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26.泣かないで。そう言う私が一番泣いているけど、止まらなかった。

 私は先輩に手を引かれてタクシーを降りた。

 先輩は振り返りもせず、早足でマンションのエントランスを抜けてエレベーターに乗った。

 無言のまま、エレベーターの駆動音だけが狭い箱の中に響いている。私は先輩の少し後ろにいるから、先輩がどんな顔をしているのか、ちっともわからない。

 エレベーターが止まった途端、また手を引かれた。

 そのまま一番端の扉まで進み、先輩が鍵を開けた。


 先輩の部屋のことは、これまで何度も考えたことがある。

 いつか来たいな、とか、お邪魔したいって言ったら先輩はなんて言うだろう、とか。


 何度となく想像したその部屋は、思っていたよりずっと冷えきっていた。

 よく考えたら、先輩は三週間ぶりに帰宅したばかりなのだから当たり前だ。

 先輩はパチパチと玄関から廊下、その奥のリビングらしき部屋まで、順に明かりを灯していく。

 部屋の入り口で先輩がカバンを下ろしたので、私も横に置かせてもらった。

 先輩らしい、さっぱりとして物の少ない部屋だった。私は先輩の後ろで、ついキョロキョロと見回してしまう。

 エアコンのスイッチを入れたところで、先輩がゆっくり振り返った。


「えっと、部屋温めておくから、先にシャワー浴びておいでよ」


 どうしようかな。

 少し迷ってから首を横に振った。


「お待たせしちゃうので、先輩が先にシャワーどうぞ。あの、メイクを落としたりもありますし……その、先輩の顔色が悪くて、不安だから」


 先輩は少し黙ってから、私の手をきゅっと握って離した。


「……わかった」


 先輩はコートを脱いで、リビングの奥の部屋へと入った。


「秋谷、こっち」


 ついていくと寝室で、大きなベッドとクローゼットがあった。クローゼットは開いていて、先輩はそこにコートをかけていた。

 私にもハンガーを貸してくれたので、着たままだったコートを脱いでかける。先輩は私の手からコートを取って、自分のコートと並べてクローゼットにかけた。


 ……やばいな。同棲してるみたいだ。先輩を見上げると、スーツのジャケットを脱いで同じようにかけていた。今日はネクタイはしていないけど、今度、着けるところも外すところも見てみたい。

 そのまま先輩はスラックスのベルトも外して、クローゼットの中の棚に置いた。

 これは、このまま見ていたらダメなやつでは?

 慌てて後ずさると、先輩はぼんやりした顔のまま欠伸をして、クローゼットを閉めた。

 手にはボトム用のハンガーを持っている。

 そのままふらふらと寝室を出ていったのでついていくと、リビングを抜けて廊下に差しかかったところで振り返った。


「じゃあ、ちょっと待ってて」


 先輩の手が伸びてきて、私の頭を優しく撫でると、すぐに離れた。

 名残惜しそうな顔をしながら、先輩は廊下の途中にある扉に入っていった。


***


 普通に致死量の先輩だった。

 いやいやいや……破壊力たっか!!

 浴室から水音がして、今さらだけど心臓が飛び出しそうなくらい暴れ狂っていた。口から出そうだ。

 先輩の部屋ってだけで深呼吸したいくらいなのに、寝室まで見せてもらって。いや、深呼吸は今すればいいな。


 私は先輩を見送った姿勢のまま突っ立って深呼吸した。

 こう、他人の家の匂いがした。

 ちょっと埃っぽいのは三週間誰もいなかったからなのだろう。

 本当は寝室に戻って先輩の枕の匂いを嗅ぎたいけど、それは我慢。まだシャワー浴びてないし、一日仕事をしてきた服で人様のベッドに上がっちゃダメだと思う。だから、枕は追々ね。きっと機会がある。

 たぶんあと三十分後くらいに。

 寝室の方を、つい見てしまう。

 ダブルサイズのベッドがあった。

 寝るのか、あそこで、先輩と。

 ごくりと喉が鳴った。

 考えたことがないわけじゃない。なんなら十年前から、想像の一つや二つしてきたけども。



 ……先輩はどうなんだろう。


 先輩は昔から穏やかで物静かな人だった。先輩の同級生の女子から、「キモい」「いるんだかいないんだかわからない」「とろくさい」と陰口を叩かれていたのも知っている。

 だから余計に口数が少なくなって、気配が薄くなっていったのも知っている。

 そんな先輩が、私が声をかけたとき、丸めていた背中を伸ばして、俯いていた顔を上げるのが好きだった。


「秋谷」


 そう言ってはにかんでくれるのが嬉しくて、子犬みたいに先輩にじゃれついていた。

 十年経った今でも、先輩が私に気づいたときにふっと表情を緩める瞬間が好きだ。

 でも、今日の先輩はずっと泣きそうだった。私を見つけたときも、告白したときも、この部屋に帰ってきたときも。

 笑ってほしいけど、笑えないくらい疲れてるのもわかるから、私にできることはそばにいることだけだ。

 そんな先輩が、


「俺はもう、秋谷から離れたくない」


 と言って私を連れて帰った。

 ど、どうしよう。


 気づいたら水音が止まっていた。

 つい耳を澄ませてしまって、浴室の扉が開く音や床の軋みまで聞こえてきた。

 ていうか私、先輩がシャワー浴びてる間、突っ立ったままだったな。

 今さら部屋を見回すと、大きなテレビとローテーブルとソファがあった。

 ソファに座っておけばよかった。いや、まだ間に合う。

 慌ててソファに座ったけど、緊張しすぎて背筋を伸ばしたまま待っていた。


 やがて先輩が戻ってきた。黒い上下のスウェット姿で、肩にタオルをかけ、手にはドライヤーを持っていた。


「お待たせ」


 ペタペタと足音を立てて、先輩が私の横に立った。


「せ、先輩……」


 掠れたような、上ずった声が出た。

 先輩はふっと微笑んだ。


「秋谷もシャワー浴びておいで。脱衣所の洗濯機の上に着替えを置いておいたから」


「ありがとうございます。えっと、お借りします」


 立ち上がって先輩の横を通り抜けようとしたら、ふいに腕を掴まれた。

 見上げると、先輩の顔がゆっくり近づいてきて、額に温かいものが触れた。


「ひゃわ」


「ん、いってらっしゃい」


「あ、あの、自重してもらって」


「しない。しないけど、シャワーの間くらいは待つよ」


 先輩は溶けそうに熱い眼差しで、じっと私を見つめた。

 ほんと、供給過多!

 私があわあわしていると、先輩は目を細めて、また私の髪を丁寧に梳いてくれた。


「悪いけど、すごい眠いから先に横になってる。秋谷もシャワー浴びたらおいで」


「ひゃい……」


 先輩はやわらかくニコッと笑った。

 私はなんとか後退りして、リビングから廊下に出た。

 扉を閉める前に振り返ったら、先輩はまだ私を見送ってくれていた。



「はー……」


 脱衣所で服を脱いで、きちんと畳んで洗濯機の上に置いておいた。

 先輩が用意してくれたタオルとスウェットの上下が、隣にきれいに積んである。先輩が着ていたものとおそろいだ……。

 浴室はまだほんのり温かくて、そうか、さっきまでここで先輩がシャワー浴びてたのかあ。


 化粧を落としてからシャワーを出して、体を流した。

 思っていたより体が冷えていたみたいで、温かいシャワーがじんわり気持ちいい。

 置いてあったシャンプーでいつもより丁寧に髪を洗った。これ、普段先輩が使ってるやつなんだよなあ……。トリートメントはなかったけど、さっきコンビニで買ってきたお泊まりセットに入っていたから、それを使った。

 体も念入りに洗って、しっかり拭いてから浴室を出た。買ってきた下着をつけて、用意してもらったスウェットを着ると、また先輩の匂いがして、思いっきり吸い込んでしまう。

 この後先輩とベッドに入るのに、わざわざ借りた服の匂いをかがなくてもいいのに、緊張してどうしようもなかった。


 髪をタオルで拭いて、脱いだ服を抱えたまま、忍び足でリビングに戻ると、部屋は真っ暗になっていた。

 先輩、先に横になるって言ってたっけ。

 物音を立てないように、カバンからエコバッグを出して、服をそっと入れておいた。


 こそっと寝室を覗くと、ベッドがこんもり膨らんでいて、きっと先輩は休んでいるんだろう。ひどい顔色だったから、そのままゆっくり休んでいてほしい。

 私はドライヤーを持って脱衣所に戻り、静かに髪を乾かした。

 タオルは洗濯機に入れればいいかな。中を覗くのは我慢して、そのまま入れさせてもらった。


***


 ……ここに、入ってもいいのかしら。

 再び寝室に戻ってきて、私は先輩の寝顔をじっと見つめていた。

 オレンジの常夜灯に照らされて、相変わらず青白い顔で、先輩は静かな寝息を立てていた。

 私は屈んで、先輩の顔を覗き込んだ。


「……先輩、山田、尚也先輩」


「……ん」


 先輩の目が薄っすら開いた。

 メガネをかけていないからか、焦点の合わないぼんやりした顔で、私を見ている。


「あきや」


 手が伸びてきたので、体を起こしてその手に自分の手を重ねた。

 力強く引っ張られて、そのまま布団の中に引きずり込まれる。


「先輩?」


「秋谷……よかった、本物だ」


 先輩は私を抱きしめながら、ぽつりと呟いた。

 その低い声に、胸が締めつけられて、無性に泣けて仕方なかった。

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