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まだ、夢の途中  作者: 神座 紫苑
第一部: 潜伏期 ─ 天宮ひかり編
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chapter-08: 歪み 第二節 標本

「ほう……これは、これは」


声は、音のなかった一角に、よく通った。幕のあく舞台で最初の口上を張るような、張りのある声だった。


「辿ってきた甲斐があったというものだ。豊かだな。実に豊かな──」


男はそこで言葉を切り、ひかりを頭から爪先まで、ゆっくりと眺めおろした。青いガラスの奥で、目が値踏みに動いた。


「そして、なんと無知な気配だ」


ひかりは動かなかった。


聞き取れる、と気づいたのは、すこし遅れてからだった。男の声には聞いたことのない訛りが底に沈んでいて、それでも、意味のわかる言葉になって届いていた。蝶も、猫も、九月のあのふたつ重なった子も、声を持たなかった。この男は、かたちを持ち、声を持ち、その声が通じる。


男は、ひかりの返事を待たなかった。首をめぐらせ、こずえを見上げ、勝手に語りはじめた。


「空の色が濁っている。膜はここまで薄いか。漏れの筋も、ずいぶん太い。──ああ、識(し)り甲斐のある世界だ」


ときどき、訳されない言葉がそのまま挟まった。そのたびに、襟元の青みがかった結晶が、ちいさく明滅した。


ひかりは口をひらいた。


「あなた……何者、なの」


「おぉ?」


言い終わらないうちに、男の声がかぶさった。


「これは驚いた。話すか。かくも矮小(わいしょう)な器が、言葉を操るか。己が何を宿しているのかも識らぬままに。──ハッハッハ! よいよい。無知とは、なんと愚かで、なんと愛らしい。標本として申し分ない」


問いは、答えられないまま宙に残った。


男は笑いを納めると、ふいに真顔になった。鼻先を上げ、匂いを辿るように、視線をゆっくり下げていく。ひかりを通り過ぎて、その斜めうしろへ。


ひかりは振り向いた。


数歩離れた杉の根元に、紫紺の影がうずくまっていた。細道に残ったはずのルナが、そこまで来ていた。毛の流れは薄く、輪郭ごしに、幹の縦の線が透けていた。


「──貴様か」


男の声から、張りが消えていた。


「わたしの通り道を、長々と閉じ直していたのは。開くはずの隙間が、幾度も幾度も塞がれた。この体を持ち出すだけで、どれほど手間をかけたことか。──それが、こんな、ちっぽけな獣とはな」


ルナは逃げなかった。座ったまま男を見上げて、それから、ひかりを見た。


何かを言いかけた、その口のかたちだけが、ひかりに残った。


男が、長い指を無造作に振った。


音はなかった。ルナの輪郭が、指の動きをなぞるようにほどけた。紫紺の名残がしばらく宙に浮いて、消えた。あとには砂利と、杉の根だけがあった。


散らされただけだ。この猫は幾度も薄れて、そのたびに戻ってきた。杉並の静けさはいまも破れないまま、この一角を外の世界から隔てている。ただ、ひかりの目に、ルナは映らなくなった。


ひかりは、ルナのいた場所を見た。それから、男を見た。


まばたきが、なくなっていた。


ランドセルを、砂利の上に下ろした。留め具の鳴る音が、静けさのなかで、やけに大きかった。


「おお」男の眉が持ち上がった。「その目。よい目だ。──標本が、牙を見せおる」


指の先で、爪が延びた。三毛猫の、硬く反った爪。夕闇の杉の影が、カラスの夜目のなかで濃淡を分けはじめた。


ひかりは地を蹴った。


三歩で間合いが消えた。爪が届く寸前、男の輪郭が横へ滑った。避けたというより、はじめからそこにいなかったような動きだった。


「足は獣、目は鳥」と男は言った。「寄せ集めだな。よくもまあ、これだけ脈絡なく蒐(あつ)めたものだ」


ひかりは手のひらを横に開いた。台所の、母がいちばん使う包丁。柄の感触が、呼んだ次の瞬間には手のなかにあった。


振り下ろす。空を切る。返す刃で薙ぐ。切っ先は、コートの裾だけを掠めた。


男の手足は、人の関節の数で動いていなかった。読めたはずの軌道が、途中でもうひとつ折れる。刃をかいくぐる姿勢のまま、男は口を閉じなかった。


「刃筋だけは人のものか。それも借り物だろう。──お前のものは、どこにある?」


ひかりは包丁を投げた。


男の顔へ、まっすぐに。男が身を反らす。その裏で、ひかりはもう走っていた。刃が幹に届くより早く、包丁を手のなかへ呼び戻す。男の背中へ、下から薙ぎ上げる。


刃は、二本の指に挟まれて止まった。


節のひとつ多い、長い指だった。男は肩ごしに振り向いて、笑った。


「ほう。得物を呼び戻すか。小賢しい手を覚えおる」


指がわずかにひねられ、刃が弾かれた。ひかりは柄を手放して跳びすさった。砂利の上で二度はねて、止まった。


爪が男の肩口をとらえたのは、その次の交差だった。透けた肌に細い傷が走って、走ったそばから、閉じた。


「無駄だ」男は袖を払いもしなかった。「わたしの傷は、わたしが許すまで残らん。──ああ、その顔。識らなかったのだな。教えてやろうか?」


ひかりは答えず、雀の目を重ねた。男の細部が急に近くなる。指の節の数。詰襟の隙間で揺れる、透けた肌。モノクルの奥の、笑っている目。


肩甲骨の外側で、黒い羽が開いた。


地を蹴り、こずえの高さから、包丁ごと落ちた。男は見上げたまま体をひねった。刃は砂利を割り、羽の起こした風だけが、コートの裾を揺らした。


「飛んだ、飛んだ!」男は手を叩いた。「結構、結構。だが届かん。何度跳ねたところで、無知は無知のまま跳ねているだけのことよ」


斬る。躱される。裂く。ふさがる。投げた刃が幹に立ち、呼び戻した刃がまた空を切る。二十を数える交差のあいだ、男の息はひとすじも乱れず、口だけが動きつづけた。


一度だけ、届いた。


三毛猫の脚で踏み込み、黒い羽で死角へ回った。雀の目が、関節の多い手のわずかな遅れを拾った。爪が、首筋の奥まで入った。


男の笑みが、止まった。


裂けた首筋は、笑みが戻るより早くふさがった。


「……ほう」


声に、これまでなかった色がひとつ乗った。


「悪くない。悪くないぞ、無知な仔よ。だが、遅い。何もかもが遅い。──それで全部か? そろそろ底が見えてきたぞ」


ひかりは跳びすさって、杉の陰に入った。息を整える。手札は、出し切っていた。


指の先に、次を呼んだ。机の引き出しの奥、ハンカチの上に色別に並べた、冷たいひと粒。ビー玉ほどの、淡い色の結晶が、指のあいだに現れた。


割った。


処理してきたちいさな生き物の、最後の力がほどけて、冷えの筋が男の足元へ走った。透けた肌の表で、それは何も起こさずに散った。


男が、笑い崩れた。


「ハッハッハッハ! それを使うか、それを! なんという子供騙しだ。路傍の小物から零れた屑を、後生大事に蓄えおって。──いいか、無知な仔よ。識らぬなら、教えてやろう。それは、こう使うのだ」


男はコートの内へ長い指を差し入れ、ひとつ、取り出した。


ひかりの粒より、ずっと大きい。ゴルフボールほどの珠だった。大きさだけではなかった。なかに、夜空が入っていた。幾重もの色が深く沈んで、渦を巻き、底のほうでちらちらと光っている。銀河をまるごと閉じ込めたような珠だった。ひかりの手の淡いひと粒が、色ガラスのおはじきに見えた。


男は、それを無造作に握り潰した。


指の隙間から、焔(ほのお)がこぼれた。


こぼれた、では済まなかった。火は見る間に幅のある奔流になって、地面を舐めながらひかりへ押し寄せた。杉並の夕闇が、端から端まで、真昼の色に染まった。


ひかりは跳んだ。羽のひと打ちで幹の高さまで。熱は、下から追ってきた。夜目が眩んで白に呑まれ、羽の根元を炎の縁が掠めた。幹を蹴って転がり、杉の陰に落ちる。焦げた羽の匂いがした。


焔は、杉のあいだでしばらく唸ってから、来たときと同じ唐突さで消えた。下草に移った火も、命じられたように細って、落ちた。


男の足元から、地面にまっすぐ、黒い帯が伸びていた。砂利が溶けて、飴のように照っていた。帯の両脇の幹は人の背の高さまで焦げて、細い煙をあげていた。


掠めただけで、羽が焦げた。あの帯の真ん中にいたら、どうなっていたか。考えるまでもなかった。


男の割ったひと粒は、ひかりの割ってきたどのひと粒とも、桁が違った。


「わかったか」


男の声には、出来の悪い生徒を前にした教師の満足があった。


「これが彼方(かなた)の技だ。お前の世界がまだ名前すら持たぬものを、わたしの世界は磨き上げ、使いこなしてきた。お前は、その上澄みのひと雫すら識らん。──だが案ずるな。識らぬまま終わるのも、無知な者にはふさわしい幕引きだ」


ひかりは幹の陰で身を低くしたまま、男のコートを見ていた。


あの珠は、ひとつではない。暗い布の陰に、まだいくつも眠っている。


割っても届かないことは、もうわかっていた。それでも、指のあいだに次のひと粒を呼んだ。指の先は冷えて、静かだった。


欲しい。


あの珠が。夜空ごと閉じ込めた、あの煌めきが。あの男が識っているという、そのぜんぶが。


男は、杉の陰のその目を見て、愉しげに声を揺らした。


「──おお。欲しいか。欲しいのだな、小娘。よい目だ、蒐める者の目だ。その渇きだけは褒めてやろう。だがな、欲しがるだけで手に入るのなら、世界はとうの昔に識り尽くされている」


男は二つ目の珠を取り出して、指の先で回した。回るたびに、なかの渦が巻き直された。


「よかろう、まだ観ていてやる。お前がどこまで足掻けるか。──それも、記録のうちだ」


ひかりは答えなかった。


杉の陰から、まっすぐに地を蹴った。

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