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03.一人なら見ない星空、あなたに手を振った後はレンズを向ける

 月曜日の朝、いつもより少し早く起きて家を出た。

 三月末の早朝はまだまだ寒いけど、早足で歩いていれば、頬に触れる冷たさもすぐに薄れていく。

 いつものヒールをカツカツ鳴らして社会人に混じって駅に向かう。きっと私も、知らない人から見ればちゃんとした社会人に見えるし、先輩もそうなんだろう。


 そう考えると、十年ってやっぱり長い。

 それだけ長いのに、先輩は私に気づいてくれたし、私も先輩に気づけた。

 朝から私の頭の中は先輩のことでいっぱいだ。……十年前と変わらずに。


 会社の最寄り駅で電車を降りる。いつもはコンビニで済ませるけど、今日はカフェでコーヒーとサンドイッチを買って会社へ向かった。

 自分の席でメールをチェックしながらサンドイッチをかじり、朝礼前にはお手洗いで口紅を直して鏡をのぞき込む。

 ……うん……完全に浮かれてる。

 いつもより化粧のりがいいし、買ったばかりの口紅は発色がよくて、なんだか少しだけかわいく見える。

 口紅を持つ爪の先は、桜色に染まっていた。



 ――とはいえ、だからって仕事が減るわけではない。

 かろうじて昼ごはんは食べられたけど、結局いつも通りのコンビニごはん。朝に買ったコーヒーのカップは、ペットボトルのお茶と一緒に机の上に並べっぱなしになっている。

 はい、月曜から終電コースです。


 でも、ってことは、また先輩が乗ってきたりするのかな?

 「じゃあまた、終電で」って言ってたし。

 ソワソワしながら、何度も時計に目をやる。

 よく考えたら、私、先輩が電車に乗るところを見てない。

 二週続けて寝落ちして、先輩にもたれかかって眠っていたし。

 気づくのが遅すぎる。

 今さらになって恥ずかしくなってきた。

 どんな顔して先輩に会えばいいんだろう。


 まあ、そんなふうに悶えていても時間は容赦なく過ぎていく。

 あっという間に、会社を出ないと終電に乗り損ねそうな時間になっていた。


「ヤバ、急がなきゃ」


 またハイヒールで走るはめになった。

 なんで私、月曜日から深夜にハイヒールで走ってるんだろう、ほんと。

 なんとか終電前に駅にたどり着いた。

 七号車の乗り場まで歩き、最終電車のアナウンスを聞きながら息を整え、スマホを開く。

 先輩からの連絡はない。

 うーん、いないかな。……うん、いないんだ、きっと。

 そうやって予防線を張っておけば、本当に先輩がいなくてもダメージはないはず……たぶん。

 ちょっとくらいはショックかもしれないけど。


 ホームから、駅前の桜並木が見えた。

 夜桜が春の風に揺れている。心臓がドキドキとうるさいのは、走って来たからだけじゃない。

 先輩は、乗ってくるんだろうか。乗ってきたとして、私はどうすればいいんだろう。

 十年前の卒業式の日、泣くしかなかった私が、今さら先輩に言えることなんてあるんだろうか。

 卒業式のあと、当時使っていたガラケーに表示された先輩の名前を見つめたまま、ボタンを押せなかった。先輩はきっと呆れているだろうし、その上ダメ押しでフラれたらと思うと怖くて、なにもできなかった。


 ……じゃあ、今は。

 スマホを握ったままの手が、じっとりと汗ばんでいる。

 先週の先輩の顔が、ふと頭に浮かぶ。

 十年前と変わらない、メガネの奥で柔らかく細められた瞳とサラサラの髪、それから私を呼ぶ落ち着いた声。

 無理。好き。

 十年も経てば、いい思い出になるかなって期待してたけど、そんなことはなかった。

 たぶん私は百年経っても先輩が好きだし、千年経っても先輩を前にしたら緊張して告白の一つもできないんだろう……ダメじゃん!!


 やがて、電車がホームに滑り込んできた。

 風が巻き起こり、私の髪をふわりとなびかせた。

 先輩は、乗っていない。

 唾を飲み込んで、電車に乗り込んだ。

 疲れた顔のサラリーマンたちが座席に埋もれ、うとうとしたりスマホをいじったりしている。

 足が痛いから私も座りたいけど、座ったが最後、車内のぬくもりに負けて寝てしまう。先輩が乗ってくるなら、ちゃんと起きて待っていたい。

 ドアが閉まり、電車がゆっくりと走り出す。……そのとき、ふと気づいた。


 私、そもそも先輩がどこで乗ってくるのか知らない!


 先週もその前も、寝て起きたら先輩が隣にいたから、どこで乗ってくるかも、どこで降りるかも知らないのだ。

 それこそ、聞いてみればいいんじゃないかな。

 握りしめたままだったスマホを持ち上げた。……いや、でももう日付が変わっている。こんな時間に連絡するのはご迷惑では……そうやって言い訳ばかり上手くなって、嫌になる。

 車窓には夜の街が静かに流れ、そのガラスに情けない顔の私が映っていた。スマホを持つ指先の桜色も一緒に。


 意を決してスマホをタップし、ニャインの画面を開く。

 先輩の名前に触れた瞬間、電車が大きく揺れた。

 ドアが開いたから横に避ける。なのに乗ってきた人は奥へ進まず、私の前で立ち止まった。

 顔を上げると、スーツ姿の男性が穏やかな笑顔で私を見下ろしていた。


「こんばんは、秋谷」


「……こんばんは、山田先輩」


 先輩は柔らかい笑みを浮かべて、私を覗き込んだ。


「もしかして、待っててくれた?」


「……はい、待ってました。先輩のこと」


 胸が詰まって、言葉が出ない。

 泣かないように、歯を食いしばった。

 先輩はそんな私に、やさしく声をかけた。


「降りるまでもう少しかかるし、座ろうか」


 小さく頷き、揺れる電車の中を先輩の後についていった。

 座席に並んで座ると、思ったより距離が近くて、そわそわして仕方ない。


「あ、あの、山田先輩って前からこの路線を使ってましたか?」


 何とか話題を思いついて先輩を見上げると、先輩もこちらを見ていた。近い……!


「いや、最近転職したんだよ」


「そうだったんですね」


「IT系なんだけどさ。秋谷は今どんな仕事してるの?」


「私は営業事務です。私の会社もIT系で……」


 仕事の話をしていると、先輩が目を細めた。


「秋谷は昔から気が利くし、書類を片付けるの得意だったもんな。司書の先生が積んでた申請書の片付けも手伝ってたし」


「よく覚えてますね」


「いや、そもそも俺が転職した理由は、前の会社の総務がすごく杜撰でさ……」


 先輩が少し困ったように苦笑した。

 私も笑って口を開きかけたら、電車が減速して、私が降りる駅名がアナウンスされた。


「あ、秋谷ここで降りるんだっけ」


「……はい」


 降りたくなくて、つい声が低くなってしまった。

 先輩はふふっと笑って、私を覗き込んだ。


「相変わらずわかりやすいな」


「す、すみません……」


 立ち上がって先輩の方へ振り返る。なぜか先輩も立ち上がって、ドアの前までついてきた。


「先輩?」


「俺、今炎上案件に突っ込まれててさ」


「えっ、はい……?」


「明日もたぶん終電になりそうなんだ。そっちは?」


 電車が小さく揺れた。

 アナウンスが流れ、ドアが開いた。


「私も、たぶん明日も終電です!」


 先輩の骨張った手が伸びてきて、私の頭にそっと乗った。


「おやすみ、秋谷。また明日」


「はい、おやすみなさい、山田先輩。また明日」


 電車を降りて、振り返った。

 ドアが私と先輩を隔てる。でも、不思議と寂しくなかった。

 手を振ると、先輩も笑顔で振り返してくれた。


「やっぱり、好きだなあ」


 呟きは届かないけど、それでよかった。電車は先輩を乗せて、夜の中へ走り去っていった。


 そういえば、また先輩がどこで降りるか聞き忘れたけど、まあ明日聞けばいいか。

 私たちはもう学生じゃないから、卒業でお別れになることもないし。


 駅のホームに、終電が終わったことと改札が間もなく閉まるというアナウンスが流れた。足取り軽く駅を出ると、昨日よりも温かい春の風が吹いていた。

 夜の空気はひんやりしていて、火照った頬をほどよく冷ましてくれる。

 空には星がかすかに輝いていて、ついスマホを向けた。

 撮った写真をニャインのプロフィールの背景に設定した。タイムラインに設定の変更が流れると、すぐに誰かがイイネをつけてくれた。

 つい、口元がゆるむ。

 この嬉しさを、伝えようかどうしようか。

 ぽこんとスマホが鳴って、タイムラインにメッセージが流れてきた。


『なおやさんがプロフィールを設定しました』


 映し出されていたのは星空だ。

 私は迷わずイイネを押した。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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