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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 天宮ひかり編
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chapter-08: 歪み 第三節 収蔵

それから、いくつの交差を数えたか。


斬って、躱された。裂いて、ふさがれた。呼び戻した刃は二度まで弾かれ、三度目は指にも掛けてもらえなかった。引き出しから呼べる粒はぜんぶ割って、冷えの隙に羽で背後を取った。爪が裂いたのは、コートの布だけだった。


こずえの上の空から、赤みが抜けていった。杉並の暗がりは深くなり、夜目だけが男の輪郭を拾いつづけた。息が上がっていた。膝が重かった。手の甲の擦り傷は、数えるのをやめていた。


男は、はじめの場所から、ほとんど動いていなかった。


「ふむ」


何度目かの着地のあとで、男が言った。声から、面白がる色が剥がれていた。


「同じだな。さっきから、同じことの繰り返しだ。工夫は買うが、積み上がらん」


男は、もてあそんでいた珠をコートの内へ戻した。


「もうよい。じゅうぶんに観た。これより先は、記録の値も増えん。──嘆かわしいことだ」


ひかりは、答えの代わりに地を蹴った。低く、刃を引いて、最後の間合いへ。


男が、はじめて、自分から前に出た。


躱すのでも、受けるのでもなかった。コートの裾を鳴らして、振り下ろされる刃とすれ違う。節のひとつ多い指が、あり得ない角度にもうひとつ折れて、切っ先の下をくぐった。


気づいたときには、懐に入られていた。


指が一本、伸びてきた。


突きでも、打撃でもなかった。図書室の棚で、本の背に指を置くときの、あの手つきだった。胸の真ん中に、指の腹が、そっと触れた。


それだけだった。


熱と冷えが、同時に走った。体の奥で、見えない手が内臓の輪郭をなぞっていく。膝から、力が抜けた。


「これが、わたしの本領だ」


男の声が、頭の上から降った。


「癒す手は、壊す手でもある。──識っていたか? いや、識るまい。お前は、何も」


指が離れた。次の瞬間、ひかりの体は宙に浮き、背中から杉の幹に叩きつけられた。胸の奥で、何かの折れる音がした。


口のなかに、鉄の味が広がった。


視界が白く濁って、砂利の冷たさが頬に当たった。倒れた、とわかったのは、それからだった。


助けは、ない。ルナは散らされたきり、目に映らない。杉の根元に倒れたひかりと、見下ろす男のほかに、この一角には誰もいなかった。


息を、しようとした。


できなかった。胸のなかの何かが、肺の動きを塞いでいた。


耳の奥で、高い音が鳴りはじめた。細い、一本きりの音。男の靴が砂利を踏む音も、こずえの風も、その一本の向こうへ順番に沈んでいった。


視界の白に、端から黒が滲んでくる。滲みは止まらず、男の輪郭を呑み、杉の幹を呑んで、最後に暮れ残った空のひときれだけが残った。


それも、暗くなる。


頬の下の土だけが、冷たかった。


土が、冷たい。


──知っている。この冷たさを、知っている。


***


斜面を、落ちた。


体が、何度も、何かにぶつかった。


痛くて、怖くて、朦朧として。


土が、冷たかった。


おじいちゃんを見つけて、おじいちゃん、と呼んだ。


そこから先は、曖昧で。


気がついたら、自分の足で、山を降りていた。


***


耳の奥の音が、ふっつりと途切れた。


冷たい砂利の上で、遠い場所と遠い時間の断片が、ひとつながりになっていた。


ひかりは、目を開けた。


男は、そこにいた。見下ろしていた。とどめを急ぐ気配はなかった。倒した標本を、まだ眺めていたいらしかった。


ひかりは、口のなかの鉄を呑んで、声を出した。低く、掠れていた。


「まだ、殺さないのね」


「殺す?」男は両手を広げた。「とんでもない。お前ほどの上玉(じょうだま)を、観もせずに潰すものか。──それにな、地に伏せた者に教えてやれることは、山とある。聞きたいだろう? 無知な者ほど、最期に識りたがるものだ」


ひかりは幹に背を預けたまま、男を見上げた。コート。透けた肌。襟元の青い結晶。モノクルの奥の、満ちた目。


「あなたは、どこから」


男は、嬉々として語りだした。


「彼方からだ。お前たちの貧しい言葉に置くなら──記録者、と言えばよいか。司書、でもよい。並び立つ無数の世界を渡り、観たものを蒐め、分類し、名をつける。それがわが一族の務めだ。──おお、その顔。世界がひとつきりではないことすら、初耳か。ハッハッハ。よい、識らぬのは罪ではない。識ろうとせぬのが罪だ」


記録者。司書。無数の世界。知らない言葉が、ひとつずつ、ひかりのなかに並んでいった。


「わたしを、辿ってきたの」


「辿った先に、お前がいた」男はモノクルの位置を直した。「ここ数十年、いくつもの世界が崩れ、蝕まれている。原因は誰も識らん。わたしはその起点を蒐めにきた。世界をひとつ崩しかねん気配を辿ったら──何も識らぬ小娘に行き着いた。皮肉なものだ」


「気配。わたしの、何が」


「お前の、その力よ」男の声に、講釈の重みが乗った。「彼方の言葉では、収束する力、と呼ぶ。屠(ほふ)った小さきものを己のうちへ取り込み、ひとつに納める力。獣を、人を、やがては世界そのものを。──よく聞け。これが、わたしからの最大の贈り物だ。お前こそが、この世界の、侵食の起点になりうる。識らぬまま、お前はもう、世界を呑みはじめている」


ひかりは、黙って聞いていた。まばたきが、ひとつ落ちただけだった。


男がひとつ取り違えていることには、気づいていた。正してやる理由は、なかった。


「あなたは、わたしに、何を、伝えにきたの」


男は、はじめてわずかに言葉を選んだ。


「伝える? ──いや。蒐めにきた。お前を識り、記録に収めるために。だが、せっかくだ。識らぬまま終わるより、識って終わるほうが、いくらかは救いというもの。それくらいの慈悲は、くれてやろう」


言い終えて、また嗤(わら)った。モノクルの奥に、責める色も、教える誠実さもなかった。ただ、満ちた優越だけがあった。


ひかりの目の縁に、水がふくらんだ。


一粒、頬を伝って、顎の先から砂利に落ちた。


「……やだ」


声が、揺れた。落ち着いた、音量の変わらない、あの声ではなかった。十二歳の、ただの子供の声だった。


「死にたく、ない」


男の眉が、持ち上がった。


「ほう?」


「お願い。殺さないで。なんでもする、から」


ひかりは幹から体を剥がして、砂利に両手をついた。頭が、下がる。肩が、細かく震えていた。どの言葉が男を悦ばせるか──考えるより先に、口が動いていた。


「おお」男の声が、弾んだ。「おお、おお! 泣くか、乞うか。標本が、ようやく標本らしくなったではないか」


男は歩み寄り、腰を折って、倒れた獲物の高さまで目線を下げた。はじめて、見下ろすのをやめた。近くで観るためだった。


「よいぞ、続けろ。無知な仔の命乞いなど、彼方でも滅多に聴けん」


「わたし……価値が、あるんでしょう? 珍しいんでしょう?」


涙は止まらないまま、言葉だけが続いた。


「なら、殺さないで、連れて帰ればいい。誰も見つけられなかったものを、あなたが見つけたって……一族のひとたち、みんな、驚くでしょう? あなたの、手柄になるでしょう?」


男が、黙った。


モノクルの奥の目が、そのあいだだけ、笑っていなかった。


「……ふ。ふふ」


やがて漏れた声は、これまでのどの笑いとも、違う低さで揺れていた。


「言うではないか、無知な仔よ」


「それに、あなたの言ったとおりだった」ひかりは、頭を下げたまま続けた。「知ろうとしないのが、罪なんでしょう? わたし、知りたい。あなたのこと。彼方の世界のこと。まだ、ぜんぶ知らないまま、死にたくない。……ついていく。ずっとついて回って、いろんなことを、教わりたい」


砂利の上で、ひかりの手が男のほうへ、すこしだけ伸びた。


男は、その手を、しばらく眺めていた。


「──うむ。よかろう」


ゆっくりと身を起こす。声に、満足が滲んでいた。


「識りたいと願う者を、無下にはせん。命乞いなら聞き飽きるほど聴いてきたが、教えを乞われるのは──悪くない。連れて帰ってやろう、無知な仔よ。彼方でお前は、わたしの蒐集の、いちばんの誉れとなる」


「ありがとう、ございます」ひかりの頭が、砂利につくほど下がった。「ありがとう、ございます。……あの。あなた様のことは、なんと、お呼びすればいいですか」


男が、コートの裾をさばいた。胸を反らし、芝居がかった一礼の構えを取る。声が、張られた。


「よくぞ訊いた。心して刻むがいい。彼方に、その名を識らぬ者はない。──記録者、ヴァナ・コーデクス。以後、そう呼ぶことを許す」


名が、杉並に響いた。


「ヴァナ・コーデクス、さま……」


ひかりは、口のなかで、その音をなぞった。


なぞり終わらないうちに、体が傾いた。


演技では、なかった。砂利についていた手から力が抜けて、ひかりは横ざまに崩れた。胸のなかの折れたものが、動いた。息が、細い笛の音に変わった。視界の端が、また黒くなりはじめていた。


「おっと」


男は、倒れたひかりを眺めて、軽く眉を上げた。


「いかん、いかん。このままでは死んでしまうな。……仕方のない。拾うと決めた蒐集品だ、手入れくらいは、してやろう」


男が、踏み出した。長い指が、癒すかたちにひらかれて、伸びてくる。


その指が届くより、さきに。


砂利に伏せたひかりの口の端が、持ち上がった。目元からさきにやわらぐ、あの笑みではなかった。ニヤリ、としか言いようのない笑みだった。誰にも見せたことのない顔を、じきに消えるものだけが見る。


「ああ……ありがとう、ございます──」


細い息のまま、声だけが、笑っていた。


「ヴァナ・コーデクス様……」


ひかりのなかで、強いめまいが走った。視界が白く揺れ、砂利ごと体が沈む。クラッ、というあの感覚が、これまでのどれよりも深かった。


地面の一点から、黒い線が円をひいた。線は幕になり、幕は天まで伸びて、ひかりと男を筒のかたちに包んだ。


伸ばされた指が、届かないまま、止まった。


幕のなかで、男の輪郭が、薄く折り畳まれていく。


その途中で、声にならない声が、空回りをはじめた。


なんだ。何が、起きた。


吸収──された? このわたしが。癒してやろうと、手を伸ばした、このわたしが。


最後に見えたものが、戻ってくる。砂利に伏せたまま、笑っていた口。乾いた、目。


……泣いて、いなかった。


命乞いも。平伏も。ついていきたいと伸ばされた、あの手も。呼び名を訊いた、あの声も。


観ていたのは、わたしではない。観られていた。値踏みされていたのは、最初から、わたしのほうだ。


名だ。名を呼ばれて、これが起きた。わたしが、乞われるまま教えてやった名を。


打ち倒されてもいない。屈してもいない。名を識られた──ただそれだけで、これが成るのか。そんな力が、あってよいはずが──


「ありえぬ……!」


言葉になったのは、それだけだった。長い指が、ほどけていく輪郭のなかで空を掻いた。蒐めるはずだった手は、蒐められる側で、何も掴めなかった。


胸のなかで、折れたものが、しずかに繋ぎ直された。肺が、ふくらみ方を思い出す。口の鉄の味も、頬の擦り傷の熱も、順番にひいていった。


入れ替わりに、流れ込んでくるものがあった。


よく喋る、低い声。見たことのない空の色。長い回廊。壁という壁を埋めて、天井まで届く高い棚。暗い色の長衣の人たちが、その前を行き交っている。


回廊の隅に、まだ若い男がいた。蒐めたものを、年嵩の者たちに差し出している。まだ足りぬ。この程度か。その齢(よわい)で、それを誇るか。差し出した手は一瞥だけを受けて、行き場をなくして下りた。よその口には讃えられても、その背中たちからだけは、一度も、見事だと言われたことがない。


その渇きがひと粒、ひかりの奥に落ちて、静かに置かれた。


一族のひとたち、驚くでしょう。──あの涙声がどこへ落ちたのかを、ひかりは、あとから観た。


観たものを片端から分類し、名づけずにいられない目も、一緒に流れ込んだ。そして、置き去りにされたひと言──お前が侵食の起点になりうる──も、どこかに落ちてそのまま沈んだ。


黒い幕が、下から崩れるように消えた。


杉並の下は、もう夜の色だった。空にだけ、最後の明るさが残っていた。ひかりは杉の根元に座ったまま、目を開けていた。どこも、痛くなかった。


ひかりは、ゆっくりと顔を上げた。こずえの向こうの、暮れ残った空へ。


「……あはっ」


こぼれた。


「あは、あはははっ」


十二の少女の声ではなかった。低くて、澄んでいて、この世のものでない艶があった。喉の奥から指の先まで満ちていくものが、そのまま声になってあふれた。夕暮れの杉並に、その笑いだけが、しばらく響いた。


やがて、ひかりはふっと口を閉じた。何ごともなかった顔が、そこに戻っていた。


砂利の上に、ちいさなものが落ちていた。


青みがかった結晶の、細い金属の台座のついた留め具。男の襟元で光っていたものだった。


拾い上げると、結晶は冷たかった。何なのかは、わからなかった。それでも、手放す気にはならなかった。ポケットに入れた。


空気が、ひと揺れした。


ひかりの前で、紫紺の名残が、うっすらと寄り集まってきた。これまででいちばん薄い、いまにもほどけそうな輪郭だった。それでも、ルナはそこにいた。


「ひかりちゃん、いま、あなたは──」


声が、途切れた。ひかりを見るルナの目に、これまでなかった色が宿っていた。


ひかりは、笑ってみせた。目元からさきにやわらぐ、あの笑みより、すこし静かな笑みだった。


「だいじょうぶ。どこも、痛くない」


ひかりは体を起こして、砂利の上のランドセルを拾った。肩にかける。暗くなった杉並の、出口のほうへ歩き出す。


「帰ろう、ルナ」

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