chapter-07: 久杉の森 第四節 山から、ひとり
その晩、真奈は台所で洗い物をしていた。
水音のあいまに、ここ何日かのひかりのことを考えている。やけに、静かだ。それに、お義母さんから聞いた。ひかりが、おじいちゃんのことをぽつぽつ聞いてくるのだと。あの子が義父のことを口にするのは、めずらしい。
蛇口を閉めると、家のなかが急に静かになった。
その静けさの底へ、五年前の秋の日が、音もなく滑りこんできた。
***
あの日、義父はひかりを連れて、山へ出かけた。
山歩きの好きな人だった。孫を連れて低い山に行くのは、前にも何度かあった。夕方には戻ります、と言って、玄関で靴ひもを結び直していた。ひかりは新しいリュックを背負って、行ってきます、と手を振った。なんでもない外出の、なんでもない見送りだった。
真奈は家で、夕飯の支度をしていた。
日が傾いて、台所の窓が橙色になった。ふたりは帰らなかった。真奈は火を止めて、鍋にふたをした。宗一郎が携帯にかけた。呼び出し音だけが続いて、切れた。もう一度かけた。同じだった。
外が暗くなりきったころ、ようやく義父から電話が入った。
声が、べつの人のように乱れていた。ひかりが先に道を外れた。姿が見えない。いま探している──そこで、切れた。かけ直しても、二度とつながらなかった。
山に霧が出て、雨になった。
真奈と宗一郎は、車で山のふもとまで走った。夜の山は、黒かった。ヘッドライトの光は霧に呑まれて、登山口の看板ひとつ、まともに照らさなかった。あの黒さのどこかに、七歳の娘がいる。そう思うと、立っているのがやっとだった。
捜索の人たちが集まってきた。合羽の背中がいくつも、霧のなかへ入っていった。名前を呼ぶ声が、山の斜面で何度も折り返した。
ひかり。治朗さん。
呼び声のあいまに、雨の音だけが残った。夜は、ほとんど明けなかった。
***
空がやっと白みはじめたころ、ふもとの林道のほうから、報せが来た。
子どもがひとりで、歩いて降りてきている。
真奈は走った。舗装の切れた道で二度つまずいて、二度とも、転ばなかった。
林道の入口に、ひかりが立っていた。
服は泥だらけで、腕にも頬にも擦り傷があって、髪に枯れ葉がついていた。それでも、立っていた。誰にも支えられずに、自分の足で、降りてきていた。
真奈は、ひかりの前に崩れるようにしゃがんで、痛いくらいに抱きしめた。生きてる。あったかい。それしか、なかった。涙で、娘の顔がよく見えなかった。
腕のなかで、ひかりは泣いていなかった。
震えても、いなかった。ちいさな手を真奈の背中にまわして、言った。
「おかあさん、だいじょうぶだよ」
凪いだ声だった。ひと晩じゅう山にいた七歳の子の声では、なかった。
冷たいものが、真奈の胸の隅をかすめた。かすめて、真奈はすぐに打ち消した。きっと、ショックのせいだ。気持ちが、遠くへ行ってしまっているのだ。子どもにはよくあることだと、どこかで聞いた気もした。
真奈は、もう一度、ひかりを抱きしめ直した。
***
義父は、降りてこなかった。
霧が晴れてからも、捜索は何日も続いた。見つからなかった。日が経つほど、誰の口からも、義父の名前が出なくなっていった。
表向きは、山での遭難。行方不明のまま、いまも宙づりだ。宗一郎は手続きの話を口にしかけては、途中でやめる。それを何年か、くり返している。家族のなかで、義父の不在は、誰も触れない静けさになっている。
***
真奈は布巾で手を拭いて、居間を見た。
ひかりが、ソファのはしで本を読んでいる。
その横顔が、年々、義父に似てくる。落ち着いた目元。急がない物腰。血のつながりというのは、そういうものなのだろう。
「ひかり。もう遅いから、お風呂入っちゃいなさい」
「うん」
やわらかい、しずかな声が返ってくる。
五年前の林道の声を、真奈は思い出さなかった。あの日の声と、いまの声をつなぐものを、真奈は何も持っていない。




