29.あの時はできなかったことを、これから全部あなたと、やっていこう
日曜日は昼前まで寝ていた。
でも、私は月曜日から仕事だから帰らないといけない。
帰らないでと散々ごねる先輩をなんとか説得して、二人で昼ごはんを食べに部屋を出た。
外は二月の終わりとは思えないくらい、うららかな陽気だった。
街路樹の桜の蕾はまだ固かったけど、枝先には小さな芽がのぞいていて、花壇ではチューリップとパンジーが風に揺れていた。
「今更だけど、お土産を買えなかったんだ」
並んで歩いていたら、先輩がぽつりと言った。
「いいですよ。だってすごく忙しかったんですよね」
「そうなんだけどさ。でも、近いうちにまた行かないといけないから、その時には買ってくる。……んー、せっかくだし、その時は一緒に行かない?」
先輩が、ほころぶような笑顔を私に向けた。
「報告と確認だけだし、金曜日に行けるよう調整するから」
たしかに金曜日一日くらいなら休める。有給も有り余ってるし。
「分かりました。日程が決まったら教えてください」
「うん。あ、でもすぐじゃないんだ。調整次第だけど、たぶんゴールデンウィークの前くらい」
「それなら、そのまま富山まで行きますか。あ、でもスーツとパソコンが邪魔になるかな」
「そうだな。うん、でもせっかくだし、いろいろ考えてみようか」
先輩は私と絡めた指を握り直して、春の日差しの中を機嫌よさそうに歩いていた。
駅前でお昼を食べて、改札前で別れようとしたら先輩もついてきた。
「離れたくないから、送らせて」
「私は嬉しいですけど、尚也先輩、出張の荷物の片付けがあるのでは?」
「俺は明日も休みにしてるから、帰ったらやるよ……あと、あれ。一人で帰ったら、たぶん寂しくなるからさ」
それは、すごくわかるけども。
エスカレーターに乗っている間も、ホームで電車を待っている間も、先輩は手をつないだまま私の肩に触れるくらいぴったりくっついていた。
かわいいから全然吝かではないけど、こんなの、私まで帰ったあと寂しくなっちゃうじゃん。
電車に乗ってもぴったりくっついたままの先輩を見上げると、じっと私を見つめ返してきた。
「もー、しょうがない人ですね」
「やだ?」
「嫌じゃないです」
そう言うと、先輩はちょっと寂しそうにはにかんだ。
かわいいな。三十代の男性とは思えないくらい、かわいい。
「次の土曜日も泊まれる?」
「大丈夫ですよ」
「もう、奈月をうちにしまっておきたい」
「先輩たまに病みますよね」
「ごめんね」
「いいよ」
そんな話をしているうちに、私が降りる駅に着いた。電車を降りて、改札を抜けて、二人で駅を出る。
ロータリーに出たところで先輩が立ち止まった。
「家まで送っていい? 上がらないから」
「お願いします。上がってもらっても……いえ、たぶん私、先輩を部屋から出せなくなっちゃうからダメですね」
「もう一緒に住みたい」
先輩は情けない顔でそう言って、私の手を引いてまた歩き出した。
分からなくはないけど、そうなったら互いに依存しまくる未来しか見えないから、「喜んで!」と反射で答えるのはなんとか自重した。
「奈月は今週も忙しい?」
「まあ、相変わらずですね。年度末ですし。先輩はどうですか?」
「俺も似たようなものだよ。でも、しばらくは土日まで仕事になることはないはずだから」
「よかった。あ、でも四月になったら、私、新人研修の補佐に入らないといけなくて」
「えっ、やだ」
先輩はギョッとしたような顔で私を見た。
「やだ?」
「やだー……」
やだって何だ。
先輩は唇を尖らせている。
「尚也先輩、チューしていいですか?」
「チューはしてほしいけど、新人研修は嫌だな。ていうか、俺以外の人とあんまり関わらせたくない」
「私、別にモテないですよ」
そう言ったら、先輩にジトッと睨まれた。
なんだか昨日から、そんな顔で見られてばっかりだ。
「俺が高校のときからどれだけ心配してると思ってるのさ」
「そうなんですか?」
ちなみに私は、高校の頃はさほど心配したことがない。先輩が同じクラスの女子からキモがられていたのを知っていたからだ。
大人になってからは花沢さんもいたし、多少は心配したけど、これだけ私にべったりなんだから、やっぱりそこまで心配しなくてもよさそうだ。
「奈月はかわいいから」
「そうですかねえ」
告白なんて、されたことないけど。
高校の時、私が先輩にべったりなのはクラス内で有名だったから。
「そうだとしても、私はこの十年ずっと先輩一筋ですし、あと七十年もそのつもりなんですよ」
「……ごめん」
先輩がしょんぼりした顔になったから、その腕を引いてうちまで向かった。
マンションの前で立ち止まると、先輩は悲しい顔で私を抱き寄せた。
「またね」
「はい、また」
「やだー、帰りたくないー」
「まあ、そうなる気はしてましたけど。先輩、出張の荷物もそのままなんですよね」
「……うん」
先輩は渋い顔のまま、名残惜しそうに私から体を離した。触れるだけのキスをして、つないでいた手も離す。
「あ、チョコ」
「チョコ?」
「先輩、ちょっと待ってください」
私は先輩をエントランスに残したまま、急いで部屋へ戻った。
カバンを放り出して、冷蔵庫の奥からバレンタインのチョコを取り出した。
「お待たせしました。遅くなっちゃいましたけど、バレンタインのチョコです。どうぞ」
チョコを差し出すと、先輩はぽかんとした顔で、私とチョコを何度も見比べた。
「……初めてだ」
「そうですね。高校の時は、ちょうどバレンタインの日が休みでしたもんね」
「死ぬまで大事にする」
「や、中身は食べてください」
「もったいなくて食べられないよ」
「来年も用意しますから」
「でもこれ、初めてだよ」
先輩は目を輝かせてチョコを見つめていた。
ちゃんと用意しておいてよかった。
やけになって捨てたりしなくてよかった。
先輩は大事そうにチョコをカバンにしまった。
「連絡しますね」
「俺もする」
「よかったら、金曜日の夜、泊まりに来ませんか」
「来る」
「土曜日、デートしましょう」
「うん、ありがと」
「もう一回キスしてください」
さっきより少し長くキスをして、それから先輩は帰っていった。
私は帰宅してシャワーを浴びた。着ていた服を洗濯して、部屋の中を軽く掃除する。洗濯物を干して、少し剥げたマニキュアを塗り直して、やることがなくなった私はベッドに倒れこんだ。
「わ〜〜〜……っ」
もー、なんなのあの人……甘い、甘ったるい!!
三十歳男性が出していい糖度じゃないと思う。
それに、夜もすごかった。
すごく、すごかった。
え、なに、世の恋人たち、あんなことしてるの……?
いやあ、私、あんな声出るんですね……大変な目にあった。
先輩も先輩で、あんな顔するんですね……国は傾いて転覆して、もう沈没しました。……違うか、吸収合併……?
ベッドの上で悶えていたら、スマホが震えた。
先輩からで、「家についた」という連絡だった。
なんかもう、文字まで甘ったるく見える。
私はブラウザを開いて、次の休みに先輩とデートする場所を探し始めた。
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