chapter-10: 少女 第一節 不安
「ねえねえ、聞いた? 県道の歩道橋」
岡部七海の声は、教室のどこにいても届く。ランドセルを背負ったまま入ってきて、机のあいだで止まって、そこから言った。
「あそこの手すり、折れたんだって。今朝」
窓ぎわで縄跳びの紐を巻いていた三人が手を止めて、黒板の前にいた二人が振り向いた。
「うそ!」
岸本葉月がいちばん先に声を出した。
「折れたって、なに、途中から?」
「うん。ぐにゃって曲がって、そのまま抜けたんだって。おじさんが寄りかかってて、下まで落ちたの。うちのお母さん、パート行くとき救急車のとこ通ってさ、黄色いテープ張ってあったって」
「えー、すごい」
佐藤翔太が椅子の背に肘を乗せた。
「俺あそこ毎日通ってる。今朝通ったときは何ともなかったけどな……タイミング悪かったら、俺が落ちてたかもしんねえ」
「えええ、やだあ」
桑島結愛が両手で耳をふさいだ。
「そういうの言わないでよぉ。ほんとにやだ」
「だいじょうぶだって、結愛ちゃん」
岸本が背中に手をあてて、それから岡部のほうを向いた。
「ねえ、その落ちた人は?」
「足の骨、折れたって」
「うそ」
「でも、命に別状は無いらしいよ。運ばれてくとき喋ってたって、うちのお母さんが」
「よかったあ」
桑島が耳から手を離して、離してからまた顔をしかめた。
「よくないよ、骨だよ。痛いよ」
「痛いよねえ」
「わたし、あそこ通るとき手すり持つもん。ぜったい持つもん」
「じゃあ結愛ちゃん、今度から持たない方がいいかも……」
「えー、でもあそこ風が吹くと怖いんだよなぁ」
朝比奈蒼が本から顔を上げた。
「あそこ、去年も塗り直してましたよね。夏に。業者の人いました」
「え、そうだっけ」
「はい、通るとき見ました。緑のところ古くなっていたみたいで」
***
蓮は机に頬をつけたまま、目を開けなかった。
今朝もあの階段を上って、上りきったところで手すりに肘を乗せて、剥げているところに指をあてて、決まった場所を爪でなぞってから下りた。四十段。七時五十分くらいだった。下の歩道に緑の粉が帯みたいに溜まっているのも見たし、見て、そのまま通り過ぎた。
一時間目のチャイムが鳴って、教科書を出して、名前を呼ばれて返事をした。
そこから先、教室の音が遠かった。
机のへりが白くなって粉が出たのがすこし前で、図書室の七巻の紙の角が乾いて割れたのがそのつぎで、締めたばかりのチェーンが翌日にはたるんでいて、上履きのかかとのゴムが爪でつまんだだけでちぎれて、そのどれも別々に起きたことだから別々に済ませてきたのに、いま横に並べると、並んだ。
木は乾く。紙は古い。チェーンは伸びる。ゴムは減る。手すりだって何十年も雨と風の中に立っている。理由はひとつずつぜんぶあって、ひとつずつなら通るのに、五つ並べたときだけ通らなくなるのがおかしくて、蓮は自分の言い分のどこが弱いのかを探したけれど、弱いところは一箇所しかなくて、それは五つとも自分の指が触ったところだということだった。
──俺じゃねえだろ。
口の中で言った。声にはしなかった。
もう一度言おうとして、やめた。二度言うのは、一度で足りていないからだ。
***
言えば、どうなる。そもそも、信じてもらえるか? 俺が触ったせいで、いろんなものが壊れるんですって?
そんなこと言えば、一発で「危ないやつ」になる。担任が家に電話する。去年うちに来た市役所の人がまた来る。
母が呼ばれて、パートを休んで、休んだぶんは給料が出なくて、そのあいだ湊は誰かの家か、どこかの部屋で、知らない大人と喋ることになる。
そこまで転がるのに、たぶん三日もかからない。
蓮は額を机につけ直した。
一時間目は国語で、二時間目が算数で、三時間目は体育だった。着替えて、外に出て、走って、また着替えた。給食は残さなかった。おかわりの列にも並んだ。
何をやったのか、ひとつも残らなかった。
***
放課後、蓮は歩道橋へ行った。
折れたのは、上りきってすぐの右側だった。ベニヤと単管で囲いが立って、黄色と黒の縞のテープが二重に渡してある。蓮の背より高い。
隙間から覗いた。支柱が途中で切れているのは分かる。切れ口は囲いの向こう側で、角度が合わない。
反対から回り込んだ。こちらからも合わなかった。
爪先立ちになって、囲いの上のへりに指をかけた。
かけたところで、離した。
自分が触ってどうにかなるのなら、触らないほうがいい。そう思ってから、触ってどうにかなると自分が思っていることに気づいた。
「田所くん」
蓮は振り向いた。
天宮ひかりが、階段の三段下に立っていた。ランドセルは背負ったままだった。
鉄の階段は、上がってくれば鳴る。低学年が走れば下まで響く。
音は、しなかった。
ひかりは囲いを見て、それから蓮を見た。
騒がなかった。どうしたの、とも訊かなかった。
「だいじょうぶ。田所くんのせいじゃないよ」
蓮の口が開いた。
なんで、まで出かかって、そこで止まった。
口を閉じた。奥歯が鳴った。
ひかりは残りの三段を上がってきて、蓮の横に並んだ。テープが風で鳴っていた。
「ねえ、田所くん。わたし、これから病院に行くの。落ちた人、まだ入院してるんだって。学校の子が来たら、あの人、ちょっとは気がまぎれると思わない?」
言い方は、給食の献立を読み上げるのと同じくらい、なんでもなかった。
「……知り合いなのかよ」
「ううん。ぜんぜん」
ひかりは笑った。
「でも、うちの学校の子が毎日通るところで折れたんだよ。誰も行かないの、なんか、さみしいでしょう」
蓮は囲いのほうを見た。
行かない理由なら、いくらでも並べられた。用がない。知らないおじさんだ。湊が五時に帰ってくる。
並べているあいだに、ひかりが階段を下り始めていた。
蓮は、ついていった。
***
病院は県道を二つ越えたところにあった。
受付でひかりが記帳した。近くの小学校の六年です、とだけ言って、あとは訊かれたことに答えた。
嘘は、ひとつも言っていなかった。
「あらあ。えらいねえ、お見舞い?」
「はい。同じ道を使ってるので」
受付の女の人は笑って、階と部屋の番号を教えてくれた。
四人部屋の、いちばん窓ぎわだった。
知らないおじさんだった。五十くらいか、もっと上か。髪に白いものが薄く混じっている。右足が膝から下まで固められて、吊るされていた。
蓮は、この人を見たことがなかった。
「こんにちは」
ひかりが言うと、男は雑誌から目を上げて、それから起き上がろうとして、途中でやめた。
「おう。……なんだ、なんだ。学校の子か」
「はい。歩道橋の下の学校です」
「ああ、あそこの。……いや、まいったな。恥ずかしいとこ見せちゃったね」
男は笑った。笑ってから顔をしかめて、しかめてからまた笑った。
「寄りかかっただけなんだよ、俺。ちょっと靴の紐直そうと思ってさ。そしたらあれが、ぐにゃっとね。俺の腹が出たせいかと思ったよ」
「そんなことないです」
「そんなことあるんだよ」
男はがははと笑って自分の腹を叩いてから、蓮のほうを見た。
「そっちの子は、しゃべんないタイプか」
蓮は口の中で何か言った。言葉にならなかった。
「いいんだよ、そういうのが得なんだ。俺は喋りすぎて損ばっかりしてる」
男はベッドの脇の棚を指した。
「そこにお菓子あるからさ。持ってけ。娘が置いてったんだけど、俺、甘いの食えないんだよ」
「あとで、いただきます」
ひかりはベッドの脇に寄って、棚には手を伸ばさなかった。
「あの、痛いですか」
「痛いよ。昼間はまだいいんだ。夜がな。夜は看護婦さんも減るから、余計に痛くなるようにできてるんだよ、たぶん」
「そうなんですね」
ひかりは布団の上から、男の右足に手を置いた。
「──おい、そこは」
言い終わらないうちに、男の顔から力が抜けた。
蓮の位置からは、男の手の甲が見えていた。
落ちたときに擦ったのだろう。かさぶたが三本、手首から指の付け根まで走っていた。
その縁が、動いた。
乾いた土が水を吸い上げるみたいに、赤い線が内側からふさがっていった。三本のうちいちばん長い一本が、端から短くなって、途中で切れて、消えた。残りの二本も後を追うように引いていった。
あとには、まわりと同じ色の皮膚だけがあった。
蓮は息を吸って、吸ったところで止まった。
男は自分の手を見なかった。足も見なかった。
「……ああ。楽になった。薬が効いてきたのかな」
雑誌を持ち直して、ページをめくった。
「悪いな、わざわざ。気ぃつけて帰れよ。手すりは持つなよ、もう」
「はい。お大事にしてください」
ひかりは手を離して、頭を下げた。
***
外は、もう暗くなりかけていた。
自動ドアを出たところで、蓮は足を止めた。
「おい」
ひかりが振り向いた。
「……なんだよ、さっきの」
そう出た。出てから、口の中にまだ三つか四つ残っているのが分かった。
なんであんたが治せるのか。なんで俺のせいじゃないと言い切れるのか。なんで、俺なのか。
どれも喉のところで引っかかって、形にならなかった。
ひかりは待っていた。急かさなかった。ランドセルの肩ひもに指をかけて、蓮の顔を見ていた。
蓮が黙ったままでいると、ひかりは首をかしげて、それから笑った。
「治ってよかったね、っていうことにしておこうよ。あの人、明日から夜も眠れるよ。わたし、それでいいと思うんだけどな。田所くんは、だめ?」
だめ、とは言えなかった。
言えば、あの手の甲の三本を、なかったことにしないでくれと頼むことになる。頼んでどうなるものでもなかった。
「……べつに」
「うん」
ひかりはうなずいて、それきり何も足さなかった。
自動ドアが二度開いて、二度閉まった。
「わたし、歩道橋のほうも見てくるね」
「見てくるって、なんも見えねえよ。囲いしてあるし」
「うん。それでも、見てくる」
ひかりは県道のほうへ歩いていった。
一度も振り返らなかった。
蓮は、その背中が角に消えるまで、自動ドアの前に立っていた。
***
三日して、工事が入った。
朝、通ると、支柱ごと新しくなっていた。銀色で、塗装がまだ乗っていない。囲いは片づいて、テープだけが電柱の根元に丸めて置いてあった。
帰りの会で、関口先生が話した。
「みんなも聞いてると思うけど、県道の歩道橋の手すりね。あれ、市のほうで調べたら、だいぶ古くなってたんだって。来年度、取り替える予定だったんだよ。それを早めてくれたそうだ」
「先生、落ちた人は」
岸本が手を挙げずに訊いた。
「入院してるけど、じきに退院できるって。先生も昨日、聞いたところ」
「よかったあ」
「よかったね。……ただな、こういうのは、古いところに体重をかけたら危ないっていう話でもあるから。みんなも、寄りかかったりするのはやめような」
「はーい」
返事をしたのは半分くらいだった。それで終わりだった。
経年劣化。
その言葉を、蓮はそのとき初めて聞いた。古くなって、悪くなった、ということらしかった。
誰も蓮を見なかった。
岡部はもう別の話をしていた。桑島が声を上げて笑っていた。佐藤が消しゴムを投げて、当たったやつが投げ返していた。
何も起きなかったことになっていくのを、蓮は自分の席から見ていた。
***
去年、市役所の人が来たとき、母は三日口をきかなかった。
四年のとき、廊下で泣いている女子を見て見ぬふりをしたのを岸本に「あんたも見てたでしょ」と言われて、それきり岸本とは話していない。
知られる、というのは、そういうことだった。
天宮ひかりは、なんでもない顔で病院までついてきて、なんでもない顔で帰っていった。
囲いの前で、蓮が何をしていたのかを見ていて、それでも何も訊かなかった。
***
帰り道、階段を上りきったところで、蓮は新しい手すりに指をあてた。
三十まで数えた。
塗装の乗っていない銀色は、冷たいままだった。何も落ちなかった。何も欠けなかった。
蓮は指を離して、階段を下りた。
下りきるまで、手を握ったり開いたりしていた。
その夜、蓮は久しぶりに、朝まで一度も起きなかった。




