chapter-07: 久杉の森 第五節 わたしのなかに
その夜、ひかりはまた夢を見た。
手は、何もしていない。膝のうえに、置かれているだけだ。節の太い指の甲を、夕方の光が斜めに撫でていく。
向かいに、薄い灰色のカーディガンの人が座っている。胸元に、ちいさな丸いボタンがふたつ並んでいる。両手で包んだ湯呑みから、湯気がまっすぐにのぼっている。畳の上に、光が長く伸びている。
夢のなかの目は、その人を、ずっと見ている。あきるということを知らない見かたで、ずっと。この人がこのまま穏やかにいてくれればいい。胸のなかは、その願いだけで満ちている。
夢が薄れていくきわに、声が置かれた。低い、声にならない声だった。
──ゆっくりでええよ。あわてんでええ。
***
目が覚めた。
ひかりは天井を見たまま、動かなかった。
聞いたことのある声だった。どこで聞いたのかは、すぐに出てこなかった。出てこないのに、からだのほうが先に、その声をなつかしがっていた。
暗い天井に、ひとつずつ並べていく。
畑の草刈り。久杉の森のざわめき。砥石の上の鎌。おばあちゃんを見つめる目。ゆっくりでええよ、という声。
どれも、自分の手ではない。自分の目ではない。自分の声ではない。
なのに、どれも、わたしのなかにある。
ひかりはふと、祖父との最後の記憶をたどってみた。あれは五年前、今日と同じような秋のはじめのことだった。
七歳の、ある日の休日。
おじいちゃんとふたりで、近くの低い山に行った。
午前のうちの、山道のひとつめの分かれ目で、ひかりは先に道を外れた。なんでそうしたのか、もう覚えていない。脇道のさきに、なにか面白いものが見えた気がしただけだった。すぐに迷子になって、斜面のへりを、踏み外した。
落ちていく途中の、葉のざわめき。背中に当たった、固い土の感触。頭のなかに広がった、白い火花のような痛み。そこから先は、霧と、雨と、自分の足の指のさきが冷たくなっていく感覚だけが、断続的に、ひかりのなかにあった。
そのうち、おじいちゃんが、来てくれた。
斜面を降りてくる足音。古い帽子のつば。おじいちゃんの顔が、上のほうから、自分のほうへ近づいてきた。
ひかりは、おじいちゃんの名前を、ちいさな声で呼んだ。
おじいちゃん。
そこから先が、ずっと曖昧だった。
気がついたら、自分の足で、山を降りていた。泥のついた腕にも頬にも、痛みは、もうどこにも残っていなかった。そして、おじいちゃんは、帰ってこなかった。
ひかりは、ベッドの上でからだを起こした。
あの夢は、おじいちゃんの目線だ。
畑を刈る速さも、森の心地よさも、鎌の馴染みも。おばあちゃんを見つめるやわらかさも、あの声も。ぜんぶ、おじいちゃんのものだ。わたしのなかにある、おじいちゃんのものだ。
そして、おじいちゃんがわたしのなかにいるのなら。
あの日、祖父の名前を呼んだとき、わたしはすみちゃんやすずちゃんやみけにしたのと同じことを、おじいちゃんにもしていた。
罪悪感は、来なかった。
怖さも、来なかった。
来るはずのものが来ていないことには、うっすら気づいた。気づいて、それ以上は、追わなかった。
ああ、そうか、という納得だけが、しずかに残った。
***
ベッドの足元で、ルナが丸くなっていた。
目は閉じている。でも、眠っているときの閉じかたではなかった。
ひかりはルナを膝に乗せた。紫紺の毛は、帰ってきたころよりだいぶ戻っている。それでも、まだ薄い。背中をひとつ撫でて、手を止めた。
「ねえ、ルナ。あなたは、わたしのことを、どこまで知ってるの」
声は低く、揺れなかった。
ルナはゆっくり目を開けた。濃い褐色の目が、ひかりを見る。何も言わない。
ひかりは、急がなかった。並べてきたものを、順番に、ルナの前に置いていった。このごろ続けて見る夢のこと。畑。久杉の森。鎌を研ぐ手。おばあちゃんを、ずっと見つめている目。夢のなかの手は自分の手ではないのに、夢に出てきた鎌が、机の上にあること。
「あれは、おじいちゃんの目線でしょう。わたしのなかに、おじいちゃんがいるんでしょう」
ルナは、目を逸らさなかった。
ただ、紫紺の毛の流れが背中のひとところで乱れて、尻尾の先が毛布の上で一度だけ硬く止まった。
しばらくして、ルナが口をひらいた。声は低く、語尾の伸びが途中で止まった。
「そうね、ひかりちゃん。あのときあなたは、無意識に力を発動してしまっていた」
「……そっか、やっぱり」
ひかりの声も、揺れていなかった。
自分でたどった線を、ルナの言葉が上からなぞっていった。点と点が、ぜんぶつながった。
自分のなかの祖父の存在に気づいてから、ふと、感じる違和感があった。
それは、自分と、自分のなかで生まれる感情との、些細なズレ。
わたしが家族に感じている愛おしさも。
わたしが他者に向けている笑顔も。
今まで自分のものと疑わなかったそれらが、すっと、自分のなかから抜けていった。
形を成すのは、優しくて、いつも落ち着いていて、あたたかい笑顔を向けてくれた祖父との記憶。
──ああ、そうか。素のわたしは、こういう仕組みでできていたんだ。
はっきりとした気づきと納得が、そこにはあった。
***
ひかりはルナを膝から下ろして、机の前に立った。
布をめくる。刃が、電灯の下でにぶく光った。
柄を、握る。
夢のなかで草を刈っていた手の感触が、てのひらの奥から返ってきた。目を閉じる。すみちゃんと、すずちゃんと、みけのいる場所の、もうすこし奥。そこに、あの手がいる。
その感覚に、そっと意識を向けてみる。
てのひらに、鎌の重さとはべつの重さが通った。節の太い指の記憶が、ひかりの細い指をゆっくりなぞった。ゆっくりでええよ、という優しい声が、遠くでかすかに混ざった。
祖父の手の感覚から意識を遠ざけると、来たときと同じように音もなく引いていった。
便利だ、ということばが浮かびかけた。ひかりは、口のなかで、それをのみ込んだ。
罪悪感は、最後まで来なかった。
ひかりは鎌に布をかけて、ベッドに戻った。
ルナが、目を半分だけ開けていた。
「ひかりちゃん。これから先、ひかりちゃんが何を選んでも、それはぜんぶひかりちゃんのものだからね」
低い声だった。語尾の伸びは、半分のところで途切れた。
「ええ」
ルナは目を閉じた。ひかりは電気を消して、まくらに頭を置いた。
まぶたを閉じる前に、暗い天井を見つめた。
わたしのなかにある、わたしのものではなかったもの。
空っぽだったわたしのなかに、それらが並んでいる。
でも、まだ足りない。
紫紺の猫に出会ったあの日から、今までできなかったことができるようになってしまった。
そして今日、自分のなかにあったぬくもりが、自分のものではないと知ってしまった。
──少女は、自身の内側の空虚な部分が、より一層深みを増していることに、まだ気づいてはいなかった。
「ねえ、ルナ」
暗がりに、ひかりの声が落ちた。
「わたし、おじいちゃんのこと、忘れないと思う。だって、ずっと、ここにいるから」
胸のあたりに、手を当てていた。
ルナは、すぐには答えなかった。ずいぶんたってから、ええ、と返ってきた。低い、吐息のような声だった。
それきり、どちらも何も言わなかった。九月の夜が、部屋の隅から深くなっていった。
***
翌朝、うすあかり公園の入口で、葉月が待っていた。
「ひかりちゃん、おはよう」
「おはよう、葉月ちゃん」
並んで歩き出してから、ひかりは葉月の横顔を見た。頬のあたりに、見たことのない薄い影がある。寝不足の影とも、ちがう。
何かあったの、と聞きかけて、やめた。
いまは、聞かないほうがいいかな、と思った。
理由は、自分でもわからなかった。ひかりは前を向いて、九月の朝の道を歩いた。
***
夜が更ける。
天宮家の二階で、ひかりが眠っている。黒い羽も、ちいさな目も、硬い爪も、節の太い手も、そのなかで眠っている。
ベッドの足元では、紫紺の猫が、丸くなったまま目を開けていた。
閉じるまでに、長いことかかった。




