24.春が来て、季節が過ぎて冬になる。大事なきみが春を連れてきた。
俺、山田尚也は、ふらふらしながら会社を出た。
本当に酷い三週間だった。
一週間で済むはずのトラブル対応が、お客様都合で三週間に延びて、ホテルにすら帰れない日もしばしばあった。
こっちは寝不足の中で必死に状況を確認してるのに、客は隣でぺちゃくちゃ喋ってるし、一緒に来たのが慣れてない新人ばかりで、結局ほぼ俺一人で対応するはめになった。
客がいたのは仕方ない。緊急でのサーバールームへの入室だったから、立ち会いが必要だったのだ。
でも、もう一人か二人くらい、慣れてるエンジニアをつけてくれても良かったと思う。
疲れ果てていた俺が、先ほど会社で切れ散らかして来たから、次はないと思う。
といっても、次に似たようなことがあれば年次的に俺が責任者になるだろうから、こんなことは起きないようにしないといけない。
慣れない街でほぼ一人で、寝ずに働き続けるのは心が荒む。忙しすぎて一日一食、それもコンビニ飯だけという日々が続いた。
でも、なんとか帰ってこれた。途中で花沢さんやチームメンバーにはこまめに報告をしていたし、今日の夕方に帰ってきて報告もだいたい済ませたから、土日と月曜日も休みにしてきた。
……秋谷とも、結局三週間連絡すら取れなかった。
二月の頭にごはんに行く約束をしていたのに、ドタキャンしたきりだ。一週間出張に行くと言ったのに、三週間も放置してしまっている。
そもそもデータセンターは私用のスマホが持ち込み禁止だった。その上、忙しすぎてホテルにすらほぼ戻れず、二、三日に一度、深夜に寝に帰るだけで、秋谷に連絡できるような時間もなかった。
悲しい気持ちのまま、スマホを取り出す。
ニャインの秋谷のアイコンに触れた。俺が好きで大事にしていた本の続刊だ。秋谷がそれをわかってアイコンにしているのかと考えると、疲れているせいか、目頭が熱くなる。
彼女との最後のやり取りは、三週間前の通話だ。
それきり、連絡は途絶えたままだ。
帰りの新幹線でも連絡したかったけど、移動中はずっと報告書を作らないといけなかった。そうしないと月曜日に休みを取れなかったし。
でも、本当は怖かったんだ。
ごはんに行こうとは言ったし、秋谷は「待ってます」と言ってくれた。
……本当に、待っていてくれているのだろうか。
秋谷を疑うというより、自分に自信がなかった。
あの子は俺の光だけど、秋谷にとって俺はどれだけの価値があるんだろう。
三週間もなんの連絡もしなかったのに、待っていたいと思えるだけの価値が、自分にある気がしなかった。
冷たい風が頬を撫でる。
ぼんやりとスマホの時計を見た。
まだ終電には時間がある。
でも、彼女ですらない後輩に連絡するには、気が引ける時間だ。
俺が秋谷の彼氏なら、気兼ねせず連絡できたのだろうか。
もしそうなら、秋谷は俺に連絡をくれたのだろうか。自分から待たせておいて、なんて女々しいんだろう。
秋谷に会いたかった。
だから連絡ができなかった。
もし今、秋谷に会ったら、俺はきっとあの子を帰せない。泣きながらすがりついて、そのまま連れ帰ってしまうと思う。
考えただけで、涙が出そうだ。
……正直に言えば、正月の段階で結構迷っていた。
大晦日に実家に顔を出したら、兄夫婦と生まれて半年ほどの甥っ子も来ていた。
兄に勧められて抱っこさせてもらったら、温かくて柔らかくて、小さいのに命の重さがあって、俺なりに感動したのだ。
なのに、ふとしたタイミングで二人きりになった兄嫁からチクリと言われたのだ。
「尚也さんは結婚の予定はないんですか?」
「いえ、今のところは」
もちろん秋谷のことは思い浮かんだけど、付き合ってすらいない女の子のことを言う気にはなれなくて濁した。
そしたら、
「将来的に、うちの子の負担になるようなことは避けてくださいね」
と氷のような声で言われた。
絶句している間に兄嫁は立ち去ってしまい、その後、晩飯を済ませたら秋谷から助けを求められたから、これ幸いと離脱させてもらった。
秋谷と初詣を済ませて実家に戻ったあと、兄嫁とは目も合わなかった。
代わりに母から
「赤ちゃんはいいわねえ。あんたも思うところがあったんじゃないの?」
なんて言われてげんなりする。
初詣の帰りに秋谷から、
「実家にいてもろくなことがないから、荷物だけ回収して帰ります」
と聞いていたから、俺もそれに便乗させてもらった。
……たぶん、初詣から戻るときに秋谷を連れて行けば良かったんだと思う。きっと秋谷なら付き合ってくれたし、兄嫁も母も安心させられたはずだ。
秋谷も似たような目にあってきたと言っていたから、俺も秋谷の実家にご一緒させてもらってもよかった。
そうしなかったのは、俺の都合に巻き込みたくなかったからだし、秋谷にきちんと向き合うことすらできていないのに、彼女の振りだけ頼むのは卑怯だと感じたからだ。
もっとも、それをきっかけにすらできなかった、情けない俺の言い訳でしかないけど。
ぼんやり思い出しながら歩いているうちに、駅に着いた。
駅前の花壇ではチューリップの蕾が膨らんでいる。
もうそんな時期なのだ。
秋谷と再会してから、一年近くが経っていた。
また、俺はあの子を失うのだろうか。
十年前と同じように、泣かせるだけ泣かせて、あの子を追うこともできずに。
……それだけは、嫌だ。
知らないうちに唇を噛んでいた。
改札を抜けると少し先を歩いていた若いカップルが走り出した。
間もなく電車が来るとのアナウンスが流れている。
終電ではなさそうだから、まあいいかとそのまま見送る。
今の俺には急ぐ理由も元気もなかった。
エスカレーターに乗ると、反対側からポツポツと人が降りてきた。
上がりきったときには、ホームはすっかり人気がなくて、いたのはベンチの前で冷たい風に髪を揺らす、愛しい君だけだった。
「……あきや」
声を出せたのかどうかも分からなかった。
本物だろうか。
会いたすぎて見えた幻か何かかもしれない。
足がすくむ。
冷たい風が顔に吹き付けて、泣きそうな目を乾かした。
秋谷の幻が、髪とコートを揺らしながら俺に近寄ってきて、笑顔で口を開いた。
「先輩、お疲れ様です」
「……どうして」
秋谷はちょっと困ったように笑って、髪を抑えた。
彼女が口を開く前に、ホームにアナウンスが響いた。間もなく終電が来るという知らせだった。
遠くから、電車の低い音が響いてきた。
「終電……乗ろうか」
なのに秋谷は困ったような笑顔のまま、首を横に振った。
秋谷の手が伸びてきて、俺の手に触れた。
冷たく冷え切った小さな手が、俺の手をぎゅっと強く握った。
唇を噛む。
秋谷は真っすぐに、俺を見ていた。
電車が来た。
ゆっくりと扉が開いて、車内の温かい空気が流れ出た。
でも俺も秋谷も動かない。
秋谷が口を開いた。
「終電なんか逃したっていいです。私はもっと、あなたといたい」
喉が詰まって、言葉が出なかった。
車掌が何か言っているのが聞こえる。
俺はうつむいて、秋谷の手を握り返すことしかできなかった。
扉が閉まる。
冷たい風が吹き抜けて、俺たちは最終電車に乗り損ねた。
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