたきの上でうずくまった。腕の、皮膚のなくなったところから、赤い血が滲み始めていた。
指の間から垂れて、コンクリートに点をつくった。
「痛ってぇ! なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!」
男は同じ言葉を、息の続くかぎり繰り返した。
***
蓮は手を放していた。
放したのに、崩壊は続いていた。
流しの下で、金属が鳴った。
見ると、排水の下の管が、途中から下向きにたわんでいた。継ぎ目のところが白く粉を吹いて、そこから水が糸になって落ちていた。
壁で、乾いた音がした。
台所の壁の、腰くらいの高さのモルタルが、四角く浮いて、面ごと落ちた。下から古い土が出てきた。
たたきのコンクリートが、男の靴の下で崩れた。踏んでいたところが、そこだけ砂に戻って、靴が沈んだ。
蓮は自分の手を握りこんだ。
止まらなかった。
握りこんでも止まらなかった。床に押しつけても、脇に挟んでも、同じだった。壁の音は台所から廊下のほうへ移って、廊下の板が一枚、端から反り返って、釘が抜けて、その釘が落ちた先で畳の縁がほどけはじめて、蓮は目で追うのをやめた。
つぶっても、音はしていた。
***
若いほうが、外から怒鳴った。
「なにやってんだよ、はやく」
前の男が起き上がった。
腕を胸に抱えたまま、靴の片方をたたきに残して、外へ出ていった。
蓮は目を開けた。
男は外廊下を、壁のほうに肩をつけて走っていた。走りながら、右手で柵を掴んだ。
柵は、蓮が生まれる前からそこにある。塗装は下から錆が出ていて、上のパイプは触るたびに指に赤い粉がついた。
男の手がかかったところから、細い線が走った。
線はパイプを一周して、支柱の根元まで下りた。
抜けた。
男の上半身が外へ出た。腰が縁を越えて、片足が跳ね上がって、そのまま見えなくなった。
音は、二つした。
一つ目は自転車の倒れる音で、二つ目のほうが重かった。
***
「おい! おい、しっかりしろって!」
若いほうが階段を駆け下りていった。
蓮はドアのところまで出た。
出て、下を見た。
駐輪場に自転車が三台ある。そのうちの二台が倒れて、あいだに男が転がっていた。
若いほうが肩を入れて、男を起こした。
男は立った。立ったが、右の足を地面につけていなかった。
二人は、駐輪場を出て、道のほうへ歩いていった。前の男が若いほうの肩を掴んで、片足を引きずっていた。腕はまだ胸に抱えたままだった。
道に出る手前で、若いほうが一度だけ止まった。
上を見た。
蓮と、目が合った。
若いほうは何も言わなかった。言わずに、また歩き出した。
***
部屋に戻った。
たたきに、砂の山が二つあった。ナイフだったものと、コンクリートだったもので、色が違った。
壁のモルタルは落ちたままだった。廊下の板は端が反り返って、抜けた釘が畳の縁に転がっていた。流しの下からは、まだ水が糸になって落ちていた。
蓮は洗面器を持ってきて、管の下に置いた。
置いた洗面器の底に、水が三つぶんたまったところで、音が変わった。
糸が細くなって、点になって、止まった。
蓮は管を見た。たわんだところは、たわんだままだった。ただ、継ぎ目の白い粉は、それ以上こぼれてこなかった。
自分の息が、いつのまにかふつうに戻っているのに気がついた。
置いてから、廊下のほうを見た。
湊が、立っていた。
台所の入口の柱に片手をついて、そこから動いていなかった。いつからそこにいたのかは分からない。ずっといたのかもしれない。
湊は泣いていなかった。
口が半分開いていて、息だけが浅く出ていた。
「兄ちゃん」
「……おう」
「あのおじさん、腕、どうしたの」
「知らね」
「兄ちゃんが、さわったとこだった」
蓮は答えなかった。
湊は柱から手を離して、一歩だけ前に出た。
「痛かった?」
蓮は顔を上げた。
「……なにが」
「兄ちゃんの手」
湊は、蓮の手を見ていた。怖がってはいた。それでも、見ていたのは男の腕ではなくて、蓮の手のほうだった。
蓮は手を伸ばしかけた。
いつも湊の頭にやる、あの手だった。
途中で止めて、下ろした。
「痛くねえよ」
***
米は研ぎかけのままだった。
蓮は流しの前に戻って、三合の米に水を足した。二回目の水が白く濁って、指のあいだを流れていった。
手は段取りを覚えている。研いで、水を替えて、また研ぐ。
三回目の水を替えるところで、指が止まった。
止まったまま、水の中に沈んでいた。
俺だ。
蓮はそう思った。思ってしまってからは、もう戻せなかった。




