20.この先もあなたと笑っていられるように、たわいない約束をする
帰宅後、どうにかシャワーだけ浴びて、そのままベッドに倒れこんだ。目が覚めたら、カーテン越しの外がオレンジに染まっていた。
日付と時間を確認しようとしたら、充電を忘れていてスマホの電源が切れていた。充電器につないで、買ってきた水を一口飲んで、またベッドに戻った。
次に目が覚めたら、窓の外がすっかり明るくなっていた。
「……?」
スマホを見たら、日曜日の朝九時過ぎだった。
……土曜日いっぱい寝てたのか、私は。
寝過ぎでしょ。でも疲れてたし、先輩と徹夜で飲んでたし、仕方ない。
欠伸をしながら、スマホに溜まった通知を一つずつ確認していく。
すると、一番下に山田先輩からのメッセージが届いていた。
『ちゃんと帰った?』
「……いやいや」
思わず呟いた。
だって先輩、マンションの下までタクシーで送ってくれたじゃないですか。
あとはもうエレベーターに乗るだけの状態で、手を振って別れたのに。メッセージの着信時間は昨日の朝。
つまり、先輩は帰宅してからこれを送ってくれたんだろう。
「はーーーー、好き」
思わず深々とため息をつくくらい好き。きっと、高校の時よりも好きだ。
少し迷ってから、スマホを打ち込む。
「ちゃんと帰りました。今まで寝てました。おはようございます」
そう送って、ベッドから起き上がった。
カーテンを開けると、秋の朝の穏やかな日差しが部屋いっぱいに差し込んできた。
シャワーを浴びて、歯を磨いて、洗濯を回した。買ってきた朝ごはんを食べて、洗濯を干して、部屋に掃除機をかける。
春に買った桜色のマニキュアを塗って、ちょっと迷ってから左手の親指だけ先輩が選んでくれた茶色にした。
せっかくだから明るい窓際で写真を撮ったら、スマホが震えた。
山田先輩からの返事で、
『おはよ、俺も昨日はほとんど寝てた』
と送られてきた。
今撮ったばかりの手の写真を送った。
「先輩とおそろいです」
そうメッセージを添えたら、すぐに
『待ち受けにした』
と返ってきた。
いやいや、恥ずかしいんだけど!?
それならもうちょいマシな写真撮ったのに……。
まあ、私も先輩の写真、待ち受けにしてるしなあ。しかもシャッフル設定にして、ロックして解除する度に違う先輩の写真になるようにしてある。
どの顔も最高だから、もっと早くやっとけばよかった。
ていうか、それに何て返せばいいの。
悩んでいたら、また先輩からメッセージが送られてきた。
『ごめん、キモかったら止める』
先輩はこういうところがある。
仕方のない人だけど、それすらもかわいいと思っちゃうから、私もたいがいだ。
私は一人でニヤニヤしながら、スマホに指を滑らせた。
「私も先輩の写真を待ち受けにしてるから大丈夫です」
あっという間に既読がついた。
『電話していい?』
「いいです」
窓を開けて、ベランダの方を向いて座った。秋の冷たい風が部屋の中にすっと吹き込んでくる。どこからか落ち葉が舞い込んできたから、拾ってベランダにそっと置いた。すぐに電話がかかってきた。
『もしもし? おはよ、秋谷』
掠れた声に、思わずニヤニヤが止まらない。
電話越しで本当に良かった。
「おはようございます、先輩」
『起きてた?』
「はい、一時間くらい前に起きて朝ごはん食べたりしてました」
『俺はさっきまで寝てた。秋谷はしっかりしてるね』
スマホの向こうで、くわっと小さく欠伸の声が聞こえた。録音しておけばよかった。
『秋谷、この後って用事ある?』
「ないです! ごはん行きましょう!」
勢い余って誘ったら、先輩がクスクス笑う声が聞こえた。
耳元で先輩の声がするのは、今更だけど結構な供給過多で、直接だったら致死量だった。
『俺から誘いたかったけど、まあいいか。行こう。何食いたい?』
「先輩とだったら何でもいいですけど……あ、じゃあ」
ゴールデンウィークに行った、公園近くのごはん屋さんに行くことにした。
先輩は起きたばかりで朝も食べてないって言うから、急いで支度をして部屋を出た。
「せんぱーい」
「秋谷、おつかれ」
今日も駅で、山田先輩が先に待っていた。
私が駆け寄ると、先輩はニコッと微笑んで、小さく手を振ってくれる。
「……うん、だいぶ顔色が戻ったな」
「顔色ですか?」
聞き返すと、先輩は苦笑した。
「金曜日の夜中に会ったとき、秋谷の顔色が土気色だったから心配してたんだよ。ゾンビみたいだった」
「そんなに……?」
「秋谷はいつもニコニコしてるから、たまにそうじゃないと心配になるんだけど、今日はもう大丈夫そうだな。爪もかわいい色になってるし。行こうか」
先輩が歩き出して、私はその後ろをついていく。
公園の最寄り駅で、軽く昼ごはんを済ませた。それから公園内をぶらぶらと散策した。
秋の昼過ぎの公園は相変わらず賑わっていた。
駆け回る子どもに、尻尾をブンブン振りながら散歩する犬。ゆっくり歩く老夫婦に、ジョギングをする人たち。
遠くにアスレチックがあって、子どもたちが鈴なりになっているのが見えた。
「先輩、アスレチックって得意ですか?」
「得意なわけないだろ」
憮然と顔をしかめる先輩に、つい笑ってしまった。そんなに嫌がらなくてもいいのに。
「体育嫌いでしたもんね」
「覚えてたなら聞くなよ。本当に苦手だったんだ。秋谷は?」
「私も別に好きじゃないです。一人で黙々とやるマラソンや陸上競技はいいんですけど、チームでやるものは苦手で」
「わかる……」
消え入りそうな声で、先輩が言った。
「じゃあ、今度一緒にジョギングしませんか? 最近寝不足と食べ過ぎでお腹周りがヤバいんです」
「えー、秋谷の前でかっこ悪いところ見せたくない」
先輩は唇を尖らせて私を見た。
それを見た私は、ふとキスしたくなった。
……いやいやいや!?
付き合ってもいないのに何考えてんの!?
でも、先輩の唇から目が離せなかった。
「秋谷?」
「ひぇっ」
先輩が不思議そうな顔で、黙りこんだ私の顔を覗き込んだ。
ちょ、近い、近い……!
「大丈夫? 顔赤くない?」
「だっ、だいじょばなくもない、です……?」
「何言ってるんだよ」
先輩はまた、ふふっと笑った。
なのに先輩は私のことをじっと見つめたままで、目が逸らせない。
「せ、先輩……」
「ん?」
「あの、近い、です」
「ごめん」
先輩がちょっと眉を下げて、距離を取った。違う、そうじゃない。そんな悲しい顔をさせたかったわけじゃない。
「ちが、先輩、違うんです。あの、あんまり近いと、手を出してしまうので」
言い終わる前に、先輩の目と口がまん丸になった。
いや、待って、それもダメじゃない?
「秋谷」
「は、はいっ」
「心の準備をさせてください」
「は?」
見上げた先輩はそっぽを向いて、耳まで真っ赤になっていた。
なに? 心の準備……?
でも聞き返す前に、先輩はすたすたと早足で行ってしまった。
ぐう、余計なこと言っちゃった。先輩が「キモくてごめん」と言う気持ちが、痛いほどにわかってしまった。
「先輩、ごめんなさい」
慌てて追いかけて、先輩の隣に並んだ。
先輩は私を見て、また目を丸くして、慌てて首を横に振った。
立ち止まって、困ったような顔で私を見た。
「あ、違う、別に怒ってるとか嫌とかじゃないから。秋谷、泣かないで。俺、秋谷に泣かれるの苦手なんだよ」
「泣いてないですよ」
「泣きそうだろ。ごめん。驚いただけだから」
「いえ、私こそ、キモいことを言ってしまいまして」
先輩の顔が見られなくて、俯いてしまう。
愛想を尽かされたらと思うと、怖くて顔が上げられない。
「キモくないし、嫌じゃない。言っただろ。俺は秋谷以外の女の子とデートしたことも、飯に誘ったこともない。俺には秋谷だけだよ」
「……あの、それって」
おそるおそる顔を上げると、先輩は照れたようにはにかんでいた。
「秋谷、来年はちゃんと約束をしてイルミネーション見に行こう」
それはつまり、来年も一緒に過ごそうっていうお誘いだった。
そんなの、答えは一つしかない。
「はい!」
「今は、またジェラート食べに行こうか。前とは違うやつ食べよう」
「食べたいです! 秋だから栗とかサツマイモのジェラートがいいな」
「きっとあるよ」
さっきとは違って、ゆっくり歩き出した先輩と並んで、ジェラート屋に向かった。
***
翌朝出社すると、始業前にエンジニアの人たちが営業部にやってきた。
打ち合わせのたびに罵倒されていたから、つい身構えたら、気まずそうな顔で頭を下げられた。
私の隣で磯山先輩も怪訝そうに様子を見ている。
「あの……?」
「すまなかった。八つ当たりだった」
「はい?」
何かと思ったら、金曜日の夜中に居酒屋で、私が山田先輩相手に愚痴っていたのを聞かれていたらしい。
マジですか。あの、言いたい放題を聞かれていたのか……。
私は取り繕うのが間に合わず、顔を思いっきり引きつらせてしまった。
「お恥ずかしいところをお見せしまして……」
「いや、こちらこそ。仕事だから秋谷さんは話を聞いてくれていたのに、先方にあれこれ言われて、こちらも頭に血が上ってしまっていて……」
エンジニアの人たちは頭を下げて去っていった。
隣では磯山先輩が肩を震わせて笑っている。
まあ、いいか。
お恥ずかしくはあるけれど。
私はスマホスタンドに私用のスマホを立てかけて、山田先輩の顔を映しながら仕事を始めた。
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