28.さみしかった穴をすべて埋めてしまおう。隙間なんて、どこにもできないように。
私が泣き止んでから、先輩と並んで顔を洗い、歯を磨いた。
部屋には、昨晩私が買ってきたおにぎりくらいしか食べるものがなかったから、先輩が買いに行くと言う。
「私も行きたいです」
「服がないし、そんな顔で出歩かせられないよ」
ぐうの音も出ない。
泣きすぎて顔全体がパンパンだし、化粧だってしていなかった。
先輩はくすりと笑って、唇がかすかに触れるだけのキスをした。
「ちゃんと帰ってくるから」
「……約束ですよ」
「約束する」
ただコンビニに行くだけなんですけどね。
私はつい今生の別れみたいに拗ねてしまうし、私に甘い先輩はそれを許してしまう。
先輩の背中を見送ったあと、急に恥ずかしくなって玄関でうずくまった。
ああもう。
昨晩から今朝にかけての醜態を思い出して、頭を抱えた。
さらに、それを見た先輩が満足そうに目を細めていたのまで思い出してしまって、口から変な声が漏れた。
先輩の前では絶対に出せない声だ。
「奈月、なんて声出してるのさ」
「うわっ、え、尚也先輩」
「ただいま、奈月」
いつの間にか先輩が帰ってきていて、笑いながら玄関の扉を閉めた。
私が立ち上がる前に、先輩はかがみ込んで私の額に口付けた。
「こっちは手洗いうがいを済ませてからな」
先輩は、買い物袋を持っていないほうの手の甲で私の唇に触れた。
供給過多です……。
立ち上がって、先輩からコンビニ袋を受け取った。
二袋あって、片方にはビールとチューハイ、もう片方にはコンビニチキンやおにぎり、サラダ、おでんが入っていた。
リビングに持っていくと、洗面所から出てきた先輩が袋の中身を取り出して、ソファ前のローテーブルに並べた。
「酒飲んでぐだぐだに甘えさせてくれるんでしょ?」
「はい! 全力で、甘やかさせていただきます!」
「まあ、飲まなくたって、俺は奈月にぐだぐだに甘えてるけどね」
つまり、お酒が入ったらもっと甘えてくれる……?
傾国どころか、国家転覆しちゃうな。もう手遅れだけど。
コンビニ袋の奥底から、先輩は濃いピンクの小瓶を取り出した。
「これ、塗ってもらっていい?」
差し出されたのは剥がせるタイプのマニキュアだった。
先輩を見ると、少しはにかんでいて、いや、かわいいですけども。
「じゃあ、酔っぱらう前に塗りましょうか」
「よろしく」
ソファで向かい合って座り、先輩の左手の親指にマニキュアを塗った。
思ったより色が薄いから、男性が塗っていてもそんなに目立たないと思う。
せっかくだから私も塗って、二人でドライヤーの風に指先を当てて乾かした。
先輩が幸せそうな顔で自分の爪と私の爪を見比べているのがかわいくて、ついスマホで撮ってしまった。すると先輩は手を伸ばして私の指先と並べた。
並んだ同じ色の爪を写真に残す。
ほんとーに甘ったるくて仕方ないやり取りだけど、付き合いたてだし、十年越しだし、これくらいは許してほしい。
***
――そして、一時間後。
先輩はぐだぐだに酔っぱらっていた。
今まではちゃんとセーブしてくれていたんだと、改めて気づかされた。
最初はソファに並んで座って、ビールの缶を軽くぶつけて乾杯していたのだ。
「コンビニのチキンっておいしいよね」とか、「おでんの具はなにが好き?」とか、そんなたわいない会話をしていた。
でも、先輩がビールを二缶空けて、チューハイの一缶目を開けたあたりから様子が変わってきた。
「……尚也先輩、大丈夫ですか?」
先輩がテーブルに置いた空き缶がかすかに揺れたから、違和感を覚えて顔を上げた。
そしたら先輩は頬を赤く染めて、涙目で私を見ていた。
「だめ」
「あ、だめなんですね? じゃあもうお酒はやめておきましょう」
「奈月がいなくて、だめだった」
「そっちかー」
本格的に酔っぱらってると気づいた時には、もう手遅れだった。
伸びてきた腕に引き寄せられて、先輩の頭が私の肩口に埋もれた。
「奈月、もう行かないで」
「行かないですよ。ちゃんと尚也さんと一緒にいます」
「ほんとに?」
先輩が私の肩に寄りかかったまま顔を傾けて、潤んだ視線を向けてきた。
先輩の倍くらいのペースで飲んでいた私は、ついムラっとして唇を重ねた。
すぐに離したけど、そのまま押し倒された。
先輩は私の肩口に顔を埋めたまま、鼻をすすってぐずぐず泣いていた。
私は手にしていた半分ほど減ったビール缶をテーブルに置いて、代わりに先輩の髪を指でゆっくり梳いた。
先輩は私にしがみついたまま、唸るような声でささやいた。
「なんで俺、あのとき追いかけなかったんだろう」
それは、十年前のことだろうか。
泣いて謝りながら図書室を飛び出した私を追わなかったことを、先輩はまだ気にしていたのか。
私が返事をする前に先輩が続けた。
「なんで、三週間も放置しちゃったんだろう。連絡なんて、しようと思えばできたはずなのに」
「それ、そんなに気にしてたんですか? 仕事なんだから、仕方ないじゃないですか」
「嫌だ。俺は奈月に、そんな言い訳したくない」
先輩は体を少し起こして私に覆いかぶさった。
何度か浅いキスをして、今度は私の首筋に顔を埋める。お酒の匂いを含んだ熱い息がかかって、くすぐったかった。
「奈月、好きだよ」
「私も先輩のこと好きです。十年前から、ずっと好きです」
「ずっと聞こうと思ってたんだけどさ」
ふと先輩が私を見上げた。
見返した瞬間、顎に軽くキスされた。
私が先輩の髪を撫でると、先輩は気持ちよさそうに目を細めた。
「奈月は、いつから俺のこと好きだったの?」
「言ってませんでしたっけ。初めて図書室でお会いしたときに、一目惚れしたんです」
そう言うと先輩は不思議そうな顔をした。
「俺、後輩の女の子に一目惚れされるような顔してないんだけど」
「そんなことないですよ。実際にしちゃったんですから、一目惚れ」
先輩は、ますます不思議そうな顔をしていた。
まったく、失礼だと思う。
私の好きな人はこんなにもかっこいいのに、本人はそれをまるで理解していない。
「高校に入学して、一週間も経たない頃でしたっけ。できたばかりの友達と図書室に行ったら、中学よりずっと立派で驚いたんです。そしたらカウンターに背の高いかっこいい先輩がいて、声をかけてくれたじゃないですか。あれはもう、恋に落ちるしかなかったんですよ」
「……俺のこと、かっこいいって言うの奈月だけだよ」
「いいことじゃないですか。私だけの尚也先輩でいてください」
ぎゅっと先輩を抱きしめた。
先輩も私の背中を抱き寄せてくれて、その腕があったかくて幸せだった。
「先輩は、いつから私のこと好きなんですか? 再会してからですか?」
そう聞くと、先輩は私の首を噛んだ。
「痛いです……」
「バカなこと言うから」
「そ、そうでしょうか」
そんな噛みつかれるほど、おかしなことを言っただろうか。
先輩は、さっき噛んだ私の首筋に唇を寄せたまま、甘えるみたいに吸っていた。
月曜日はハイネックの服を着ていこう。
「俺も似たようなもんだよ。高校三年生になって、図書室で一年生用の貸し出しカードを用意してたら、一年生の女の子が三人、きょろきょろしながら入ってきたんだ。目が合った瞬間、なんか涙目になってるからびっくりしてたら、声をかけられてさ。そのときの笑顔がかわいかった」
「……そ、そんなに前から」
「そうだよ。だから運動会だって頑張ったし、文化祭を一緒に回れたのも嬉しかったし、大学が決まった時に奈月が泣いて喜んでくれて、俺まで泣きそうだった」
先輩はそう言いながら、また私の首と肩の間に歯を立てた。痛くはないけど、くすぐったくて落ち着かない。
「……だからこそ、卒業式の後のことは俺も悲しかったんだよ。俺が、勇気を出せなかったから、君をあんなに泣かせてしまって」
「あれは、私の方に勇気がなかったから」
先輩は小さく首を横に振った。
「『先輩いなくならないで』って言われたときに、ちゃんと答えればよかったんだ。『彼女になってくれ』って。そうすれば、あんなに泣かせないで、一緒にいる理由を作れたのに」
胸元がじわじわ温かくなった。
先輩の指先が背中に食い込んだ。私はぼんやり天井の明かりを眺めながら、先輩の頭を抱きしめた。
「先輩、ごめんなさい」
「なにが?」
「再会してからだなんて言って」
「ほんとだよ」
先輩はむすっとした顔で私を見上げた。
「ずっと忘れられなかったから、終電で奈月を見つけた時も、すぐにわかったし。俺がどれだけ嬉しかったか」
「……尚也さん」
「ん?」
私は先輩の背中を軽く叩いて、体を起こさせた。
自分も起き上がって、先輩に向き合う。
「シャワーを浴びましょう」
「え、うん」
「それで、ベッドでいっぱい、いちゃいちゃしながら寝ましょう」
「んん?」
「私が気づかないとでも思ったんですか?」
手を伸ばして、先輩のズボンのポケットを軽く叩いた。そこには、私の手より少し大きいくらいの薄い箱が入っていた。
まあ、そういうことなんだろう。
先輩は気まずそうに黙り込んだ。
私は先輩から目を逸らしたて、テーブルの上のビール缶を飲み干した。
食べ物はもうないから、コンビニ袋にゴミをまとめていく。
全部片づけてから、今日は私が先にシャワーを借りた。
冬の終わりの夜は長いけど、でも全然寂しくなくて、人生で一番幸せな一夜だった。
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