chapter-07: 久杉の森 第二節 ちがう手
夢は、夜ごとに続いた。
ある夜、手は何も握っていなかった。
ただ立って、森を見ている。背の高い杉が頭の上のずっと上まで伸びて、葉のあいだから落ちた木漏れ日が、下草のうえで薄い斑になって揺れていた。足の下の土は湿っていて、踏むと古い葉のあいだから、ほどけたような甘い匂いが立った。
視界のふちに、まくり上げた袖のはしがあった。色の褪せた、細い格子の布だった。
風が来る。葉のざわめきが頭の上いっぱいに広がって、それからゆっくり遠ざかっていく。何をするでもない。ただ、その音を聞いている。聞いているだけで、胸のあたりがゆるんでいく。
目の高さは、やっぱり、知らない高さにあった。
べつの夜、手は鎌を研いでいた。
砥石の上を、刃がゆっくり往復する。刃と石のあいだに、ちいさな水の音が乗った。水が黒くにごって、錆がひと撫でごとに落ちていく。刃の反り。刃の根元の、ほんのわずかな欠け。柄の木目。手に馴染む長さ。
錆の落ちたところが、灯りのしたで、ひと筋だけ銀色に浮かんだ。手はそれをしばらく見て、また砥石へ戻した。
その鎌を、どこかで見たことがある。
夢のなかでは、それがどこか、思い出せなかった。
***
朝、目が覚めて、ひかりはまず机のすみを見た。
薄い布のかたまりが、そこにある。
布団を出て、布をめくる。祖父の鎌だ。初夏に物置の片付けを手伝ったとき、祖母からもらった。錆を磨いて、それからずっと、ここに置いてある。
刃の反り。刃の根元の、わずかな欠け。柄の木目。長さ。
夢のなかで研がれていた鎌と、同じだった。
ひかりは、しばらく鎌を見ていた。
おかしい、と思う。夢のなかの手は、自分の手ではない。目の高さも、自分のものではない。森の心地よさも、自分の知らない心地よさだ。夢なら、それでいい。夢は、覚めれば消える。
でも、夢に出てきた鎌が、机の上にある。
鎌は、現に、ここにある。
ひかりは、夢のいちばん静かなところにいる人のことを、思い出そうとした。いくつかの夢の奥に、いつも同じ人が座っている。薄い灰色のカーディガン。湯呑みからのぼる湯気。夢のなかの目は、その人を、長く見つめている。
おばあちゃんだ。
気づいて、すぐ、もうひとつ気づいた。
夢のなかで見つめる視線が抱いていた感情は、わたしがおばあちゃんに向けているものとは、まったく違うものだった。
あれは、わたしの目ではない。
ひかりは鎌に布をかけ直した。流してしまえる夢と、流せない夢がある。机の上のそれは、もう、あとのほうだった。




