chapter-09: 少年 第二節 夢
それから何日かして、朝から喉が痛かった。風邪を引いたようだ。
唾を飲むと、喉の奥の方に紙やすりが当たったように痛む。
朝食を用意する間、蓮は麦茶をコップに半分入れて飲んだ。冷たいものが通る間は、少しだけ痛みが引いた。
湊を起こして飯を出した。ウインナー二本を湊の皿に乗せる。
自分の皿の朝食を口にしても、味がよくわからなかった。
「兄ちゃん、顔あかいよ」
「寒いからだろ」
「あかいって」
「食え。遅れんぞ」
***
一時間目のあいだに、背中が冷えてきた。
セーターの内側から冷える。冷えているのに、額のほうは熱い。
二時間目の途中で、黒板の白い字が二重になった。目をつぶって開けると一枚に戻った。しばらくの間、同じことを繰り返していた。
保健室には行かなかった。
行けば熱を測られる。測れば家へ電話が行く。電話が鳴れば母が起きて、寝る時間を削って学校まで来る。来たら、そのあと何日かは、顔を合わせるたびに大丈夫なのかと訊かれる。
三時間目は体育だった。着替えて、外に出た。
走っているあいだは平気だった。足のほうに気が行く。
止まったときに、地面が近くなった。
「田所、顔まっしろだぞ」
佐藤が言った。
「うっせ」
「うっせじゃなくてさあ。保健室行けって」
「行かねえ」
佐藤は肩をすくめて、鉄棒のほうへ行った。それ以上は言わなかった。
***
給食は残さなかった。
コッペパンは味がしなかった。牛乳も、皿のスープも、喉を通る感覚だけが残った。
五時間目は、机に頬をつけて聞いていた。
先生は一度こっちを見て、何も言わなかった。
***
家に帰ると、誰もいなかった。
たたきに白いスニーカーはない。テーブルに何も置いていない。四時半には出たあとだった。
蓮はランドセルを下ろして、そのまま床に座った。座ってから、立てなくなった。
台所の床は冷たい。冷たいところに頬をつけていると、少しましだった。
***
湊が帰ってきたのは、五時を回ってからだった。
「ただいまー」
返事をしなかった。
湊が廊下からのぞきこんで、それから走ってきた。
「兄ちゃん、大丈夫!?」
「なんもねえ」
湊はランドセルを背負ったまま冷蔵庫を開けて、麦茶のポットを両手で出した。コップに注いで、半分こぼした。
「はい」
蓮は受け取って飲んだ。
「あとね、これ」
湊が持ってきたのは、昨日の残りのウインナーだった。皿に乗せて、ラップもかけずに持ってきた。
「食えねえよ」
「でも……」
「いいから置いとけ」
湊が皿を置いて、それから廊下のほうへ走っていった。
戻ってきたとき、手に電話の子機を持っていた。
「かあさんに電話する」
蓮は顔を上げた。
「やめろ」
「だって」
「勝手なことすんなって言ってんだろ」
声が出すぎた。
思っていたよりずっと大きく、喉の痛いところを引っかいて出た。
湊が止まった。子機を持ったまま、口を半分開けて止まった。
台所の音が、換気扇だけになった。
蓮は息を吸って、吐いた。
「……うつるから。部屋、戻ってろ」
湊は子機を廊下の台に戻して、自分の部屋へ行った。ふすまは閉めなかった。
***
その夜、蓮は居間で寝た。
いつもは、湊と同じ部屋で寝ているが、うつすわけにはいかない。この日は布団を居間に敷いて、襖を閉めた。
夜、天井の木目を見ていた。木目はグラグラと歪み、安定しない。
ガンガンと痛む頭とぼんやりと薄れる視界で、何も考えられない。
荒い呼吸のまま、それでも意識は遠のいていった。
***
蓮は夢を見た。
***
知らない家の長い廊下に一人、立っていた。
廊下を歩き、リビングに向かう。床は、どこも軋まなかった。
リビングの窓からは、明るい朝日が差し込んでいる。
台所から油の音がしていた。玉ねぎの匂いと、味噌の匂いが混ざっていた。
母がエプロンをつけて、こちらを見て笑った。
髪の毛はきれいに整えられ、目の下のクマもなかった。
「もうすぐできるからね」
テレビの前で弟が笑っていた。笑顔の口元からは、きれいに生えそろった歯がのぞいていた。
ダイニングの椅子には、父が座っていた。
机にはコーヒーが置かれ、新聞を開いていた。
顔は、よく見えなかった。見えないのに、笑っているのが分かった。
四人で朝ごはんを食べた。皿は四つあって、どれにも山ほど乗っていた。
***
気が付くと、公園にいた。
芝が青くて、穏やかな風が吹いている。
父がグローブを投げてよこした。革が硬くて、指のつけ根が入らない。
「そのうち馴染むよ」
蓮はボールを投げた。父が捕った。父のグローブからは、乾いた音がした。
父が投げた。蓮の手のひらに当たって、しびれが肘まで来た。しびれているのが、うれしかった。
何度も投げた。何度も返ってきた。
周りでは、母と弟が笑っていた。
暖かい日差しに、幸せな空間。
ずっと、続けばいいと思った。
風が向きを変えた。
蓮の指がすべった。
球は高く上がり、父の顔のほうへ落ちていった。
***
音がしなかった。
父が両手で顔を押さえた。
「ご、ごめん! 父さん!」
蓮は走った。さっきまできれいだった芝は、グニャグニャとぬかるみ、蓮の足を取った。
そんなに遠くないはずの父との距離は、いくら走ってもなかなか縮まらなかった。
やっと着いて、父の腕を掴んだ。
父が手をどけた。
父の顔は、ボールの当たったところにひびが入り、乾いた土のようになっていた。
頬から先が、ぼろぼろと欠けて、指の間を落ちていった。落ちたところは粉になって、風に舞っていった。
「ひどいじゃないか、蓮」
父が言った。
目と口があったはずの場所には、深い暗闇が広がっていた。
「キャー!」
母の声だった。うしろで弟が泣いていた。
蓮は頭を抱えた。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
「蓮、助ケテ、レン……」
父の首から下も、ぼろぼろと崩れはじめていた。肩が落ちて、腕が落ちて、それでも手だけが蓮のほうへ伸びてきた。
弟の泣き声と母の泣き声が、頭のなかで重なって、割れた鐘みたいに鳴りつづけた。
視界が歪んだ。血の気が下がっていくのが、足のほうから分かった。
気づけば、真っ暗闇に一人立っていた。
蓮は自分の手を見た。
体が、白っぽく乾いていた。
爪のあたりから欠けて、粉になって落ちた。
「あ、ああ!」
いくら叫んでも、身体の崩れは止まらなかった。
***
目が覚めた。
外はまだ暗かった。
背中が汗でびっしょりと濡れていた。シャツが張りついて、寝返りを打つと冷たかった。
心臓が耳の奥で鳴っていた。
「兄ちゃん」
すぐ横で声がした。
「兄ちゃん、死んじゃいやー!」
湊が布団の脇に座って、泣いていた。しゃくりあげて、そのたびに肩が上下していた。
蓮は起き上がった。寝る前と違い、すんなりと起き上がれた。
頭が重くない。喉も、唾を飲みこんでみたらふつうに通った。額に手をあてた。汗はかいているが、熱くはなかった。
時計は四時を回っていた。
「なんで起きてんだよ、お前」
「だって、兄ちゃん、うなされてたんだもん! うぅ、うぅって!」
「言ってねえよ」
「言ってたもん」
湊の鼻から垂れた鼻水が、口のところまで来ていた。蓮は袖でそれを拭った。
夢の中で崩れていった顔とは違い、湊はそこにしっかりと存在していた。
「大丈夫だから、もう寝ろ」
そう言った。
言ってから、蓮は少しのあいだ黙った。
「……心配かけてごめんな」
湊の頭を、片手で軽く引き寄せた。
湊はしゃくりあげたまま、蓮のシャツを両手で掴んだ。
***
四時十五分の部屋は暗かった。
蛍光灯の紐が天井から垂れて、先のほうが暗がりに溶けていた。
壁の薄いむこうで、誰かのテレビがついていた。ずっと同じ音量で、言葉までは聞き取れなかった。
外の階段を、新聞屋の足が鉄板を鳴らして上がっていった。
***
湊を寝かしつけてから、蓮ももう一度寝た。
朝は六時十分に目が覚めた。目覚ましは鳴っていない。
シャワーを浴びた。給湯器が三回鳴ってから湯になった。
米を炊いて、卵を割った。
「兄ちゃん、もう平気なの」
「もう大丈夫だって」
「ほんと?」
「ほんと。ほら、遅れんぞ」
身支度を終えた湊が、玄関で靴を履いていた。
「ほら、かかと」
湊は靴に指を突っ込んで直した。
「いってきます」
ドアが閉まって、鉄の板の音が三回なって遠ざかっていった。
***
その夜、蓮はテーブルの前で爪を切っていた。
爪のあいだの黒い線は、まだ取れていなかった。
反対の親指の腹で、縁を削った。
削っても、線は取れなかった。
もう一度、強く削った。
爪の先が、白く粉になって、テーブルの木目に落ちた。
蓮はそれを指で払った。




