chapter-09: 少年 第三節 揺らぎ
何日かしてからの放課後だった。
掃除当番で机を戻して、雑巾を絞って窓の桟に干した。
そこまで済ませてから、算数のプリントを机の中に忘れているのを思い出した。
戻ると、教室の電気はもう落ちていた。窓のむこうが、青くなりかけている。このごろは四時で夕方が終わる。
プリントは机のいちばん奥で、角が折れていた。
***
喉が渇いていた。
昇降口の水道には行かない。あそこは低学年が水を掛け合って、当番の先生に怒鳴られている場所だ。
東棟の一階を、給食室のほうへ歩いた。
配膳の台車が壁ぎわに寄せてある。洗剤と、蒸したものの匂いが、まだ廊下に残っていた。
給食室の裏に細い通路がある。片側がコンクリートの壁で、片側が金網。金網のむこうは職員用の自転車置き場だ。
壁ぎわに水道が三つ並んでいる。ここまで来るやつはいない。
蓮は右端の蛇口をひねった。
最初の水はぬるくて、鉄の味がした。三つ数えると冷たくなる。冷たくなってから口をつけると、水は前歯にしみた。
***
通路の奥から足音がした。
上履きの底をこする音がしない歩き方だった。
天宮ひかりが金網のほうを見ながら歩いてきて、水道の三つ手前で止まった。
蓮は蛇口を締めて、横に一歩どいた。
面倒だからだ。うしろに立って待たれるより、どいたほうが早い。
ひかりが蓮を見た。
笑った。目のあたりが先にやわらいで、口はあとから動いた。ありがとう、という顔だった。
そして、開いた手のひらを蛇口のほうへ向けた。
「いいよ、先、どうぞ」
蓮は動かなかった。
自分でどいた。どいたのに、戻された。
譲られる筋合いがない。この学校で、蓮に順番をゆずるやつはいない。
蓮は蛇口に戻って、水を出した。
三つ数えるのを忘れて、ぬるいまま口をつけた。鉄の味が喉を通っていった。
背中のうしろで、ひかりは待っていた。
急かす音がしない。上履きの底も鳴らない。ランドセルの留め具を鳴らしたりもしない。
やめるきっかけがなくて、蓮は必要より長く飲んだ。
蛇口を締めた。顎を袖でぬぐった。
何か言うべきだった。
言うべきなのは分かる。分かるのに、口のなかで舌が止まっていた。
「……ども」
言って、蓮は歩き出した。
振り返らなかった。
うしろで、水の出る音がした。
金網ぞいに歩いて戻った。むこうに職員の自転車が七台停まっている。
端の一台は、後ろの泥よけが留め金ひとつでぶら下がっていた。走るたびにタイヤに当たっているはずだった。
直せる。工具もいらない。留め金を起こして、指で押し込めば戻る。
他人の自転車だ。
蓮は金網から指を離して、校門のほうへ歩いた。
***
帰り道、歩道橋の上で足が止まった。
理由はない。県道を流れていく車の屋根を、しばらく見ていた。
冷たくなった手すりに、肘を乗せた。
塗装の剥げている縁は、指のはらでたどると段になっている。緑の層があって、その下に赤茶けた層があって、いちばん下に鉄の面がある。
爪の先で押した。
緑がひとかけ、ぱらりと落ちて、下の歩道へ消えていった。
蓮は剥げたところを親指で撫でて、手すりから離れた。
指のはらに、粉が残っていた。ズボンで拭いた。
***
夜、布団の上で単行本を開いた。表紙は取れていて、背も割れている。四回は読んだやつだ。
三ページで、手が止まった。
──いいよ、先、どうぞ。
耳のうしろに、声が残っていた。言葉ではなくて、声のほうが。低くもないし高くもない。急いでもいない。あの言い方で、蓮に向けて言われた。
顔は、うまく思い出せなかった。目のところも、輪郭も、ぼやけている。
残っているのは口だけだった。笑うと、片方の端がすこし高くなる。そこが、はっきり残っていた。
意味が分からなかった。
天宮ひかりは、蓮のことを知らない。名字くらいは知っているだろうが、それだけだ。話したことがない。話す用がない。
──なんで思い出してんだよ。
蓮は寝返りを打って、単行本を顔の前に立て直した。
字を追った。三行読んで、また止まった。
同じところを読んでいた。
単行本を伏せて、電気を消した。
暗くしても、消えなかった。




