02.思い出と割り切ることもできないで、スマホの名前をそっと見つめる
まあ、当たり前っちゃ当たり前なんだけど。
土曜の昼過ぎに目が覚めたとき、私はちゃんと山田先輩に会ったことを覚えていた。
「えーん、忘れさせてよ……」
ベッドの中でしばらく頭を抱えて悶えたあと、ため息まじりにスマホを充電器から外した。
ニャインのアイコンをタップすると、一番上に「なおや」と先輩の名前が表示されていた。
「マジか、夢じゃなかった……夢なのに、夢じゃなかったか……」
目を閉じた。
三十秒数えてからもう一度目を開き、スマホの電源を切った。
ベッドから起きて顔を洗って歯を磨いて、そのまま無心で洗濯機を回した。
カーテンを開けて窓も開けると、ベランダから春のやわらかい匂いを含んだ風が、ふわっと部屋に流れ込んできた。
どこからか子どもがはしゃぐ声が聞こえてきて、空には白い雲がのんびりと流れている。
……先輩も、この景色見てるのかな。そう思って、スマホの電源を入れ直して、空の写真を一枚撮った。
ニャインを開くと、トーク画面の一番上には、やっぱり「なおや」と名前が表示されていた。
アイコンは本の写真だ。
……高校のとき、先輩がお気に入りだって言ってたSF小説の文庫版。もちろん私も買って何度も読んだし、最近は手に取ってなかったけど、まだ本棚にそのまま入ってる。
どうしよう。
いや、どうもこうもないんだけどさ。
ベッドの横に立ち尽くしたまま、私はスマホをじっと見つめていた。
カーテンはまだ風に揺れて、ふわりと広がっている。
先輩の名前に触れると、トーク画面には昨晩送られてきたスタンプがひとつだけ、ぽつんと表示されていた。
「私、返事してなかったな」
どうしよう、何か返したほうがいいかな。
いや、今さらかなって気もする。
でも、今何か送ったら先輩は気付いてくれるだろうか。
……返事、くれたりするのかな。
「……っ」
洗濯機が鳴った。
びくっとしてスマホを放り出し、そのまま洗濯物を干しに行く。
ひとまず保留しよう。
そうやってあの頃も何もできずに終わった気がするけど、とにかく今は全部、棚上げすることにした。
洗濯と掃除を終えて、買い物に出た。
三月の終わりは、なんとなく空気が浮かれていて、街全体がふわっと春めいている。
平日は早朝か深夜にしか出歩かないから、こうして太陽が出ているうちに歩くのはやっぱり気分がいい。
あちこちで桜並木がひらひらと花びらを踊らせているし、花壇にはチューリップやたんぽぽ、それに名前のわからない花まで、色とりどりに咲いていた。
近くで老夫婦が写真を撮っていて、なんとなくつられて私も何枚か撮ってみた。
気づけば写真フォルダが春色に染まっていた。……卒業式の日に先輩と撮ってもらった写真は、どこにいったんだろう。
高校の図書室で撮ったから、春もなにもないはずなんだけど。
せっかくだし駅ビルまで歩いて、新しいマニキュアと口紅を衝動買いして、夜ごはんと朝ごはんを買って、そのまま家に帰った。
洗濯物を片付けてカーテンを閉めていると、なんだかちゃんとした社会人になれたみたいな気がする。
本当は十年前の失恋をまだ引きずって、好きな人の一人もできずにいる、湿っぽい女なのに。
浴槽に温めのお湯を張った。お風呂が沸くまでのあいだに、買ってきた桜色のマニキュアを、はみ出さないようにそっと塗った。
お風呂にゆっくり浸かるなんて、いつぶりだろう。
我ながら浮かれている。
別に、先輩にまた会うかもしれないから綺麗にしておこうとか、そういうつもりじゃない。
断じて、ない。
あれはきっと春の夢で、なんやかんやでなかったことになる。もしくは社交辞令。きっとそうだ。
そうじゃなかったら……。
体を、いつもの倍くらいの時間をかけて丁寧に洗った。
湯船にぶくぶく沈みながら、スマホで全然面白くない恋愛ドラマをぼんやり眺めて、風呂から上がった。
髪を乾かして買ってきた晩ごはんを食べて、それから本棚の奥底にしまってあった、先輩のアイコンになっている本を引っ張り出してきた。
ベッドに寝転がって、ぱらぱらとページをめくる。
書いてある内容なんて全然頭に入ってこなくて、先輩と過ごした十年前の、たった一年間の思い出ばかりが、走馬灯みたいに流れていくだけだった。
翌朝、私はまたベッドに寝転がったまま、スマホをじっと睨んでいた。
まだカーテンは開けていなくて、でも隙間から明るい日差しが細く部屋の中に差し込んでいた。
「返事……したほうがいいかな」
でも、なんて?
スタンプ一個に、なんて返せばいいの。
先輩は、返事をくれるだろうか。
一昨日の晩の「会いたかった」と「また」を、私は本気にしていいのかな。
いやいやいや。
たぶん、思い出を美化しすぎてるし、起きたことも都合よく考えすぎてるんだと思う。
起き上がって身支度して、とりあえず外に出よう。
また駅前まで歩いて昼ごはんを食べて、夜ごはんを買って、帰ってきた。
……途中で本屋さんに寄ったら、先輩のアイコンになってる本の続きを見つけてしまって、それもつい買ってきた。
これをニャインのアイコンにしたいって一瞬思ったけど、さすがにキモすぎるからやめておく。
スマホを見ると先輩のことばっかり考えちゃうから、電源を切って、ベッドに置きっぱなしにしていた本を開いた。
何度も読んだ本だけど、久しぶりに読むとやっぱり面白くて、この本が好きだって言ってた先輩のことが、私はやっぱり好きだと思った。
スマホの電源を切ったくらいで、先輩のことを忘れられるわけがない。
諦めて、スマホの電源を入れ直した。
先輩から送られてきたスタンプは、キャラクターが「やあ」と手を振っているものだ。
今度はあんまり悩まずに、そのキャラクターの友達が「久しぶり」って言ってるスタンプを送り返した。
よしよし、なるようになれ。
「え……っ?」
すぐに、既読がついた。
いやいやいや、早すぎでしょ!?
一分も経ってないけど?
驚きすぎて、スマホを落としそうになった。一人でわちゃわちゃお手玉していたら、スマホがブブッと震えた。
『金曜日、ちゃんと帰った?』
たった一行のメッセージなのに、胸がじんわり熱くなる。
「え、えっと、帰りました……って、もう既読ついた」
『よかった。いつも遅いの?』
早い早い! ちょっと心の準備をさせていただきたく!
慌ててスマホに返事を打ち込む。
「週の半分くらい終電です」
また一瞬で既読がついた。そして間髪入れずに返事が来た。
『俺もだよ』
「……どうしよう」
また会いたいとか、会いたかったとか、そういうこと、言ってもいいのかな。
悩んでたら、またスマホが震えて、今度は着信が来た。
「は、はい……!」
『今少しだけ話せる?』
電話越しに聞こえた声に、思わず泣きたくなった。
金曜日の夜と同じ……十年前と同じ、低くて優しい声だった。
「だいじょぶです」
『秋谷、いつも七号車に乗ってる?』
「え? たぶん……あんまり意識してませんでしたけど」
『わかった。じゃあ、今度から俺も終電に乗るときは七号車に乗る。ごめん、出先なんだ。どうしても聞きたかったから電話しちゃった。また終電で』
「は、はい、また……」
気づいたときには通話が終わっていた。
えー……?
今の、何だったのさ……。
手元のスマホを、ぽかんと眺めていた。
それから、机の上に置きっぱなしだった買ってきた本に目をやった。
先輩は、私に会いたいって思ってるってことでいいのかなあ。
私が先輩に会いたすぎて、そう聞こえてるだけかもしれない。
のろのろとスマホを持ち上げて、机の上の本を写真に撮った。
ニャインのアイコンを、会社で使っているハサミの写真から、今撮った本の写真に変えておいた。
我ながらキモいけど、なんていうか、先輩にどう主張すればいいのか分からなかった。
わからないなりにでも、今度こそ何かは主張しておきたかった。
窓の外は暮れなずんでいて、部屋の中もオレンジの光にやわらかく染まっていた。
スマホで空の写真を一枚撮る。
先輩は外にいるって言ってたから、きっとこのオレンジ色を見ているんだろう。
私はまた、先輩と同じ景色を見られるのが、嬉しくて仕方なかった。
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