27.離さないと、そうあなたは言うけれど、十年前からそのつもりです。
目が覚めたら、左腕から肩にかけてじんわり痛かった。
何でだっけ。
ぼんやりと見回すと、腕の中で山田先輩が静かな寝息を立てていた。
「うわ……、ええ?」
思わず飛び退きかけたけど、体がまったく動かない。
左腕に先輩の頭が乗っていて、私の腰と背中を先輩の腕ががっしり抱きしめている。脚も絡んでいて、身じろぎすらできない。
頭だけ動かすと、カーテンの隙間からやわらかな日差しが差し込んでいた。
それを見て、昨晩のことを思い出した。
……この人、今は私の彼氏なんだ。
そう思ったら無性に恥ずかしくなってきた。
よく考えたら、先輩は私の胸に顔を埋めて寝ていて、寝息がスウェット越しにくすぐったくて、体もぴったりくっついていてそわそわする。
「先輩、先輩、ちょっと離してください」
背中を擦りながら言ったけど、先輩はますます強く私を抱きしめてきた。
「せんぱーい、ね、ちょっと離して」
「……やだ」
胸元から掠れた声がして、先輩は顔をぐりぐりと私の胸に押し付けてきた。
痛いしくすぐったいし、恥ずかしい。先輩のさらさらの髪が私の顎をくすぐった。
「先輩、あの、お手洗いにだけ行かせてください」
「やだ」
低い声だった。
先輩は顔を上げないまま、私にぎゅっと縋りついた。
「行かないで。もう、俺の前からいなくならないで」
返事ができなかった。
私はずっと、十年前の卒業式の日のことを後悔していたけど、それを先輩がどう思っているのか、考えたこともなかった。
先輩の背中と頭をぎゅっと抱き寄せた。
「先輩、いなくなりませんよ。私はずっとずっと、先輩と一緒にいます」
「……うん」
先輩の頭に頬擦りした。
昨晩借りたシャンプーの匂いがして、思わず頬が緩んだ。
「先輩、お手洗いだけ行かせてください」
「帰ってくる?」
「帰ってきます。あ、ついでにお水も持ってきましょうか」
「んー、なら、俺も行く」
ゆっくりと脚と腕が解かれた。
先輩は寝ぼけた顔でゆっくり顔を上げて、私を見た。
「……秋谷だ」
「はい、先輩の秋谷です」
「最高」
先輩は目を細めてはにかんだ。
最高なのはそっちです……!
「秋谷、またバカなこと考えてるだろ」
ふふっと笑って、先輩はゆっくり体を起こした。
私も起きてベッドから降りた。枕もとの時計は土曜日の夕方を指していて、まだまだ一緒にいられる時間だ。並んで立つ先輩と指を絡めて、順番にお手洗いに行って水を飲み、ベッドに戻った。
「秋谷、奥で寝てもらっていい?」
先輩がなぜか不安そうに言うから、私は小さく頷いて先にベッドに入った。先輩も続いて横になると、はにかんで私の髪を撫でた。
三十歳の男性がこんなにかわいくていいんだろうかってくらい、かわいい。
「ねえ、秋谷。お願いがあるんだけど」
砂糖とハチミツを煮詰めたみたいな甘ったるい声と眼差しが、全部私に向いていた。
どろどろのそれに飲み込まれたら、きっと抜け出せないのに、私は自分から飛び込んでいた。
「なんでしょうか?」
「名前で呼んでいい? ……俺も秋谷に名前で呼ばれたいし」
先輩は私の髪を梳いていた。時折、指先が耳元に触れてくすぐったくて、そのたびに触れたところが火傷したみたいに熱くなる。
それだけじゃなくて、緊張で顔が熱くて仕方なかった。
「……いいです。な、尚也さん……すみません、まだ恥ずかしいので、えっと、尚也先輩」
一瞬、先輩がはにかんだのが見えた。でも、ちゃんと見る前に背中を引き寄せられた。
「奈月。奈月、好きだよ」
耳元で、低くて甘い声が囁かれた。
背中がぞくぞくして、力が抜けてしまう。
「わ、先輩」
「ダメ、名前で呼んで」
「な、尚也先輩……っ」
「ん、よくできました。好きだよ、奈月。ずっとずっと好きだった」
強く抱きしめられて、まったく動けなかった。
なんとか腕を伸ばして、先輩の背中に手を回して抱き寄せた。
「はい、私も、ずっと好きでした。えへ……嬉しい」
「奈月」
「はあい」
「あー、ダメだ。好き。好きだ」
先輩は私を折れそうなくらいぎゅうぎゅう抱きしめて、ずっと耳元でささやき続けていた。
自重をお願いしたかったけど、その甘い声がかすかに震えていたから、やめさせることなんてできなかった。
「俺、本当に寂しかったんだ。高校を卒業したときも、昨日までも」
「そうだったんですね……そっかあ」
「だから、もう離さない」
「私も離れません。寂しかったから。好きです、尚也先輩」
先輩の背中は広くて固くて、少し汗ばんでいた。顔を埋めた胸も薄くて固くて、男の人って感じでドキドキする。
先輩も私を抱きしめたまま、まだ耳元で
「好き、奈月。もうどこにも行かないで」
と、悲しそうにささやいていた。
私が感じている以上に、この三週間は先輩にとってしんどかったんだろう。もちろん、十年前も。
「どこにも行きませんよ。私の居場所はここだけなので」
「……本当に?」
先輩の手の力がふっと緩んだ。
少しだけ体が離れて、顔を覗き込まれた。
眼鏡をかけていない先輩の目は鋭いのに、どこか悲しそうに揺れていて、目が離せなかった。
「本当です。私、十年も先輩に片思いしてたんですよ。今さらどこに行くって言うんですか」
「それを言うなら、俺も十年片思いしてたんだけど」
不貞腐れたような言い方がかわいくて、つい首を伸ばしてしまった。
一瞬触れた唇は、予想よりずっと柔らかい。
「……ちょ、待って、俺我慢してたんだけど」
「しなくていいですよ」
「止めてくれる? 十年分こじらせてるんだからさあ」
「こっちのセリフですけど」
「……奈月のこと、大事にしたいんだよ」
先輩は唇を噛んで、私のことをじろっと睨んだ。
でも怖くはなくて、かわいいとしか感じられなくて、先輩が考えているより、私はこじらせている。
「ね、先輩」
「名前」
「尚也さん、ちゅーしていいですか?」
「……ダメ、俺がする」
先輩が体を起こして、そのまま私に覆いかぶさってきたから、思わず目を閉じた。
瞼に柔らかい感触があった。続いて鼻や頬、耳に触れて、熱い吐息がかかってドキドキする。
「……っ、尚也さん」
「煽らないで。すっごい我慢してるから」
低い声に、つい目を開けたら、先輩がくっつきそうな距離で真っすぐに私を見つめていた。視線だけで溶けてしまいそうなくらい熱くて、心臓が飛び出しそうだ。
手で先輩のシャツを掴んだ。
ほんの少しだけ引き寄せて、唇を重ねる。
「尚也さん、キスして」
「っとに、なんなんだよ」
先輩が苦しそうに顔をゆがめた。瞳の奥にどろどろとしたどす黒い欲がたぎっているのが見えそうだ。
でも、それを抱えているのは先輩だけじゃない。
「我慢してるの、先輩だけじゃないんですよ。寂しかったのも、離れたくないのも、先輩だけじゃ、ないんです……っ」
勝手に涙が出てきた。
喉が詰まって、それ以上言葉が出ない。
先輩はあっけにとられたような顔をして、何度か瞬きを繰り返した。
「奈月」
「っ、は、はい」
「好きだよ。俺は、ずっと君だけが好きだ」
さっきまでの重苦しい声とは違う、穏やかで優しい声だった。
私の目からはぼろぼろと涙が溢れ続けた。
先輩は起き上がって、ベッドの真ん中に胡坐をかいた。
手を引かれたので、私も起き上がって先輩の向かいに正座した。
「ごめん、我慢させて。ごめん、寂しい思いをさせて。もうそんなことさせないから、ずっと俺といてくれませんか」
「……はい、はい……っ、ずっと尚也先輩と一緒にいたいです」
先輩が腕を広げた。私はその腕に飛び込んだ。
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