chapter-08: 歪み 第一節 謁見
はじまりは、いつも小さい。
八年前のあの日、光がひとまわりふくらんで、世界の法則は静かに書き換わった。ニュースはそれを三十秒で読み終えた。誰も続報を聞かないまま、八年が過ぎた。
そのあいだに、境目は薄くなっていた。
世界と、世界の、境目が。
闇に浮かぶ無数の球体は、あの日、ほんのわずかに身を寄せ合った。触れはしない。混じりもしない。ただ、いちばん薄いところから、互いに滲みはじめていた。
蝶の羽が、透きとおった石に変わる。
野良猫の尾が、夜の路地で硬く光る。
どこの街にもある、説明のつかない小さな出来事。あれはぜんぶ、向こう側から滲んできた雫だった。
そして、その雫がひとつ摘み取られるたび──ちいさな命が結晶の粒に変わって、誰かのてのひらに収まるたび──膜は、また少しだけ薄くなった。
薄くなった膜に、気づいたものたちがいる。
膜のこちら側を、じっと観ているものがいる。
測っているものがいる。
そして──すでに、渡ってきたものが、いる。
古い橋の手すりが一晩で錆び落ちた、と新聞は書いた。西の空の色が変だ、と子どもが言って、大人は笑った。世界は静かに混ざりはじめていて、それを知る者は、この街にはいない。
それを進めている手のひとつが、いま、五時間目の教室で鉛筆を握っている。
***
五時間目の教室は、眠たい匂いがした。
給食のあとの、陽に温められた木の机の匂い。埃と、チョークの粉の匂い。開いた窓から乾いた十月の風が入って、カーテンの裾を膨らませては、戻した。
社会科の授業だった。教師の声が黒板の前を行ったり来たりして、ノートの上を鉛筆の音が走っている。体育館のほうから、遠くホイッスルの音が届いた。隣の組が跳び箱をやっている。誰かが消しゴムを落として、椅子の脚がちいさく鳴った。
いつもと変わらない、秋の午後だった。
ひかりは窓辺の席で、板書を写していた。
手は動いている。文字は揃っている。
視線だけが、ときどき、窓の外へ流れた。
校庭の縁のずっと向こう。市の西側にひらけた丘陵地の、空のひとところ。
そこだけ、青の色が深く沈んでいた。
雲ではない。鳥の影でもない。
朝には、なかったものだった。
チャイムが鳴って、教室がいっせいに騒がしくなった。ひかりはノートを閉じ、筆箱に鉛筆をしまって、窓の外をもう一度だけ見た。
沈んだ一点は、まだそこにあった。
こちらを見ていた。
***
昇降口で葉月と別れた。校門を出ると、街路樹の銀杏が色づきはじめていた。まだ半分は緑で、高いところだけが黄色い。乾いた葉が一枚、ランドセルの肩をかすめて落ちた。
通学路をひとつ進んで、次の分かれ道で右に折れた。左が家で、右が上葉神社の鳥居へ続く道だった。
十月の四時過ぎ。日はもうだいぶ低くて、電柱の影が道の反対側まで届いていた。住宅街の家並みが切れると、道は細くなって、丘陵地の裾へゆるく上っていく。塀の上から柿の枝が越境して、青いままの実がいくつも下がっていた。どこかの台所から夕飯の匂いが流れてきて、道の上をひとすじ横切っていった。
しばらく歩くと、うしろに紫紺の猫がついていた。
「きょうは、まっすぐ帰らないのね」
「うん。ちょっと寄り道」
ルナはひかりの隣に並んで、しばらく黙って歩いた。鳥居が近づいたあたりで、思い出したように言った。
「ねえ、ひかりちゃん。帰ったら、呼び出しの続きを教えてあげる。もっと遠くのものを呼ぶコツ。あなた、知りたがってたでしょう」
「知りたい。帰ったらね」
ひかりは足を止めなかった。
鳥居の朱は、根元のほうが白っぽく褪せていた。くぐった先の境内に、人の影はない。手水舎の水盤に、杉の葉が何枚か沈んでいた。拝殿の軒下で、鈴緒がわずかに揺れていた。風は、なかった。
ひかりは鳥居に軽く頭を下げて、境内には入らず、玉垣の外側を上っていく細道のほうへ折れた。地元の子でも滅多に通らない道だった。苔むした玉垣の石のあいだに、傾いた光が橙の色を溜めていた。
ルナが先に出たのは、細道の上りにかかったところだった。数歩先の砂利の真ん中に座り、しっぽを前足に巻きつけて、道を塞いだ。
「そこから先は、だめ」
短い、低い声だった。
「どうして」
「あそこにいるのは、結晶の子たちとはちがうの。滲んでこぼれてきただけのものとも、ちがう。──自分の意志で、渡ってきたもの。いまのあなたでは、勝てない」
「勝てないって、どのくらい?」
「あなたが十人いても、届かない」
ひかりは黙った。砂利の上のルナの目を、しばらく見ていた。
「……そんなに、強いんだ」
ルナのしっぽの先が、砂利の上で一度だけ跳ねた。
「いま、欲しいって顔をしたわね」
「してないよ」
ひかりはルナの脇を通り抜けた。
ルナは追わなかった。座ったまま、細道の先の杉並を見ていた。恐れているふうではなかった。遠くの天気を測るような目だった。それから、ちいさく、ため息のかたちに息を吐いた。
「……死なないでね。まだ、死んじゃだめよ」
その声が届いたのかどうか、ひかりは振り向かなかった。
***
杉並に入ると、空気の温度が変わった。
高いこずえが空をふさいで、光は幹のあいだを、幾筋かに分かれて斜めに落ちている。踏むたびに、砂利の音が高く響いた。それくらい、静かだった。
奥へ進むほど、空気は冷たく、湿っていった。杉の匂いに、雨あがりの土のような匂いが混じる。雨は、もう十日も降っていない。
まっすぐ並んだ杉の幹の、その一角だけが、歪んでいた。視線を当てれば、幹は幹のかたちで立っている。目をそらすと、視界の端で、線がふらりと崩れる。地面の砂利まで、そこではあるべき場所から少しずつずれて置かれていた。
音のない一角だった。こずえの風も、遠くのカラスの声も、そこだけをよけて通っていた。
ひかりは、その手前で足を止めた。
歪みの奥から、視線がまっすぐに届いていた。学校の窓から感じたのと、同じ視線だった。一度も、そらされることがなかった。
空気が、ゆっくりとひらいた。
音はなかった。歪みの中心で、闇が一枚、内側へ折り返された。折り返された闇のなかに、細長い輪郭が、組み上がっていく。
まず、影が伸びた。人の背丈より、頭ひとつ高い。
影に、色が乗りはじめる。
暗い色の、長い外套。喉元まできっちり閉じた詰襟。裾が、風もないのに一度だけ揺れて、静まった。灰色がかった黒髪は、ほつれひとつなく後ろへ撫でつけられている。右の目に、青いガラスのモノクル。夕方の最後の光を受けて、それがちいさく光った。
長い指だった。手袋はしていない。その指の節が──多い。人の手より、関節がひとつずつ余っている。
詰襟の隙間から覗く首すじの肌は、薄く透けていた。肌の向こうに、杉の幹の縦の線が、うっすらと滲んで見えた。
男のかたちをした、男ではないものだった。
それは、ゆっくりと首をめぐらせた。杉の高さを見上げ、暮れかけた空の色を確かめ、それから、最後に、ひかりを見た。
薄い唇の端が、持ち上がった。
長い指が、モノクルの縁に触れて、位置をわずかに直した。
男が、口をひらいた。




