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17/30

17.まだ人の形をしていられる。あなたが私の名を呼ぶ間は

 十月半ばのその日の午後、磯山先輩の仕事用のスマホに一本の電話がかかってきた。


「申し訳ございません! すぐにおうかがいいたします」


 磯山先輩はスマホを置くと、焦った顔で私を見た。


「この前始まった案件でお客さんブチ切れなんだけど」


「どれです?」


「これこれ」


 磯山先輩が案件をパソコンに表示してくれたので、私は画面を覗き込んだ。


「これ?」


 OSを入れた機械を納品するだけの、さほど高くもない案件にしか見えない。

 なにか怒るようなことがあるんだろうか?

 予定表には、今日からエンジニアとお客様との打ち合わせと書かれていた。


「なんかエンジニアに要件が伝わってないっぽい。とにかく行こう」


「了解です」


 私は磯山先輩と一緒に会社を飛び出した。


***


 深夜、私はヘロヘロのままパソコンを叩いていた。


「終わらん……終わらん……」


 ぼやく私の隣で、同じようにヘロヘロの磯山先輩が白目をむいていた。


「言うな……止まない雨はねえんだ」


「いつ止みますかね」


「さあ、年内には……」


 要するに、先方の認識違いらしい。


 弊社にシステムの発注をかけた客先のシステム部員と、実際に磯山先輩とやり取りしたシステム部の上役とで、想定に差があったらしい。

 部員さんたちは社内システムの保守をしてきた方々で、すぐ使える状態で納品してほしいというのが要件だった。でも上役はシステム周りがさっぱりで、


「社シス? OSさえ入っていればあとは自分たちでいいように構築するでしょ? 自分たちが使うシステムなんだから」


 という認識で発注をかけたらしい。

 それが今日の午後から始まった要件定義で発覚して、担当営業である磯山先輩とその補佐をしていた私が呼ばれた……という流れだ。


 呼ばれた先では、


「やる気あんのか」


 とぶち切れるお客様と、


「これっぽっちの予算で何ができると思ってんだ」


 と切れ返す弊社エンジニアがいて、一触即発の地獄みたいな空気が漂っており、磯山先輩の話術と、私が半泣きで上役を呼び出すことで、どうにか話の全容が見えてきた。


 そういうわけで、私と先輩は先ほどまで上役と先方の社シス部員にそれぞれヒアリングしていた。

 明日も行かないといけないし、明日までに今日のヒアリング内容の取りまとめもしないといけない。

 時計を見ると日付が変わる直前で、どう頑張っても終電には間に合いそうになかった。


 私は私用のスマホを取り出して、山田先輩に


「終電すら間に合わなさそうです」


 と泣きつくようなメッセージを送っておく。

 もしかしたら先輩から優しい慰めの返事がくるかもしれない。

 内容によっては待ち受けにしておこう。

 というか、先輩の写真を待ち受けにしておこう。

 もはや隠す必要もないし。


 薄暗い営業部内で、明かりがついているのは私と磯山先輩の席だけだ。

 磯山先輩はコーヒーを買いに行っていて、そのうち戻ってくるだろう。


 そうしてまたパソコンに手を伸ばした瞬間、スマホが震えた。


「山田先輩だ」


 スマホに指を滑らせてメッセージを開いた。


『お疲れ様。俺の方は気にしなくていいから、無理しないで』


 ヤバい、今日いちばん優しい言葉をかけてもらった。

 磯山先輩はお客様をなだめるので手いっぱいだし、私はお客様と自社のエンジニアの両方から詰められていて、誰も彼もがイライラしていた。

 そんな中で好きな人からの優しさが身に染みる。染みすぎて、目頭が熱い。


「……いやいや」


 めそめそしてないで、ちゃんと仕事しないと。


「ありがとうございます。えっと……ダメだ、思いつかない」


 頭が回らないから、お礼だけ送って、スマホの待ち受けを先輩の写真に設定した。

 頑張って終わらせよう。


***


 ところがどっこい、ちっとも終わらなかった。

 私はこの一週間、終電で帰ることすらできずにいた。

 毎晩毎晩、山田先輩が優しくニャインに返事をくれるから、どうにか人間の形を保っていられる。そうじゃなかったら、泣きながら逃げ出していた。焼き鳥屋とかに。

 そして磯山先輩に見つかって、連れ戻されるまでがセットだ。


 最後に先輩とデートしたのが九月末の猫カフェで、それからもうひと月近くが経っていた。

 土日は私が休めなかったり、先輩に短期出張が入ったりで、会えていない。

 やだやだ、先輩が足りなくてしぼみそう。


 あまりのしんどさに、金曜日の深夜、私は誰もいない薄暗い給湯室で先輩にメッセージを送った。 


「今日もまだ帰れなさそうなんですけど、今電話していいですか?」


 数秒で既読になって、そのさらに数秒後、スマホが鳴った。


『もしもし、秋谷?』


「せんぱい~……」


『泣くなって。大変なの?』


「大変です~……」


 スマホの向こうから、苦笑する声が聞こえた。


『今、なにしてんの?』


「給湯室で先輩に泣きついてるところです」


『そっか。こっちはさっき帰ってきて、シャワー浴びたとこ』


「は? 写真送ってください」


『やだよ。秋谷疲れておかしくなってるだろ。……そりゃそうか』


 勢いあまってバカなお願いをしたら、普通に流された。疲れていなくたって、先輩の風呂上がりの写真はほしいに決まってるでしょうが。

 そう力説したかったけど、セクハラに当たると気づいて我慢した。


『まだ大変そう?』


「はい……明日も出社です。えっと、来週中に片がつくといいな……みたいな」


『そっか。俺、なんにもできなくて』


「そんなことないですよ!」


『声がでかい』


「そんなこと! ないですよ!!」


『二回言わなくていいから』


 先輩は相変わらず呆れたような声で言う。きっと困ったように眉を下げつつも、口の端を上げているんだろう。ああ、直接見せてほしい。


 ふと、コツコツと壁を叩く音がした。

 顔を上げると、磯山先輩が給湯室に顔をのぞかせていて、唇に人差し指を当てていた。

 あ、はい、すみません。うるさいですね。

 気まずい顔で頷くと、磯山先輩は苦笑して戻っていった。


「先輩。先輩が毎晩優しい言葉をかけてくださるから、私、毎日生きていられるんです。本当なんです。ありがとうございます」


『……うん。秋谷の支えになれているなら、嬉しい』


「なってます。十年前からずっと、山田先輩は私の支えになってくれてます。今のトラブルが落ち着いたら、またごはんに行きましょう。結局、サンマだって食べてないんですから」


『そうだった。必ず行こう』


 寂しかったけど、後ろ髪が引かれて仕方なかったけど、それでもなんとかお礼と挨拶だけして電話を切った。


 営業部に戻ると、磯山先輩も電話をしていた。

 私は音を立てないように気をつけて、自分の席に戻った。


「明日も出社だけど、さすがに終電までにはね。えー、さすがに悪いだろ。……そりゃ、会えたら嬉しいけどさ。……そう? んー……わかった。じゃあ、終わったら連絡する。うん、ありがとね、じゃあ」


 私は何も聞いていない。

 電話の向こうの花沢さんの、意外と優しそうな心配の声なんて、聞いていない!!


「秋谷?」


 スマホを机に置く音と同時に、磯山先輩の、いつもより低くかすれた、休憩前よりはだいぶ元気そうな声が聞こえた。


「はい、磯山先輩」


 私はできるだけ明るい声で、でも顔を上げずに答えた。


「お前は何も聞いていないな?」


「はい、聞いていません。ところで明日の昼はイクラ丼が食べたいですね、磯山先輩」


「この野郎……大盛りまでにしとけよ、あの店高えんだから」


「了解です。今月の季節のデザートはモンブランらしいですよ」


「好きにしろよ。その分働いてくれ」


 磯山先輩は笑ってパソコンを叩き始めた。


 さて、もうちょっと頑張ろう。

 明日のイクラとモンブラン、それから山田先輩とのデートのために。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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