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04.猫を追う。私はアリスじゃないからその先に待つのは何だろう?

 次の日は、終電の二つくらい前の電車に乗れそうだった。


 ……でも、乗らなかった。だって山田先輩が「また明日」って言ってくれたんだ。

 十年ぶりに聞いたその言葉が、今日一日ずっと頭から離れなくて、何度も目頭が熱くなってパソコンの画面が滲んでしかたなかった。

 それでも先輩に「秋谷は昔から気が利くし、書類を片付けるの得意だったもんな」って言われたから、頑張れた。

 我ながら単純だけど、大好きな先輩にかっこ悪いところは見せたくなくて、一日頑張ったし、頑張ったからには先輩に会いたい。


 それに、仕事は切り上げようとすれば切り上げられるだけで、やることはまだまだあった。だから明日の私のためにってそれらしい言い訳をして、終電まで仕事をして会社を出た。



 静かなオフィス街に、ヒールがカツカツと地面を叩く音だけが響いた。

 夜の空気は冷たいけど、それよりも山田先輩に会える嬉しさと緊張のほうが勝っていて、寒さなんて感じない。

 桜はもうすぐ散りそうで、花壇のチューリップも大きく花びらを開いていた。

 春の風に髪を揺らされながら、駅へと急ぐ。


 改札にスマホを当てた瞬間、終電一つ前の電車が走り去る音が聞こえた。そのままトイレに向かって髪を整え、口紅を塗り直す。ファンデのよれとアイシャドウ、チークも整えた。

 マニキュアはちょっと剥がれかけているから、これは帰ったら直そう。

 エスカレーターを上がって、七号車の乗り場へ向かった。

 相変わらず空には星がうっすら光ってるけど、私は詳しくないからその名前も、繋げたら何かの星座になるのかもわからない。ただ、その星を先輩も見ながら駅に向かって歩いていたら嬉しい、それだけだ。


 スマホを見ても、なんの通知も来ていない。

 昨晩「また明日」と言って別れたけど、本当に会えるかなんてわからない。会えなくても仕方ない。学生のときだって、「また明日」と別れても、次の日に必ず会えたわけじゃないし。

 私はそうやって傷つかないように、何度もしつこく予防線を張る。


 スマホをカバンに放り込んで、抱え直した。

 ホームに最終電車のアナウンスが流れて、胸の奥がきゅっと痛む。

 十年前も、帰りのホームルームが終わるころになると胸が痛くなって、先生の終わりの挨拶と同時に教室を飛び出していた。図書室まで走っていって、三年生の授業が終わるのを今か今かと待ち構えていた。

 今も同じように、やかましい心臓を抱えたまま夜風に吹かれて、星を見上げながら電車を待っていた。

 先輩は、今日も乗ってくるだろうか。

 あまりそわそわしてたら不審がられないかとか、先輩にウザがられないかとか、メイクはおかしくないかとか……十年前から全然進歩していない。


 それでも、電車はやってきた。

 先輩が昨日乗ってきたのは、私が乗ってから二つ目の駅。

 ドアの横に立って、閉まるのを待つ。


 電車が動き出して、窓に映った自分を見ながら、風で乱れた髪を直した。最近忙しいし、もう少し短くしたほうが手入れは楽かな。でもあんまり切ると毛先が跳ねるし、全体が膨らむんだよな……。

 半分くらいは、現実逃避。先輩のことを考えすぎて、頭がパンクしそうだから。

 でも残り半分は、先輩は髪が長いのと短いの、どっちが好きかなっていう乙女心。三十前の女が乙女心とか言うな!って怒られたら、それは本当にそうなんだけど。

 何歳になっても、好きな人にはかわいく見られたい。

 頭の中でもだもだしながら、髪をいじってドアの窓を睨んでいたら、電車が揺れて駅に着いた。

 やばい、ぼんやりしてた。

 先輩が乗ってくるまであと一駅じゃん。そう思ってドアの横に避けたら、先輩が乗ってきた。


「秋谷、こんばんは」


「こ、こんばんは……? あれ、先輩もう一個隣の駅じゃ……」


 焦って車内表示を見たら、先輩が乗ってくる駅だった。あれこれ考えている間に二駅も過ぎていたらしい。


「すみません、ちょっとぼーっとしてて……」


「疲れてる? 座ってればよかったのに」


 先輩は笑って、昨日と同じように座席に腰を下ろした。

 私もついていって、隣に並んで腰を下ろした。


「座ると寝ちゃうんですよ」


「やっぱり疲れすぎだろ、それ。すっごい睨んでたし」


 先輩はくすくす笑って私を見た。

 見られてたの!? 恥ずかしい……忘れてください!


「それは違うんですよう。最近忙しくて髪の手入れができないから、切ろうか悩んでたんです」


 そう言うと、先輩は体を捻って、私の背中に流れる髪を見た。

 わずかに首をかしげて、口を開く。


「きれいな髪に見えるけど」


「そうですか? ほんとに? 先輩がそう言ってくれるなら、このままでいいかな」


「ていうか、高校のときも秋谷は髪が長かったから、切るとどんな感じかイメージがつかない」


「そういえばそうでしたね」


 大学のときとか、新入社員のころはショートにしたりもしてたけど、結局忙しくて美容院に行けないまま、長いままになっちゃった。


「ちょっと待ってくださいね」


 スマホを取り出して、五、六年前の写真を探す。友達と撮った写真があったはず。


「あ、これです」


 画面を先輩に向けた。

 先輩は目を一瞬丸くしてから、写真をまじまじと見つめた。


「こういう感じになるんだ。これはこれでかわいいけど」


 そう言って、先輩は私と写真を見比べた。


「んー、やっぱり俺は、秋谷は髪が長いほうがしっくりくるかな」


「そうですか? じゃあ、このままにしておこうかな」


「大したことじゃないんだけどさ」


 先輩が言いかけて、目をそらした。

 なんだろう。下からのぞくと、先輩はちょっと困ったように笑った。


「秋谷が俺に駆け寄って来るときに、髪がふわっと広がるのが好きだったんだ」


 それは、いったいどういう意味なんでしょうか。

 山田先輩は照れたような顔で私を見てから、手で口元を覆った。

 それに、なんて答えればいいの。

 もう一生髪を切らないですって……?

 いや、おかしいでしょ。でもそう言いたいくらいの破壊力だった。


「えっと、その」


「ごめん、キモかった」


「そんなことないです!」


 つい声を張り上げてしまった。でも、こればかりは声を大にして言わないといけない。


「そんなこと、ないです!」


 先輩の方を向いて小声で言い直したら、思いっきり笑われた。


「なんで二回言ったんだよ」


「大事なことだからです。先輩のこと、かっこいいとは思っても、キモいなんて思ったことないですよ」


「そんなこと言ってくれるの秋谷だけだけど」


「先輩のかっこよさは私だけが知ってればいいので、今後とも秘密にしておいてください」


 先輩はこらえきれないというように、吹き出してしまった。

 なんですか、もう。

 私が真剣に話してるのに。

 しばらく笑っていた先輩は、目元をぬぐってから私を見た。


「……俺と秋谷の秘密?」


「そうです。私と山田先輩との秘密です」


「はは、そっか。じゃあ誰にも言わないでおくよ」


「お願いしますよ。先輩のかっこよさが世界にばれたら、私は気が気じゃないですから」


 そんなことを言っているうちに、電車は私の降りる駅に近づいてきた。


「わ、もう降りなきゃ。そういえば、先輩はどちらの駅で降りるんですか?」


「この次だよ」


「そうでしたか。思ったよりも近くにお住まいなんですね」


「大学出てから同じところに住んでたのに、気づかなかったな。もったいないことをした」


「あ、私は引っ越してるんですよ。社内規定が変わって住宅補助の範囲が変わったから」


 電車が止まった。

 立ち上がると、やっぱり先輩はついてきて、ドアの前まで送ってくれた。


「じゃあ、また明日。おやすみ秋谷」


「はい、また明日。おやすみなさい、先輩」


 電車を降りて手を振った。

 ドアが閉まって、先輩も手を振ってくれた。

 先輩を乗せた電車が見えなくなるまで見送って、それから改札を抜けた。

 マンションの手前で、スマホが震えた。


「先輩だ! ……猫?」


 送られてきたのは道路で振り返る猫の写真だった。


『駅前にいた』


 という短いメッセージ付きだ。

 そういえば、先輩は猫好きだっけ。


「俺、猫好きなんだけど、猫には好かれないんだよな」


 高校のころに、そんなことをぼやいていたっけ。

 周りを見回したけど、野良猫はいない。かわりに近所の動物病院の看板に、不細工な猫の絵が描いてあったからスマホで撮って送った。

 すぐに返事が来て、


『そんなかわいい看板があるなら、そっちに住めばよかった』


 と書いてあった。


 ……そんなにかわいいかな。

 この看板をかわいいという先輩がかわいい。

 それを送れない私は、たぶんかわいくないんだろう。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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