08.君はたぶん知らないけど、君が思うより君のことを想ってるよ
通話を終えて、スマホをポケットにしまった。
さて、どうするか。
あの子に会えないとなると、途端に俺にはやることがなくなった。
***
ーー俺、山田尚也にとって、秋谷奈月は忘れられない特別な女の子だった。
高校生のころも、俺は今と変わらず地味で目立たない男だった。
仲のいい男友達は数人いたが、女子からはキモいと避けられがちで、席替えで隣になると露骨に嫌そうな顔をされる、そういうタイプだった。
背は高かったけど、運動は苦手で、痩せた体に目つきの悪さと眼鏡が重なり、気の利いたことも言えない。
成績はよかったけど、学年で十位台の微妙な立ち位置。
そんなふうに高校三年生になったころ、彼女は現れた。
三年に進級し、入学式から何日か経ったころ、一年生の女の子が三人で固まって図書室に来た。
俺が通っていた高校の図書室はかなり充実していて、大人しそうなその子たちは目を丸くして本棚を見回していた。
春の穏やかな日差しが本棚を照らし、女の子たちは新品の制服で陽だまりに立っていた。俺はその反対に、日の当たらないカウンターで着古した学ラン姿だった。わかりやすく光と影だった。
そんな卑屈なことを考えていると、そのうちの一人、秋谷がふとカウンターで一年生用の図書カードを用意していた俺に気づいた。
目が合った瞬間、もともと丸かった目がさらにまん丸に見開かれたのを覚えている。
「一年生、かな?」
どうせキモい先輩がいるくらいにしか思われないだろうが、本を借りたいなら手続きは俺がやる必要がある。
こっちが先輩だしと声を掛けたら、その子の頬が一瞬で真っ赤に染まり、涙目になった。
泣くほどキモかったのかとショックを受けていると、その子は隣にいた子に何かを耳打ちした。
相手の子は首をかしげて俺を見て、それから笑いながらもう一人にも声をかけた。
一人でますます凹んでいると、他の二人に背中を押されながらその子がカウンターにやってきた。
「あ、あの……先輩、ですよね?」
その子は新品のブレザーの裾をぎゅっと握りながら、涙目で俺を見上げた。
「う、うん。三年生の山田。えっと、本を借りたいなら手続きするけど」
混乱しながら答えたら、その子は小さく頷いた。
「私、一年の秋谷奈月といいます。あの……よろしくお願いします」
「うん……? こちらこそ?」
そう答えると、秋谷はほっとしたように微笑み、単純な俺の心臓が途端に大騒ぎを始めた。
その後、秋谷は図書委員になり、俺の前に戻ってきた。
最初の委員会のとき、図書室の隅で一人適当に座っていると、秋谷がきょろきょろと周囲を見回しながらやってきた。
隣には一年の男子がいて、同じように周囲を見回していた。秋谷は俺に気づくと、ぱっと花が咲いたように笑い、大きく手を振った。
「山田先輩……!」
離れた席にいた同じクラスのもう一人の図書委員の女子が、ぎょっとした顔で俺と秋谷を見比べていたが、彼女はそんなこと気にもせず俺の隣に座った。
「こんにちは、山田先輩。また会えて嬉しいです」
「……こんにちは」
「勝手に座っちゃいましたけど、大丈夫でしたか?」
「大丈夫。俺の隣に座りたい人なんていないから」
つい捻くれたことを言うと、秋谷はきょとんとした顔で俺を見上げてきた。
「じゃあ私が一番乗りですね。今後もここは私の席です」
「……物好きかよ」
秋谷はにこにこしながら、手にしていたノートと筆箱を机の上に丁寧に並べていた。
委員会のときはずっとそんな調子で、秋谷は俺の後をついて回っていた。
そうでないときも、廊下で会えば笑顔で駆け寄ってきて、よく懐いた子犬みたいだった。
いっそ本当に子犬だったらよかったのに。そうすれば、周りの目なんか気にせずに頭を撫でることも、抱き寄せることもできたはずだ。
秋谷は球技大会や運動会でもずっと俺の応援をしていた。
体育なんか大嫌いだったけど、秋谷が大きく手を振って「山田先輩!」と呼んでくれるなら、なんでもできるような気がした。
実際は今までどおり何もできなかったけど、それでも秋谷が応援してくれるから頑張れた。
文化祭のときも、秋谷は不安そうな顔で
「あの、どこか一時間だけでもいいので、一緒に回ってくれませんか?」
と、控えめに声をかけてきた。
馬鹿だなあ。俺の予定を気にする子なんて、秋谷しかいないのに。
そうして、秋谷奈月は高校三年のたった一年しか一緒にいなかったのに、俺の心の柔らかい場所をすべてその色に染めてしまった。
今もそうだけど、秋谷本人にその自覚はなさそうだ。
俺はあの子がいるから生きていけるのに、あの子はそんなことにも気づかず、今も昔も俺の迷惑にならないかばかり気にしていた。
結局、互いに肝心なことは何も言わないまま、卒業式を迎えた。
「せんぱい、卒業しないで……」
秋谷はその日、図書室で会ったときからずっと泣いていた。
俺の学ランの裾を、手が白くなるまで握りしめて、おいおい泣いていた。
友達が気を利かせて、
「第二ボタン、渡してやれば?」
と言ってくれたから外そうとすると、
「ボタンなんかいらないから、せんぱいいなくならないで」
そんなふうにさらに泣かれて、女の子に泣かれたこともなく、慰め方もわからない俺にはどうしようもなかった。
……本当は、ちゃんと伝えればよかった。
好きだと。
付き合ってほしいと。
俺を君の彼氏にしてほしい。そうすれば卒業してもそばにいられると、言うべきだった。
言えなかったのは、俺が臆病だったからだ。
たとえばクラスの女子にキモいとささやかれたことや、席替えのときに「隣、山田かよ」と顔をしかめてつぶやかれたこと、中学のときにバイキン扱いされた記憶が溢れかえり、誰よりも大事な女の子に、言わなければならないことすら言えなかった。
***
……そのことを、十年以上経った今でも、後悔している。
だからこそ、偶然再会できた今、俺は何が何でも彼女に伝えなければならなかった。
幸いなことに、秋谷は俺のことを覚えていてくれて、あのころと同じ笑顔を向けてくれた。
なんとか連絡先も交換し、たまに食事に行く仲にもなれた。
もう三十歳を過ぎたのに、いまだに卑屈になる癖が抜けない。そうなると秋谷が怒ってくれて、それがどれだけ俺を救っているのか、あの子はわかっていない。
――今日はまあ、仕方ない。
お互い大人で、仕事がある。
スマホの向こうの秋谷は本当に残念そうにしていたから、あまり困らせたくなかった。
もちろん俺だって残念で仕方ない。
なにしろ、秋谷が
『山田先輩、魚好きですよね? 美味しそうなお店を教えてもらったのでご一緒しませんか?』
と連絡をくれたんだ。
俺は秋谷に食べ物の好みの話なんてしたことがない。
確かに魚は好きだけど、刺身ではなく、俺の好みの焼き魚が人気の店だった。
それが本当に嬉しかったんだ。
俺もあの子も大人だから仕方ないことはあるけど、今度は諦めない。
仕方ないで終わらせる気はなかった。
一人暮らしの部屋に帰り、スマホを取り出した。転がしたカバンから、使わなかったネクタイがはみ出していた。
秋谷が送ってくれた二件の店のうち、今日予約していなかった方はランチのメニューも豊富で、近くには大きな公園があるらしい。
もうすぐゴールデンウイークだし、その間、一週間会えないのは寂しい。
ニャインのアプリを開いた。
俺が好きな本の続刊の書影をタップする。
文章を何度も考えては消し、無難で重くならない誘い文句をなんとかひねり出して、送信ボタンを押した。
あの子は、まだ俺を好きでいてくれるだろうか。
そうだとしても、きっと俺の方があの子を好きで、俺の方が君を手放せないのだと、どうにかして伝えたい。
……俺はもう、君を逃がさない。
薄暗い部屋で、明かりもつけずに、秋谷の送ってくれたメッセージを見つめ続けた。
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