chapter-09: 少年 第五節 安らぎ
休み時間に、桑島が小さく泣いていた。
遠藤から借りていた消しゴムを失くしてしまったらしい。遠藤は「あーいいよ、あれ安いやつだったし」と特に気にする様子はなかったが、その優しさと罪悪感でだんだんと桑島の顔がくずれていった。
「ごめんなさい、絶対弁償するから」と指の背で涙を拭い鼻水をすすりながら桑島が謝罪の言葉を並べていた。
「もぉー結愛ちゃんまたぁー?」と岡部が少し笑いながらいちばんに走って向かった。背中をさすりながら「ほら、さくらもいいって言ってるからさー」と慰めていた。
岸本もすぐに向かった。ポケットからハンカチを出して、「かわいい顔が台無しだぞー」と言いながら目元に添えていた。
蓮は、席から動かなかった。こういうのは月に二回はある。桑島は、感情の起伏が激しいやつだ。よく笑い、よく泣く。別の誰かが転んで怪我しただけで、寄り添いながら一緒によく泣いているようなやつだった。
***
天宮ひかりは、あとから行った。
しゃがんで、桑島と目の高さを合わせた。それから、桑島の手の甲に手を置いた。
何を言ったのかは聞こえなかった。三つか四つの言葉だった。
桑島は天宮ひかりの言葉にうん、うん、と頷きながら、深呼吸をしてだんだんと泣きやんでいった。
蓮は顔を上げずにそちらを見ていた。
しゃがむのも、目の高さを合わせるのも、蓮には向けられたことがない。手を置かれたこともない。
それでも、あれと同じものを知っている。
理科のノートの時の、あの指の下がり方。廊下で足を止めるときの、あの振り返り方。
それらが何ら特別ではない、自分にだけ向けられたものではなかったのだと気づいたが、ふしぎと不快感はなかった。
蓮は机の木目を見た。
***
桑島が鼻をかみ、顔を上げてひかりを見た。
「……ひかりちゃんって、なんか」
そこで止まった。
「なんか、なに」
岡部が訊いた。桑島は自分の口を手でふさいで、首を振った。
「ううん。ごめん、なんでもない。ありがと」
岡部は笑って、話を消しゴムのほうへ戻した。
絶対弁償するから、今度みんなで買い物行こ、と話を続けていた。
岸本は、話を聞くそぶりを見せながらも一歩下がって桑島とひかりを少しうしろからじっと見ていた。
***
放課後、蓮は東棟の裏から出た。
給食室の裏を抜けると職員用の自転車置き場に出る。そこから校門までがいちばん近い。
端の一台の泥よけは、まだぶら下がったままだった。
蓮はしゃがんで、留め金を指で起こして、押し込んだ。かちり、と入った。泥よけを揺すった。動かない。
「なおしてあげたの?」
うしろに天宮ひかりが立っていた。
「うっせ」
蓮は立って、ズボンで手を拭いた。
ひかりは泥よけを見て、それから蓮を見た。
「先生、気づくかな?」
「気づかねえよ、どうせ」
「じゃあ、田所くんがやったこと、わたし以外誰も知らないままだね」
蓮は答えなかった。褒められたのか、そうでないのか、分からなかった。
***
ひかりは校門のほうへ歩き出した。蓮も歩いた。並んだのではなくて、出る方向が同じだった。
「田所くん、家、どっち?」
「県道のむこう」
「歩道橋のとこ?」
「ああ」
しばらく黙って歩いた。校門を出て、街路樹の下を通った。葉はもう一枚もない。
「お母さん、夜のお仕事なんだね」
蓮の足が止まった。
「なんで知ってんだよ」
「保護者会に来てなかったから。あと、田所くん、自分でやってるでしょう。給食袋も、体操着も」
蓮は答えなかった。答えると、なにかを認めることになる。
「たいへんだね、って、言ってほしい?」
天宮ひかりは、またいつもみたいに顔を覗き込みながら、少しからかうように言った。
普段誰かに言われたら、小ばかにされていると思うような言葉でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「……べつに」
「じゃあ、言わない」
ひかりは歩き出した。蓮も続いて歩いた。
***
歩道橋の下まで来ていた。
「かあさんは、四時半に出る。帰ってくんのは朝」
言ってから、蓮は自分の口を確かめるみたいに止まった。
言うつもりがなかった。
訊かれたから答えた、というのとも違う。訊かれる前から、口のほうが動く用意をしていた。
「弟、小一」
「そっか」
「あいつ、九たす六ができねえの。九から数えるから、途中で指がなくなって止まんの。止まると一からやり直すから、いつまでも終わんねえ。だから十にしろって教えた。九に一足して十、六から一取って五。十と五。三日かかったけど、できるようになった」
蓮は喋っていた。
「あいつ、歯が一本ねえんだよ。先月抜けて、まだ生えてこねえ。笑うと分かる。前は口おさえてたけど、最近は隠さねえ。あと味噌汁のわかめが嫌いで、俺の椀に入れてくる。入れんなって言っても入れてくる。朝は二回起こさねえと起きねえし。一回目は絶対起きねえ」
そこまで言って、蓮は口を閉じた。
ひかりは、階段の下で立ち止まって、蓮のほうを向いていた。
遮らなかった。頷きもしすぎなかった。
「かわいいね」
そう言って、笑った。
蓮は上を向いた。空を見るふりをした。
「じゃ」
「うん。またね」
ひかりは県道ぞいの道を、駅のほうへ歩いていった。
***
階段を上がった。四十段ある。
上りきったところで、蓮はさっき喋ったことを順番に思い出した。
母のこと。弟のこと。
ぜんぶ喋っていた。
誰にも言ったことのないことばかりだった。佐藤にも、担任にも、去年うちに来た市役所の人にも言っていない。
知られた。
いやではなかった。
──いやじゃねえのが、いちばんやばいだろ。
***
蓮は手すりに寄りかかった。
肘を乗せて、剥げているところに指をあてた。緑の縁を、爪でなぞった。
なぞる場所は決まっている。前と同じところだ。
剥げた面が、前より広くなっていた。緑の層の下の赤茶けたところが、手のひらぶんは出ている。
蓮は手を離して、階段を下りた。
下の歩道に、緑の粉が、うっすらと帯になって溜まっていた。
***
アパートの窓に明かりがついていた。
ドアを開けると、暖まっていない部屋の匂いがした。
「おかえり」
湊がテレビの前に座っていた。ランドセルは廊下に置いてある。
「置くなっつったろ」
「はーい」
蓮は台所へ行って、米を研いだ。三合。明日の朝の分まで炊いておく。
換気扇を回して、火をつけた。
炊けるまで四十分ある。そのあいだに玉ねぎを切って、湊の宿題を見て、風呂の湯を張る。
順番は、体が覚えていた。




