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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 天宮ひかり編
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chapter-09: 少年 第一節 日常

六時十分に目が覚めた。


目覚ましは鳴っていない。鳴る前に起きるようになって、もう長い。


布団を出ると、部屋の空気が冷えていた。息は白くならない。それくらいの、十一月の終わりの寒さだった。


玄関のたたきに、白いスニーカーがあった。かかとを踏んだままで、片方だけ横を向いている。明け方に帰ってきたやつの脱ぎ方だ。


台所の電気はつけない。ふすま一枚のむこうが母の部屋だから、つけると明かりがそこまで届く。


蓮(れん)は換気扇の下の豆球をひねった。


冷蔵庫を開けた。


卵が三つ。ウインナーが半袋。ゆうべの米が、茶碗に入ったままラップをかぶっている。麦茶のポットの水位は、底から指二本ぶん。


開ける前から分かっていた。分かっていて、それでも一回開ける。


卵はひとつしか使えない。あと二つは明日の朝と、明後日の朝の弟の分になる。


フライパンを弱火にかけて、ウインナーを三本落とした。強い火にすると音が跳ねる。じじ、と低いところで鳴るくらいがちょうどいい。


卵を割って、白身の縁が固まるまで待った。


***


「おい、湊(みなと)」


布団の膨らみを、足の裏で押した。膨らみは動かなかった。


「おい。──起きろって」


二度目で、髪が出てきた。寝癖が右に立っている。


湊は目を開けないまま座った。座ったまま、しばらく前に傾いていって、また戻ってきた。


「食う?」


「たべる」


テーブルに茶碗を置いて、皿を置いて、箸を置いた。


「こぼすな」


「うん」


「先、食ってろ」


蓮は流しの前に立って、湊が食うのを見ていた。


ウインナーは三本のうち二本が湊の皿にある。目玉焼きも、黄身のあるほうを湊に寄せた。醤油は湊がかける。かけすぎるので、瓶は蓮が持っている。


湊が箸を置いてから、蓮は残りを自分の皿に集めた。米は茶碗の底に半分あった。それで足りる。


食うのは早い。三分もかからない。


「ごちそうさま」


「ランドセル。廊下に置きっぱなしにすんなって言ったろ」


「はーい」


七時四十分に、湊が玄関で片方の靴に足を突っ込んで手間取っていた。


「かかと」


湊が靴に指を突っ込んで、かかとを起こした。


「いってきます」


ドアが閉まって、外階段を降りる音が、鉄の板を三回鳴らして遠ざかった。


湊は公園の集合場所まで走っていく。班長は隣の棟の六年の女子だ。


蓮は班に入っていない。去年、入らなくていいことになった。


ふすまのむこうは静かなままだった。


蓮は皿を流しに重ねて、水を切って、蛇口の栓をきつく締めた。


***


外に出ると、風が首のうしろから入った。


空は晴れていた。冬の朝の日は低くて、屋根の影が道の反対側まで伸びていた。日の当たらない側に、霜が残っていた。踏むと、しゃり、と鳴った。


歩くのはひとりだ。


県道に出る手前で、歩道橋の階段を上る。四十段ある。数えたのは去年で、それきり数えていない。


手すりの塗装は、上りきったあたりだけ剥げている。緑色の下から鉄の色が出ていて、朝はそこに霜が乗る。蓮は手を置かずに上った。手袋は持っていない。


橋の上から見ると、車の屋根が下を流れていった。


***


教室に着いたのは、始業の十分前だった。


窓のほうは日が入っていて、廊下側はまだ暗い。蓮の席はいちばんうしろの廊下側で、朝はそこがいちばん冷える。


うしろの黒板の前で、岸本(きしもと)と桑島(くわじま)が何か言い合っていた。桑島の声のほうが高い。


岡部(おかべ)が机のあいだを縫って歩きながら、鳥越台(とりごえだい)のアパートで犬が三匹まとめて逃げた話をしていた。昨日は自転車の話だった。


朝比奈(あさひな)は自分の席で本を開いている。開いているだけかもしれない。


日直の欄に、天宮(あまみや)ひかりが自分の名前を書き足していた。チョークの粉を指ではたいて、雑巾で黒板の縁を拭いて、それから席に戻った。字はきれいだった。


お利口さんすぎてキモい。


そう思って、蓮はランドセルをフックにかけた。


腕を組んで、その上に顔を伏せた。


朝の会のチャイムが鳴るまで、動かなかった。


***


昼休みは図書室に行った。


いちばん奥の、書架と壁のあいだの席が空いている。ここは司書の机から死角になる。


棚の下の段に、歴史の学習まんがが並んでいる。蓮は七巻を抜いた。七巻は戦国で、七巻がいちばん人が死ぬ。


読んだのは四回目か、五回目だった。


金曜だけは違う。


佐藤(さとう)が兄貴のお下がりの少年誌をランドセルに入れてくる。読み終わったやつを、昼休みのあいだ回してくる。


「田所(たどころ)。返せよ、五時間目の前に」


「分かってるっつーの」


佐藤は行ってしまう。それ以上は話さない。


蓮は背表紙の並びに雑誌を紛れ込ませて、壁のほうを向いて開いた。


紙が薄い。めくると、指のはらに繊維が引っかかる。


***


給食は残さなかった。


牛乳も、コッペパンの端も、皿の底に溜まったスープも。


桑島がにんじんを皿の縁に寄せているのが見えた。寄せたまま、片づけに行った。


蓮は自分の皿を見た。皿は空だった。


食缶におかずが残っていたので、おかわりの列に並んだ。並んだのは蓮と、あと男子が二人だった。


***


放課後、まっすぐアパートに帰った。


外階段の下が駐輪場になっている。屋根はない。自転車は三台しか停まっていなくて、そのうちの一台が蓮のだ。


前の持ち主は父だった。サドルを二回上げて、いまの高さになっている。


蓮はしゃがんで、チェーンに指をかけた。


指のはらでたどると、どこが渋いか分かる。渋いのは後ろの歯車に近いところで、そこに黒いものが固まっている。ぼろ布で拭って、油を一滴落とした。落としすぎると埃を呼ぶ。


ペダルを逆に回した。渋さが、二周めで消えた。


ブレーキのワイヤーは、引きしろが指一本ぶん余っている。締めた。ゴムは片減りしていて、リムに当たる角が丸くなっていた。あと一年はもつ。


前輪の空気が甘かった。空気入れは家にない。ポンプは学校の駐輪場のがいちばん近い。


蓮は前輪を親指で押した。押した指のかたちに、タイヤがへこんで、戻った。


こういうのは、なぜか、分かる。


鉄でもゴムでも布でも、こっちが正しく触れば言うことをきく。


──俺、これだけはうまいんだよな。


ほかにろくなものがない、とまでは考えないで、蓮は立った。


***


部屋に上がると、電気は消えていた。


たたきに白いスニーカーはない。テーブルに五百円玉が二枚あって、その下にレシートが裏返して置いてあった。


「なにかかってたべて ごめんね」


蓮は二枚をポケットに入れた。買わない。米は炊けばある。


湊は五時過ぎに帰ってきた。ランドセルを廊下に置いた。


「置くな。そこ」


「はーい」


米を研いだ。三合。明日の朝の分まで炊いておく。


卵は二つ残っていた。ひとつは明日の湊の分だから、もうひとつをウインナーの残りと炒めた。冷蔵庫に玉ねぎが半分あったので、それも切った。


切ると目にしみた。しみたので、目のふちを手首でこすった。手首には昼間の油がついていた。


「兄ちゃん、泣いてる」


「玉ねぎだっつーの」


湊が笑った。笑うと歯が一本足りない。先月抜けたやつがまだ生えてこない。


***


飯のあと、湊が算数のプリントを持ってきた。


「これ、わかんない」


「どこが」


「ぜんぶ」


蓮はプリントを見た。九たす六。繰り上がりだ。


湊は九から数える。数えるから指が足りなくなって、途中で止まる。止まると最初から数え直す。それを二週間やっている。


「十にしろ」


「じゅう?」


「九に、一足す。十になるだろ。六から一取ったから、五。十と、五」


湊は自分の指を見ていた。それから、もう一度、プリントの九を見た。


「……じゅうご」


「おう」


「じゃあ、これは?」


「八たす七だろ。おなじだよ。八に二足して十。七から二取って五」


「じゅうご!」


「うるせえ、声。夜だっつーの」


湊が声を落として、鉛筆を握り直した。舌が唇の端から出ている。書くとき出るのは、母もそうだ。


蓮は立って、風呂の湯を張りに行った。


***


湊が風呂に入っている音がしていた。


蓮はテーブルの前に座っていた。テレビはつけなかった。壁の時計が九時を回っている。


母が出るのは四時半で、帰るのは明け方だ。ファミレスのホールは十一時で終わるはずだった。そのあとのことは訊いたことがない。


父は、去年の夏に一度だけ帰ってきた。現場が遠いのだと母は言う。遠いのだ、と蓮も思っている。思っていることにしている。


爪の間に、黒い線が残っていた。昼間触った自転車の油だろう。


蓮は、爪のふちを反対の親指で削ってみたが、線は取れなかった。


何度かしているうちに、ふろ場の方から湊の声が聞こえてきた。同じ歌を、何度も歌っている。


蓮は爪を見るのをやめて、湊が上がるのを待った。

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