chapter-08: 歪み 第四節 記録
鳥居の前まで下りてくると、空の名残の明るさは、屋根の上に一線だけ残っていた。
家々に、灯りがともりはじめている。どこかの台所から、夕飯の匂いがまた、道の上を横切った。
分かれ道まで来ると、ひかりは左へ折れた。行きに、右へ折れた道だった。
ルナは、ひかりの足元を歩いていた。薄い影のかたちで、音もなく。行きにあれだけ喋った猫が、帰り道では、ひとことも喋らなかった。
ひかりも、喋らなかった。
***
玄関の戸を開けると、味噌汁の匂いがした。
「おかえり。おそかったね」
台所から、母の声がした。
「ええ。ちょっと、見ておきたいものがあって」
「手を洗ってきなさい」
「はい」
夕飯のあいだ、誰も、ひかりの一日に気づかなかった。手の甲の擦り傷は、もう、どこにもない。
***
自室に上がって、机の灯りをつけた。
引き出しの奥から、ハンカチを出して、ひらく。
何も、載っていなかった。
去年の秋から集めて、色別に並べてきた粒は、今日の杉並でぜんぶ使い切った。ハンカチは、ただの白い布に戻っていた。
内ポケットから、灰色のひと粒を出す。夏の入り口の、あの一羽の。手元に残ったのは、これだけだった。しばらく手のひらで転がして、内ポケットに戻した。
つぎに、青みがかった結晶の留め具を出して、灯りにかざした。
青の奥に、光の粒が沈んでいる。台座の金具は細くて、冷たい。何のためのものなのかは、わからなかった。
親指と人差し指で、挟んでみる。手持ちの粒と、同じ挟み方だった。力をこめれば、たぶん、割れる。割れば、何かが一度だけ、出てくるのかもしれない。
指から、力を抜いた。
──ひとつしか、ないんだもの。もったいない。
留め具は、祖父の鎌の隣に、そっと置いた。
それから、引き出しの隅の裁縫セットから、針を一本出した。
針先を、左の人差し指の腹に当てる。ためらわなかった。
ちく、と赤いひと粒がふくらんだ。痛い。
その痛みに、意識を寄せる。
すっと、ひいた。
赤い粒の下で、皮膚がもう閉じている。杉並で、胸の折れたものが繋ぎ直されたときと、同じ感触だった。ずっと、ちいさいだけで。
ひかりは指の腹を撫でて、跡のないことを確かめた。針を裁縫セットに戻す。二度目は、しなかった。
最後に、ベッドに腰かけて、目を閉じた。
黒い羽を呼ぶときの要領で、奥へ、手を伸ばす。三つの気配と、祖父の手の、そのさらに奥。今日から、新しいものがひとつ、そこに沈んでいる。
触れた。
長い回廊だった。壁という壁を、天井まで届く棚が埋めている。棚の背に、読めない文字がぎっしり並んで、廊下の奥は暗がりのなかへどこまでも続いていた。手近な一冊に手を伸ばして──届かなかった。広すぎる。今夜ぜんぶを歩くには。
ひかりは手を引いて、目を開けた。
部屋は、もとの部屋だった。机の灯り。カーテン。膝の脇に、薄いルナ。
──いそがなくて、いい。ぜんぶ、もう、ここにあるんだから。
***
ルナは、膝の脇の決まった場所で丸まっていた。毛の流れは、杉並で見たときよりもさらに薄い。目は、閉じられていた。
ひかりは、引き出しを音を立てずに閉めた。
「……また、集めないとね」
ちいさな声だった。ルナは、答えなかった。
灯りを消した。
杉並の方角の空が、ほかよりすこし低い。風がそちらから来て、カーテンをひと揺れさせて、やんだ。
机の上で、祖父の鎌と青みがかった結晶が、暗がりのなかに並んでいた。




