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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 天宮ひかり編
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chapter-09: 少年 第四節 違和感

五時間目の途中で、机のへりが白いのに気づいた。


親指のはらでこすると、粉になって落ちた。ニスの下の木が乾いて、浮いている。


そこは、蓮が授業中に爪でなぞっているところだった。爪の跡が、へりに沿って三本ついている。


蓮は粉を手で払って、床に落とした。


──俺、雑だからな。


それで済ませた。


***


べつの日の昼休み、図書室で七巻を開いた。


三十ページのあたりで、紙の角が欠けた。


めくった指のところだけが乾いて、色が薄くなっている。前のページも、そのまた前のページも、蓮がつまんだ隅が同じようになっていた。押すと、乾いた音を立てて割れた。


古い本だ。何十人も読んでいる。


司書が返却の台を片づけはじめた。


蓮は本を閉じて、棚の下の段に戻した。背表紙を、隣と同じ高さに揃えて押し込んだ。


***


休みの日の朝、自転車のチェーンがたるんでいた。


このあいだ締めたばかりだった。指で持ち上げると、下がりが指二本ぶんある。締める前より悪い。


蓮は工具箱の底からスパナを出して、後輪の軸を緩めて、引き直した。


──最近、ついてねえな。


机と、本と、チェーン。


はぁ、と心の中で少し落胆しつつも、まぁそういうこともあるかと特に気にも留めなかった。


***


べつの朝、昇降口から上がってきたところで、天宮ひかりが二階の廊下を歩いてきた。


すれ違いぎわに、ひかりが顔をこっちに向けた。


「おはよう」


蓮の足が止まった。


学校で、蓮に朝の挨拶をするやつはいない。先生でもしない。二年のときの担任はしていたが、あれは全員にしていた。


口を開けた。息だけが出た。


「……うす」


ひかりはうなずいて、行ってしまった。


蓮は教室まで歩いて、席に座って、ランドセルをフックにかけた。


用もないのに話しかけてくるやつに、いちいち反応したりしない。勝手に近寄ってきて、馴れ馴れしくされでもしたらウザい。


「あぁ?」と一瞥して終わり。いままでそうやって切ってきた。今回も、そうなるはずだった。そうならなかった自分に、蓮は、少しの苛立ちを覚えていた。


***


そのころから、天宮ひかりは蓮に話しかけるようになった。


帰り、校門を出たところで並んだ。


「田所くん、弟いるの?」


「は? なんだよ、急に」


「保健室の前で、一年生の子が田所くんのこと見てた。ちょっと似てた」


「……いるけど」


「そっか」


ひかりはうなずいて、それきり訊かなかった。次の角で、自分の帰る道のほうへ曲がっていった。


***


べつの日の昼休み、佐藤が少年誌を回してきた。蓮は図書室のいちばん奥で開いた。


「そこ、先生の机から見えないんだね」


顔を上げると、書架の切れ目に天宮ひかりが立っていた。


蓮は少年誌を閉じた。


「言わねえよな」


「んー、どうしようかな?」


「おい」


「ふふ、冗談。言わないよ」


ひかりは静かにほほ笑んだ後、棚の方を向いて本を一冊抜いた。パラ、パラ、とページを捲る音だけが聞こえる。


少しして本を閉じ、蓮の方を向き「じゃあね」と声をかけ、受付の方で貸し出しの申請をしに行った。


弟のこと。金曜の図書室のこと。


どれも、誰にも訊かれたことのないことだった。


訊かれたことがないから、答え方を知らないまま、蓮は毎回答えていた。


***


それから数日の間、あいつのことを何度か見かけた。


天宮ひかりが、窓のところで外を見たまま止まっている。


体育のあとの教室で。図書室の窓で。給食のあとの廊下で。


外の景色を見ている様子でもなかった。窓に映る自分を見ているのでもない。目の焦点が、ガラスよりずっと遠くにある。


誰かが名前を呼んでも、すぐには返事をしなかった。ぼーっとしている様子で、再度呼びかけるとふっと意識が戻ってきたように呼び手に気づき、それから振り向いた。


振り向いたときには、笑っていた。


***


その日の五時間目は理科だった。ノートを写していると、机の横に人が立った。


「そこ、写すの間違ってるよ」


天宮ひかりが、蓮のノートを覗き込んでいた。


蓮は動かなかった。


前髪の先が、鉛筆を持っている手の甲のすぐ上で揺れていた。触れてはいない。息が、指の関節にあたっていた。石けんの匂いがした。うちで使っているものとは違う、優しくて、心がほっと安らぐ香りだった。


「ここ。三と八が、逆」


指がノートの上に降りて、数字を指した。爪がきれいに切ってあった。


「……おう」


ひかりは自分の席に戻っていった。


蓮は数字を直そうと、ノートの上で消しゴムを滑らせた。減らさないように角から丁寧に使っていた消しゴムが、中ほどから半分に折れた。


***


その日から、その二十秒くらいを、蓮は何度も思い出すようになった。


風呂で。自転車を漕いでいるときに。湊の宿題を見ているあいだに、急に。


好きとか、そういうのではない。


──あいつだけは、なんか、ちがう。


それ以上には、ならなかった。


***


蓮が教室で天宮ひかりとしゃべっていると、横のほうから見られていることがあった。顔を上げなくても分かる。岸本葉月(はづき)だ。


口は挟まない。ひかりが自分の席に戻ると、なんでもない顔で笑う。それでも見ている。


蓮は岸本が苦手だった。四年のとき、廊下で泣いている女子を見て見ぬふりをしたところを、「あんたも見てたでしょ」と言われた。あれ以来だ。


べつの日の帰りの会のあと、桑島が黒板の前で笑っていた。笑いながら、ひかりと蓮のほうを見た。


見て、口を開けて、閉じた。


笑いが途中で止まったまま、桑島は自分の席へ行った。


桑島が黙るのは珍しい。岡部が「どうしたの」と訊いても、首を振った。


岸本が、一度だけ、そっちを見た。


***


昇降口で上履きを脱いだ。


かかとのゴムが片方だけ薄くなっていて、爪でつまむと、ちぎれた。


蓮はちぎれたゴムをポケットに入れて、外に出た。

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